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2 もう戻れない場所⑥

『……』

 重苦しい眠りから解き放たれて、イリヤ・エヴァレットはゆっくりと瞳を開けた。靄がかった世界がどこか揺れている。

『……?』

 ここは、どこだろう。自分がいた書斎とも違うようだ。ここは――。

 イリヤは考えをまとめようとして、前髪をかきあげようと左手を僅かに持ち上げた。すると、手首に不思議な違和感が有った。

(何だ……)

 彼は訝しがりながらも左手首を自分の目の上にあげた。白い包帯が視界に飛び込んでくる。そこが脈打つのが自分でも分かった。イリヤは目を見開いたまま右手を伸ばし、恐る恐るその包帯をほどいていった。やがて露わになったのは刃物で切ったような大きな傷痕だった。

『え……』

 そこへロイドが戻ってくる。彼はイリヤが目を醒ましたのを見て取るとほう、と安堵の溜め息をついたが、手首の傷痕を何処か驚愕した表情で見つめているのに気付いてふと顔を険しくした。

『イリヤ』

『――先生』

 一瞬だけ傷痕から目を逸らしてイリヤは答えたが、すぐまた元のところに視線を戻した。

『気が付いて本当に良かった……』

『……先生、これは――』

 ロイドの台詞を半ば無視してイリヤはそう尋ねた。

『……』

 ロイドはしばらく思案した後、おもむろに口を開いた。

『……傷痕を見ればお前でも分かるだろう』

『これは、これは――俺が自分で切ったのか……?』

 それは心からの疑問だった。自分がそんなことをする訳がない、などと言うような自信ではなく、本当に分からないことを問う疑問。

 誰かに狙われた、と言う可能性が皆無に等しいことは彼自身大いに理解していた。狙われる理由など無いし、さっき師が言ったように、完璧すぎて寸分の乱れも無いこの傷痕を見ればそんなことは明らかだ。間違いなく自分のつけたものである。そして、別人格が入り込む余地も無い程に隙間なく心はある一つのことで埋められている以上、考えられるのはこの事件が記憶にも残らないほどの無意識下で起こったと言うことだけだ。

『憶えてないのか……』

 ロイドはそう呟いて嘆息した。あまりに痛々しい事実だった。


 二度目の事件が起きたのは、その傷がまだ癒えやらぬ頃だった。今度は兵士の目の前で、城の裏手に流れている川に突然身を躍らせたのだった。幸い目撃者がいたお蔭でイリヤはすぐさま助け出されたが、ろくに食事もとらない弱った身体に冬の冷たい水は、いかに『水』の守護を持ってしても凶器にしかならず、彼は肺炎を起こしかけて再び生死の境をさまよった。

 目覚めてからは、あの時と同じ。自分の身体が激しい熱を内包している理由を、彼はまたも答えられなかった。

『……憶えていませんか……? 貴方は私の目の前でぼんやり川を眺めていたと思ったら、いきなりそこに飛び込んだんですよ』

『……』

 イリヤは頭痛に苛まれながらも力無く首を横に振った。口をきく気力は最早失せていた。またやってしまった、という事への驚愕の方がずっと深かった。記憶からすっぽりと抜け落ちてしまった二つの事件。同じ様に彼女の事も忘れてしまえばどんなに楽だったろう。瞬間瞬間にあらわれた思いはいつしか風化してゆくのに、その姿や仕草や声はいつまでも鮮やかなままで――。

 忘れたくなくても忘れてしまう様々な記憶が世の中には存在する。その代わり世界にはまた、忘れたくても忘れられないものや、すんなりと忘れてしまえるものも確かに存在しているのだ。イリヤ・エヴァレットにとってそれらは、彼女への克明な一瞬一瞬の感情であり、彼女の死であり、自らの自殺未遂であった。無意識に望んだのは自分の死。今までの全てを無にしても、時を戻して欲しかった。色褪せた世界の全てを否定してしまいたかった――。

 弱さを背中合わせにした強さ。どれだけ願い望んでも叶えられない夢想。前を向きたい気持ちは、何処かで完璧に負けてしまっている。

(どうすれば)

(俺はどうすれば)

 心に渦巻くのはそんな疑問ばかりだった。もう色褪せてしまったこの世界で。誰の為に何を、何に支えられてどうやって生きる。

『……お前は生きろ』

 不意にはっきりとした声が聞こえた。抑えてはいるが、確かな鼓動を持った声。

『辛いだろうが、お前は生きろ。彼女の為にとは言わん、ただ自分の為に。お前を構成している全ての為に。――それともお前は、自分が先に死んだら彼女に後を追ってきて欲しいのか……?』

『……』

 沈黙したままイリヤは素直に首を横に振った。躊躇する間も無く、この生命と引き換えにしても彼女が生きている方がずっといい。どれだけ願っても届かぬけれど。

『それではイリヤ、お前は生きるんだ』

 何処までも限りなく広がる砂漠の前に、渡ることすら諦めてそこに倒れるのはやめるんだ――。


 その言葉をくれたのは、ロイドだった。その言葉は確かに自分の為だけに生まれたものだった。そして、間違いなく、優しく、温かく、厳しく、心強く、――そして胸を打つものであった。――それを、裏切ったのは自分の方だった。

(彼女を殺したのは王妃)

 打ち込まれた楔は、もう果てようとする生命の最後の炎を燃やし尽くそうとしている。イリヤ・エヴァレットが生きた証に。彼女が存在していた証に。歴史にその名を深く深く刻み込むようにして。

 そして彼は最後の審判を待つ。もう戻れない場所への身を焦がすような憧憬に心を奪われながら。降り止まぬ雨は全てを隠してくれるけれど、もう見ていたくはない。

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