2 もう戻れない場所⑤
『ああ、これはロイド様。わざわざお越し頂いて恐縮です』
イリヤ・エヴァレットの執事は歓迎の意をそう示してロイドを迎えた。
『堅苦しい挨拶は抜きにしませんかな。単刀直入に伺おう、我が弟子は今どうしている?』
ロイドはきびきびとした口調でそう尋ねた。それが、と躊躇いがちに執事は口を開く。
『あれ以来用がある時以外はお部屋の方にこもりきりで、食事をお持ち致しましても殆ど口になさりません。それでいて誰かとお会いなさる時や宮廷に行かれる時のご様子は普通に見えますので余計おいたわしく……』
そこで執事は言葉を濁した。ロイドは眉根を寄せる。そして、
『部屋に上がらせて頂きますぞ』
そう言うと、返答を待たずにつかつかと進んでイリヤの私室の扉を数回ノックした。返ってきたのは沈黙だった。
『イリヤ?』
名前も呼んでみる。だがやはり返事がない。ロイドは嫌な予感が背中を這うのを感じた。彼はドアノブに手をかけると、一気に扉をばん、と開いた。
中には、机にうつ伏せているイリヤがいた。
(寝て、いるのか……)
だがその考えは数秒後に早くも崩された。ドアから吹き込んだ風の所為で、彼の腕の下敷きになっていた紙束がふわりと揺れたのだ。文字が書かれている筈のその白い紙には、どす黒い血がこびり付いていた。
『イリヤ、イリヤ!!』
ロイドは慌ててイリヤに駆け寄った。左の手首でひきつれたような傷が口を開けていた。寸分の狂いも無く正確に切断された動脈、そこからひっきりなしに血液が流れ出している。
『イリヤ!!』
かたく閉じられた瞳は容易に開く筈もなく、触れた頬はもう僅かな温みしか残っていなかった。
『どうなされました?!』
ロイドの声を聞きつけた執事が部屋に飛び込んでくる。そして彼の腕の中の主人を認識して息を呑む。
『早く医者を呼べ! 今すぐだ!!』
ロイドはそう大声で指示すると、唇を噛み締めた。
『分かっていた、筈なのに……』
自分の取った弟子の中でも出色の出来だったイリヤ・エヴァレットはまた、四大元素全てを従えてもおかしくないような稀代の精霊使いだった。それが守護魔法を司る『水』のみを使っていたのは一重にアーデルハイトの言葉の為だった。
「貴方はそんなものの力を借りなくても平気でしょう? 強いのと優しいのが同居できるのが最高の生き物よ――」
人生の辛酸ばかりを舐めて生きてきた彼に、世界の全てを支える情熱を芽吹かせたのは彼女だった。だからその彼女が亡くなった時、いずれこうなるであろうことはある程度予想がついていたのだ。だが心の何処かで『あの』イリヤがまさか、と高をくくっていたのもまた事実だった。昨日宮廷ですれ違った時には多少落ち込んではいたものの、それは愛した人間を失った者としては当然の態度であり、ロイドはそこまで深く捉えてはいなかったのだ。
『イリヤ……』
駆けつけた医師に必死の治療を施されて一命を取りとめた彼は今、真白なベッドに沈んで眠っている。あれだけ深い傷痕で助かり、今回復に向かっているのは正に奇跡だと医師は語った。
『彼の精霊達が何か力を貸したのでしょうかね……』
『……』
それとも彼女の祈りか。この屋敷から良く見える緑の丘の上で。Requiescat in Pase――。
魂よ、安らかに眠れ。