4 カメリアの封印―道は、貴方の為にー⑦
揺らめく炎の赤。透明なシャンデリア。天窓から覗いた青い空。同じ色の瞳。そして、おびただしい量の鮮血。
ああ、この世界は。
やがて終わりを告げる鐘の音が、何処か遠くで響き渡って。うつくしきこの世界は、最早誰のものでもなく、自分のものですらなく。ただ、際立つその。
うつくしさが。
とめどなく溢れてくる。
「綺麗だ……」
呟きは何処へゆくのだろうか。かすれて消えてゆくのだろうか。その前に届くのだろうか、自身がゆきたかった場所へと。焦がれるように願った場所へと。
口の中に錆びた鉄の味が広がった。もう呼吸をするだけで身体は千切れそうに痛い。早鐘のような心臓が、必死で最後の足掻きを続けていたが、それは先を急いでいるに過ぎなかった。その逝き急ぐ行動を止めることは不可能だった。――失われてゆく。自分の中から、ひっきりなしに。
「クリス、クリス!!」
先程とは違う種類の涙を零しながら、リドゥが言葉にならない叫びの間に切れ切れにそう何度も名を呼んだ。
「何で……! どうして、こんな――!」
問い掛けにならない問い掛けを繰り返す。それを耳に収めながら、クリスは霞みがかった思考を必死に呼び戻した。
――負けた。自分は彼のただ一言に負けたのだった。
本気で殺されるのだろうと思った。その一方で手を止めるかもしれないとも思った。分かっていた。どちらになってもどんな反応を見せるのかという予想は出来ていた。それでも。
『僕には、できない……』
言ったリドゥの顔と。その嘘の無い純粋な涙と。スカイブルーの瞳に。
(人、生、と、は……)
人生とは先が見えるものではなく。運命とは抗いがたく存在するものではなく。そこに有るのは無数の道。そのどれもが全て自分自身の為に。
自分の全てを苛む苦痛と戦いながら、クリスは生まれて初めて人前で泣いた。自身の手が切れるのも厭わずシャンデリアの下から自分を救い出したリドゥの前で。目にした彼の顔が、涙の所為だけではなく滲んでいく。
今、この微かに残る意識を手放せば多分もう二度とそれは自分の手の中へ還ってはこないだろう。そんな思いがクリスの頭を過ぎる。――不思議と、怖くはなかった。呪縛から解き放たれたシャンデリアが嬉しそうに落ちて壊れたように、何も後悔はしない。終息していく時間。それが還るのは、もう二度と戻れなかった筈のあの場所へ。求めていた、心の底へ。うつくしき世界へ。見えない軌跡は鮮やかに、あの場所へと進んでゆく。
「――クリス!!」
悲鳴に近い絶叫が微かに届いて、その持ち主が半狂乱になりながら自分を揺するのを感じた。
ああ。
近付く。
そして。
遠ざかる――。
最後の瞬間、カメリアの紋章を手放したクリス・マクドゥールは、ゆっくりとその睫毛を伏せた。ブルーグレーの瞳が瞼に永遠に封印される。
「クリス……!!」
辺りにリドゥの声が響き渡る。それを押し潰すように壁の崩れ始める音がした。リドゥは呆然としたまま動けなかった。足に枷がはめられているようだった。本能は、必死にここから逃げ出そうともがいているのに、手を動かす事すらままならない。
『……後から行く』
その時不意に脳裏を過ぎったのは自分自身が口にした台詞だった。そしてライカ・サファイアの真摯な横顔。
「――クリス……」
今呼びかけたのが何度目になるのか分からない名前。フォーディーン王家が戴くカメリア。――散る時は、潔く、椿の様に……。
「僕は、行かなけりゃならない……」
リドゥは瞳を閉じた。水のように身体に浸透してゆく言葉。行かなくては。自らを突き動かす呪文。
「クリス、……」
彼はもう一度だけその名を呼ぶと、自分の羽織っていたマントを脱いでクリスの身体にふわりとかけた。そして、振り返らずに走り出す――。