2 もう戻れない場所④
外ではいつしか雨が降り始めていた。この城の大きな天窓を雨粒がさあっという音を立てて流れ出す。静けさの中、響くのは雨音とイリヤが彼女を抱き寄せる衣擦れの音だけだった。
『……連れて帰って構いませんでしょうか』
ふとイリヤが公爵の顔を見上げた。突然の問いかけに彼はしばし反応が遅れたが、あ、ああ、とだけ返事をした。
『……。御前失礼致します――』
イリヤは緩慢な動作で頭を下げるとすっと彼女を抱き上げたまま踵を返した。大理石の床が靴音を作り出す。背中を見せたまま、謁見室のドアが軋んだ音を立ててぎいい、と閉まった。後に残った白い布には幾つもの染みが有った。
『……どうして、どうして……!』
城門の前で、イリヤはいつもの様に雨をよけることなく身体中に浴びながら呟いた。頬を滑り落ちたのは雨粒なのか涙なのか分からない。ただ、永遠に返ってくる筈のない答えを求め続けていたかった。今までの全てを無にしても、時を戻して欲しかった。
誰よりも、誰よりも、誰よりも。
(――愛している)
「忘れられない思い出にして綺麗に磨いておいた方が良いわよ」
「――だから、強くなってね」
「貴方はそんなものの力を借りなくても平気でしょう?」
「――ちゃんとエスコートして頂戴」
――そして。
「イリヤ」
名前を。もう二度と。あの声では。
自分の瞳と同じ色の宝石を選んだ理由をまだ聞いていない。「後でね」は一生訪れない時間と成り果てた。
(……愛している)
空虚な時間に響き渡るのは彼女の声だけだった。それに重なるようにして、何度も何度も、言葉が、こぼれた。
「アーデルハイト……」
神聖で冒涜など永遠に赦されないものの名を呼ぶように、けれどそれは薄氷を踏むに似た何処か頼りなげなところが有って。
その指先も美しい黒髪も少しきつめの目元も皮肉げな唇もすっと伸びた背筋も紡がれる言葉も全てをただ、沈黙の空白に。
けれど全てはここで無に還る。幾ら台詞を連ねたとしても、最早それは届かぬのだから。その気持ちを完全に表現する術を自分は持っていない。