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2 嵐の前の静けさ⑤

「――あ」

 数日間の仮縫いの悪夢からようやく開放されて、リドゥはいつもの樹の上でクリスを誘ってゆっくりと羽を伸ばしていた。今日の天気は少々曇りがちだが、思ったよりも速い雲の流れを見ているのも楽しくていい。

「どうなさったんですか、王子」

 そこで唐突に声を上げたリドゥに、クリスはすぐさま反応した。

「ほら、ちょっと見て、そっちの樹の枝」

 リドゥが指差したのは丁度隣りに生えている白樺の樹の枝だった。

「ほら、その枝の先」

 名前の通り白い枝のすっと伸びた先に、黒いものが蠢いている。

「ああ、あの黒いものですか。――何でしょうね」

「うん、ちょっと気になって……。何だろうな、あれ」

 と、その黒いものがこちらを振り返った。自分の目線とほぼ同じ高さに二人の人間を確認してにゃあ、と鳴き声をあげる。

「猫ですよ、王子」

 その声を聞いてクリスがそうリドゥに言った。

「そうみたいだね。……降りれなくなったのかな」

「庭師を呼んで参りましょうか」

 そう言って降りる準備をしかけたクリスをリドゥはすぐさまいいよ、と制し、それより、と口を開いた。

「それよりちょっとこれを持っててくれないか」

「え?」

 反応が返ってくる前にリドゥは自分のマントをばさりと脱いでクリスに投げて寄越すと、枝の上に立ち上がって隣りの白樺に手をかけた。

「お、王子?!」

「いいから、落とした時の為にそれ広げて下で待ってろって。ほら、早く」

 慌てふためくクリスをものともせずリドゥはそう言いながらよっと勢いをつけて白樺の枝に飛び移った。

「王子!!」

「いいから早く!」

 リドゥはそう叫ぶと、くるりと猫のいる枝の方に向き直った。

「ほら、動くなよ。僕は助けに来たんだからじっと待ってろよ……」

 囁きながらゆっくりと細い枝に手をついて、猫の方へと向かって行く。黒猫は、――まだほんの小猫だった――不安げに何度もにゃあにゃあと鳴いている。

「大丈夫だよ、ほら、じっとして――」

 仕方なく樹を降りて下から見守るクリスははらはらと心配そうにその様子を眺めている。猫はリドゥの言葉を解したのかそうでないのか、ゆっくりとこちらへ歩き出した。重みで少し枝がたわむ。

 大分猫との距離が縮んだところでリドゥが思い切って腕を伸ばした。

「ほら、こっち!」

 猫はにゃん、と一声あげてぴょん、とその腕へ飛び込んだ。それを危なげなく受け止めてリドゥはほうっと溜め息をつくいた。

 と、そこで気が緩んだのか枝の上においていた右腕がずっと滑った。

「……!」

 リドゥは何とかバランスを保って落下する事だけは避けたが、猫で両手が塞がっている以上体勢を立て直す事は非常に難しい。

「猫をお離し下さい、王子!」

 思い余ってクリスが叫んだ。

「そのままでは王子まで一緒に落下してしまいます! ――私がマントで必ず受け止めますから!」

「絶対落とすなよ!」

 そう返事をし返してリドゥは出来うる限り腕を地面の方へ近付けると、ごめん、と呟いてそっと猫を手放した。加速度のついた猫はかなりのスピードで落ちていったが、言葉通りクリスが上手くマントで受け止めた。

「王子、ご安心を、猫は無事です」

「そうか、良かった……」

 不自然な姿勢のままでリドゥは安堵の溜め息をつき、ぐっと身体に力をこめると上半身を持ち上げた。

 それを見て今度はクリスが安堵の溜め息をつく。するする、と目の前に降りてきた王子をクリスは安心したような渋い顔で迎えた。

「――無事で良かったです。でももうこんな無茶な真似はなさらないで下さいよ。何度も申し上げたようにもうじき成人の儀なんですから、怪我などされては――ああっ、右腕から血が出てるじゃないですか!」

 台詞の最初の方は説教口調だったクリスだが、途中ふと目をやった王子の右腕から血が流れているのを発見して最後の方は半ば悲鳴の様な声を上げた。

「え? あ、ほんとだ」

 言われて初めて気付いたのか、リドゥはしげしげと自分の右腕を見つめた。

「ほんとだ、じゃありませんよ! ――全く、どうして貴方って方はいつもいつも……」

 そこで大きな溜め息をついたクリスにリドゥはうつむきがちに綺麗な笑顔を向けた。

「……何が可笑しいんですか」

「え、ああ、本当に心配してくれてるんだなあって思ったら嬉しくて」

 やや純粋すぎる台詞を臆面もなくさらりと吐いて、リドゥは足元の猫を抱き上げた。

「どこも怪我してないな……。ありがとう、クリス」

「え、あ、はい……」

 毒気を抜かれたかたちでクリスは反射的に頷いた。が、そこですぐさま我に返ってびしりと指をリドゥに突きつける。

「そんな事は当り前なんだからどうでも良いんです。それより、すぐ手当てを……」

「どうでもなんか良くないよ」

 その台詞は最後まで言われずに割り込まれた。右腕が少し痛むのか、左腕だけで猫を支えた王子によって。

「どうでもなんか良くない。……クリスは僕の事を心配してくれてるんだろう? だったらそれは感謝すべき事なんだ」

「いいえ王子。それは当り前です。私は王子をお守りすると誓いましたでしょう」

 クリスはゆっくりと首を横に振って異を唱えた。

「……それでも礼を言わせてくれ。ありがとう」

「身に余る光栄です」

 居住まいを正してクリスが囁く。リドゥはそれと同じ目線になる位置にしゃがむと、きっちりとブルーグレーの瞳を見つめて言った。

「じゃあ僕も。お前に何かあったら必ず助けに行くよ」

 深い青の瞳に自分が映っているのが見えた。クリスはふうっと息を吐き出すと、一度目を伏せ、それから再び顔を上げて青の瞳の中の自分の姿を確認した。

「有り難き幸せ……。願わくば、そのお言葉、お忘れ無き様――」

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