3 君への回帰③
大事なものが増えるたびに、ひとはぼろぼろと弱くなっていくような気がした。その良い例が目の前にいた。たかが樹にまで執着を見せ、嵐の晩は落ち着かなそうに城を歩き回っていた。皆が止めるのも聞かずに、結局彼は風の中こっそりと外に出ていった。
――そんなことをしたって無駄なのに。
心の中でそう呟きながら、自分は私も行きます、と答えた。その言葉に彼は嬉しそうに微笑んだ。
『いいよ、危ないから』
その言葉が吐き気を催したのは、それが寸分の狂いも無い真実から来るものだったからだった。巷に溢れ返る、そしてある意味物事の根幹を捉える偽善ではなかった。
(馬鹿みたいだ)
馬鹿みたいな、生き物だ。
メイドを誤魔化して持ち出してきたレインコートには、穴を穿つのではないかと思われるほど激しい雨が降りつけていた。こんなに近くにいるのに、その声すら聞き取ることが難しかった。歩みを全力で妨げる大風に、樹は幹ごとしなり、葉を殆ど投げ出しかけていた。――さあ、こんな状況で何をすると言うんだ? その無力さを思い知るだけじゃないか。
そんな思いを悟られぬように柔らかな微笑を保ちつつ、自分はそのまま彼を見つめた。
そして。
彼は暴れるように靡くコートのフードを押さえる手を離し、現れた髪が乱れきるのも気に留めずに、すっと樹に登り始めたのだった。
『王子! 何をなさるんですか!』
次の瞬間、自分はそう叫んでいた。え、と登りながら彼が聞き返す。
『危ないですよ!』
もう一度、自分は強く言葉を区切って叫んだ。
『平気だよ!』
至極あっさりとした答えを彼は返して寄越し、そのまま一心不乱に登るのを続けた。やがて、太い枝にさしかかると、今度はやおらポケットから小さな袋を取り出し、枝の先端に結びはじめた。新芽を、守ろうとしていたのだった。
数日前、この樹が大好きな彼は自分を誘い、語学教師の追撃をかわしつつ今と同じように枝の上に腰掛けていた。その時、あ、と小さな声を唐突に彼は上げた。
『ほら、新芽が出てる……。随分早いんだな』
あれを、彼は守ろうとしていた。
結局、その甲斐なく晩に樹は風になぎ倒された。嵐が去った翌朝、自分達はそれを目の当たりにした。彼はどんな顔をするのだろうと横を盗み見たが、少しうつむき加減になっているだけで、その様子は普段とほぼ変わりが無かった。
やがて、その場所に別のもっと大きい樹が植えられた。彼のお気に入りはあっさり取って代わられた、ように、見えた。前よりも高く。空に近付ける樹に。
だけどある時それが間違いであったことに自分は気付く。優しさにうずもれた手で、彼は庭師と共に樹の『補強』に励み始めた。根元を強くするように。簡単に倒れぬように。自分に手伝え、とは一言も言わなかった。父親に訴えれば、あっという間に国中の庭師が彼の『樹』を守りに来るだろうに、それもしなかった。ただ、自分の手で黙々と作業を執行した。それがひどく癇に障って、自分も黙ったまま彼の隣りにしゃがみ込んだ。ふと気配を感じて彼が顔を上げる。
『私もお手伝いします』
彼は、お前は良いのに、と言いかけて、口を閉ざした。しばし後、代わりに唇からこぼれ出たのは、
『ありがとう』
だった。