でこぼこ、カンタ
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ぼくはカンタという。周りからカンタくんと呼ばれるので、カンタ「くん」で良しとしている。ぼくの飼い主であるご夫婦――旦那さんも奥さんも「カンタくん、カンタくん」とぼくのことを呼ぶ。今日もにゃあにゃあ鳴きながら奥さんのもとへと近づくと、白い器に缶詰が開けられた。がっつく。おいしい、おいしいなぁ。ツナ缶、ぼくは大好きだ、ノンオイルがいい。贅沢しているなあと思う。ほんとうに、こんなに幸せすぎてもよいのだろうか。ぼくは時折自らの両手に目を落とし、自らの生き方について哲学する。
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与えてもらったごはんを、後輩と一緒に食べていた。後輩――オス、ゲンキという。初めてヒトの目に留まった折、あまりにも小さくて頼りなかったことから、もっともっと健康的に育ってほしいという願いが込められたがゆえの名だ。ゲンキはよく食べるしよく寝る。かわいいし、逞しい奴なのだ。この調子ならきっと一人でも生きていけるように思う。
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食後、近くの神社に向かった。宮司の老人は野良猫にとても理解がある人物なので、境内を景気よく貸してくれる。ひなたぼっこに最適なのだ。ぼくとゲンキはおてんとさまのもと、自身の身体をぺろぺろと舐め、それから揃って香箱座りをする。目を細めるとあっという間に眠気に襲われる。気持ちいいなって思う。こういう安らかな時間に「ああ、猫に生まれてよかったな」と思うのだ。
「あの、カンタさん」
「なんだい? っていうか、くんでいいのに」
「それはまあ……。それより、カンタさんは、幸せですか?」
「そりゃあね。不幸だと述べる理由はないよ」
「カッコいいなぁ」
「そんなことはないよ。むしろ最近、ゲンキのほうがずっと立派になった」
ゲンキが少々、俯いた。
「俺、自分が嫌いなんです。ちょっとしたことで、いつも嘘を言っちゃって」
「嘘?」
「自分に都合が悪いことだと察知したら、すぐに言い繕ってしまうんです」
苦笑のような表情を浮かべるゲンキである。
少なからず自分のことを嫌悪しているような顔に見える。
「そんなこと、カンタさんにはありませんよね?」
「覚えはないけど、かと言って、言い繕うってそんなに悪いことかな?」
「そうですか?」
「うん。そういう奴に限って、悪気なんてないように思う」
「だからこそ、タチが悪いように思うんです」
「ゲンキは名前のわりには慎重だよね」
「馬鹿にしてます?」
「そんなわけ。でも、そう聞こえたのなら謝るよ」
降り注ぐ日の光はなんともまばゆく、暖かい。ぼくは大あくびをしてから一度身体を起こした。きちんと座って、背を正して、ぐっと伸びをした。――あれ? と思った。右手をぺろぺろ舐めて、その手で頭――耳と耳とのあいだのあたりを拭ってみたのだけれど、なにかが手に触れたのだ。平べったいこぶのようなものだった。なんだかとっても気になったので、手を使ってしきりに何度も執拗に撫でた。うち、気づいた。触ると痛いな、って。
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ぼくの飼い主であるご夫婦はぼくのことが大好きだから、ぼくの身体の異変にもすぐに気がついた。ぼくの頭にこぶがあることに気づいたのだ。最初、奥さんはのんびりといった具合に「たんこぶかなぁ」と首をかしげていたのだけれど、そのうち、その表情が一変した。こぶの具合が思わしくないであろうことをまもなく知る。こぶが破裂したのだ。例によって右手で撫でると肉球に血液が付着した。じんじんと痛み、「ああ、これはちょっとよくないかもしれないなぁ」と思わされた、直感的にだ。それでもぼくは「誰かに心配をかける」、それだけはいけないと思って、立ち居振る舞いにその様子は見せないよう努めた。きちっと立って、きちっと歩いて、きちっと走った。だけど、きちんと座って胸を張ってみせても、奥さんは心配げで不安そうな顔を変えなかった。それでもぼくは、頭がじんじんしても、やっぱりきちんと立って歩いた。――しばらく経った頃には、こぶは頭に限らず、身体中にまで満ちていた。
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奥さんの嫁入り道具である古い姿見の前にちょこんと座り、ぼくは自分の身体を眺めていた。こぶだらけだ。右目のまぶたの上、左の口元のそれが特に目立つ。あちこちから「かわいい、かわいい」と褒めてもらっていたときの面影はもうない。いたずらにぷくぅと膨らんだこぶはいまにも破裂してしまいそうだ。実際いくつも弾けてしまって、そのたび血が吹き出し、すると奥さんは決まって飛んできて、真っ青な顔をして、消毒液のついたひんやりとしたティッシュで患部を押さえてくれる。「しみるやろ。かんにんね、かんにんね?」とほんとうに申し訳なさそうな顔をする。その折には決まって近くに旦那さんもいるのだ。ぼくの顔を見てぐしゅぐしゅと鼻を鳴らす。だから、嫌でも悟るのだ。ああ、ぼくにはあまり先がないんだな、って。
ぼくは今日もでこぼこになってしまった醜い顔を、姿見に映す――晒す。嫌な気はしない。つらくもない。おぞましいとも感じない。ぼくはただひたすらに、死だけを見つめようと考えていた。
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さあ、日課の散歩に出かけよう。――と意気込む気持ちも、日に日に萎えてきている。それでも一度やめてしまうともう二度と動けなくなってしまうような気がするから、奥さんに縁側のガラス戸をそっと開けてもらって、外に出る。身体は痩せ細り、歩幅は狭まり、ろくに走れなくもなった。それでもぼくはその状況を悲観しすぎることはなかった。だってまだ動けるんだもの。
ぼくがひょこひょこ歩いていると、ぴゃーっとゲンキが駆け寄ってきた。ぼくは立ち止まり、胸を張って座り、小休止。ゲンキが極度に心細そうな顔をする。ぼくはほんとうに弱ってしまったので、だからゲンキってば最近はいつもこの調子だ。不安と心配だけが二乗になった顔で見上げてくる。
「カ、カンタさん、家で寝ていたほうがいいですよ」
「ゲンキ、きみはニンゲンみたいなことを言うんだね」
ぼくは笑い、ゲンキは俯いた。
「でも、カンタさんっ――」
「明日死んでしまうとしても、ぼくは外を歩くよ。猫なんだから」
ゲンキがしくしく泣きだした。
「俺の寿命、少しでもカンタさんに分けてあげられればいいのに……」
ぼくはゲンキの小さな頭を右手でよしよしと撫でてやった。
「カンタ!!」
いきなり高い声で名を呼ばれた。そこの路地から真っ白なペルシャ猫が姿を現したところだった。マーちゃんだ。マーガレットだからマーちゃん。ぼくの初恋を盗んだ美貌のヒトで、だけど家猫だから、きちんと立派な伴侶を得た女性。マーちゃんもぴゃーっと駆けてきた。息を切らしている。慌てて出てきたのかもしれないし、遠くから走ってきたのかもしれない。そもそもむかしと違っていまは外を出歩くことはゆるされていないはずなのに、どうしてここにいるのだろう。
マーちゃんは薄いブルーの澄んだ瞳でぼくの瞳をじっと見る。それから「ごめんなさい」と一言言い、ちょこんと座っているぼくの身体を舐め始めた。くすぐったいよりも先に、痛かった。でも、ぼくは微動だにしない。一所懸命に立ったままでいる。
マーちゃんはぽろぽろと泣きだした。きれいなあなたに涙なんて流してほしくない。可憐な花びらに触れるような優しさでつぶやくようにそう告げると、マーちゃんはますます泣いてしまった。
こぶのせいでぼくの右目はほとんど塞がってしまっている。ぼくがどう思い、感じていようと、はたから見ればほんとうに醜い姿であるはずなのだ。それでも優しくしてくれるヒトがいる。思いやってくれるヒトもいる。悪い人生ではなかったように思うのだ。線香花火の火種が落ちてしまうまでのいとま。ゆるされたその時間はぼくになにをもたらすのだろう。
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旦那さんと奥さんのあいだには一人娘のなっちゃんがいる。しっかり大学を出て、立派な企業に就職して、それで忙しくしているのだけれど、ぼくが病気だと聞かされると仕事に都合をつけて帰ってきてくれた。それはとてもうれしいことだった――でも当然、なっちゃんには弱ってしまったところなんて見せたくないから、ぼくは彼女にいまの自分を見せるのが嫌だった。だからといって、逃げ回るわけにもいかない。ぼくはもうほとんど動かない左足を引きずって寝床から起き上がり、なっちゃんの前にちょこんと座った。ぼくの全身はほんとうにこぶだらけで醜い。照れくささにも似た申し訳のなさを感じる。ぼくを目の当たりしたなっちゃんは畳の上にぺちゃんとへたり込み、わんわん泣いた。たしかにぼくは猫の寿命で言えばもう少し長く生きてもいいはずだ。でも、病気なのだからしかたない。運がなかったのだ。
ぼくを拾い、この家に導いてくれたのは、なっちゃんだった。高校生の彼女がぼくを見つけてくれた。寒空のもと、ダンボール箱の中で震えていたぼくに慈しみをくれた。初めてのストーブ、その温もりは忘れようがない。ミルクの温かさも、きちんと身体で覚えている。
正直、身体は痛い、身体中が痛い、もうキツい。だけど、なっちゃんの抱っこは拒まなかった。ぼくはなっちゃんのために生まれ、生きてきたんだろう。そんな思いを抱くのも、嘘ではなかった。
「カンタくん、カンタくん、私を置いていかないでよぅ……」
なっちゃんは泣く。ぼくは「にゃあにゃあ、にゃあにゃあ」鳴く、ありがとう、ありがとうございました、って。お世話になりました、って。
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身体の表面どころか、こぶは内側にまで及んでいる。そんなことはもうとっくにわかっていた。お医者さんに言われなくたって、わかっていた。いよいよ明日にも動けなくなってしまいそうだ。だからこそ、その最後の日には外に出ようと決めていた。奥さんは旦那さんとともにぼくが望むとぼくを外に出してくれた。ぼくはマーちゃんに会いたくて、ゲンキにも挨拶がしたかった。
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最近、外出はできなかったのだけれど、どうやらゲンキは毎日毎日、家の前に様子を伺いに来てくれていたらしい。久しぶりに表に姿を現したぼくの姿を見ると飛んできた。目の前まで来ると俯き、ぽたぽたと涙をしたたらせる。それはそうだ。たとえば反対の立場――身体中がこぶだらけになり痩せ細ってしまったゲンキを見た日には、ぼくだっておいおい泣いてしまうことだろう。
「ゲンキ、今日でお別れだ」
「えっ」
「ぼくはもう動けなくなる。だからさよならを言いたかったんだ」
「そんな……」
ゲンキは頭を抱えてしまう。ちょん、と切られたゲンキの左耳に目がいく。黒猫ゲンキは地域猫だ。みんなに大切にされている。愛されている。ゲンキがゲンキでいる限り、ゲンキは元気でいられるだろう。
次はマーちゃんだ。
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マーちゃんに会うのは難しい。家は大きいし、表には大きなブルドッグがいる。もう腐ってしまったのではないかと思わされるくらい動きの鈍い前足を掻くように動かして、門にまで至った。すっかり細くなった身体を門の格子のあいだにねじ込む。ブルドッグに見つかった。でも、吠えてこない。どうして?
ブルドッグが「男らしい奴には吠えんさ」と大らかに笑った。むやみやたらに敵対視しないあたり、本物の番犬だなと感じさせられた。立派なのだ。感心だ。
「ウチの姫君はそろそろ日光浴の時間だ。待っているといい」
お言葉に甘えることにした。
すると、まもなくしてマーちゃんのましろの毛並みが目に映り――。
それはそれは、いつにも増して美しく見え――。
マーちゃんはぱたぱたと駆け寄ってきた。いまのぼくの姿を目の当たりにして驚いた顔をし、目を大きくして、それから生身のぼくと向き合ってくれた。朽ちる直前の枝のように不格好で不確かなぼくと向かい合ってくれた。
「いろんな猫と出会って、いろんなヒトと出会って、いろんな生き物と出会った。けっして悪い一生じゃなかったんだ」
「そう……。あのね、カンタ、私、決めているから。生まれ変わったら、今度は必ずあなたと一緒に――」
「その先は言っちゃいけないよ。いま、この瞬間にも、大切な旦那さまがいるんだから」
「でも――」
「ぼくは幸せだった。それだけさ」
ぼくはくるりと身を翻す。颯爽さを心掛けた。もう開きやしない右の目から涙がこぼれた。最も悲しく、それでいて最高の涙だったように思う。
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体力が限界に至ったのか、それとも気力が切れてしまったのか、それはわからないけれど、翌日からぼくはほんとうに動けなくなった。もう動けないのかぁと実感しながら横たわるだけになると、身体がほんとうに痛い、つらい。きっと誰もこんなことになるだなんて思っていなかった。ぼく自身、まさかこんなかたちで最期を迎えるとは思わなかった。それでもたくさん愛し、たくさん愛された一生だったから、悔いはない。むしろ贅沢すぎたくらいだ。だから、ありがとう、みんな。
身体はすっかりでこぼこになってしまったけれど、身体の中で、もっと言うと胸の真ん中の真ん中でほくほくしている優しい心はまあるくてとてもすべすべしている。
むかし、ポーくんという友だちがいた。脚の短い種類で、でも詳しいところは忘れてしまった。いい奴だった。それだけ覚えていれば、オールオッケーだ。ポーくんは生まれつき、心臓に穴が空いていた。それくらいでちょうどいいのだと本人は話した。笑っていた。「俺様は元気すぎるからそれくらいでちょうどいいんだ」って。実際、ポーくんはとても元気な猫だった。賢くもあった。車の通りが多いところで暮らす野良猫にはきちんと交通マナーを教えて回っていた。家猫なのに立派なものだと唸らされたものだ。ポーくんはご主人さまの都合で引っ越してしまったけれど、ぼくより年上の猫だったけれど、彼ならまだまだ元気でやっているような気がする。
死ぬときは誰にも見られたくない。猫はそう考えるから、最期は一人なのだという。ぼくはいま、よろよろと家と家の隙間の路地を歩き、その旨、体現しようとしている。
がんばって生きた。
最後はちょっとみっともなかったかな?
それでもできるだけ、気を張って、粘って生きた。
ぼくはまもなく涅槃を見ることになるけれど、ぼくに優しくしてくれたヒトには、これからもずっと、死ぬまでのあいだは幸せでいてもらいたい。
でこぼこカンタの、それは望みだ。