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2 もう戻れない場所③

『……』

 何の御用でしょうか、と今更問う必要は無かった。否、問う事は出来なかった。唇は意志に反して激しく震えた。何が起きたのか彼は一瞬にして悟っていた。中庭に落ちた何か。今日に限っていつもの時刻に姿を見せなかったアーデルハイト・ミクラン。彼女の唯一人の身内であった母親は二年前に亡くなった。そして彼女と一番仲が良いであろうと思われている自分が呼ばれて。今目の前に有るのは……。

『……』

 在る、と思えない自分が悲しかった。それはどうしても有るだった。存在するのはものかひとか。世界は何を受け入れ、何を排除するのか。

 佇んで動かない彼に王妃の側に仕えた大臣は、お気の毒に……と呟いた。彼の耳にそれが届いたかどうかは分からない。だがその意図する所は十分すぎるくらいに胸に響いた。

『……御愁傷様です……。アーデルハイト・ミクランが亡くなりました……。塔のテラスから誤って中庭に転落して……。――顔は、ご覧にならない方が宜しいかと……』

 躊躇いがちに大臣が言葉を紡ぐ。自分の息子ほどの若造に慎重すぎる程に言葉を吟味して、敬語を用いたのは、死者に哀悼の意を表し、彼の稀有な才能に敬意を表したと言うよりも、彼の現在置かれた境遇にいたく同情したからであった。

 決して『言葉』を交わさぬ二人であった。だがそこにはそんな約束事は超えた繋がり、と言うものが確固たる地位を築きながら存在していた。そしてその繋がりはイリヤ・エヴァレットと言う人間がこの世に生まれてから初めて手にしたものに違いなかった。

 幼い頃に不慮の事故で両親を一時に失った。そしてイリヤはたった一人で、遺された僅かばかりの遺産を狙う仮面を被った大人達に晒され、十五でたまたま王妃のお供で離宮に来ていた国一と謳われたロイドにその才能を見出されるまで戦い続けていた。

 それまでの経験から人間不信に陥っていた彼をそこから引き上げたのが、当時剣に興味を持っていてロイドに師事していたアーデルハイト・ミクランだった。彼女は彼を不幸な人間だからと変に特別扱いする事もなく、過剰な同情を見せる事もなく、近寄り難いからと離れる事もなく、唯大人びた表情で穏やかにイリヤに接した。普通と変わらずに。

 普通、という事があの時どれほど彼の心に響いたのか分からない。しかし口数の少なかった少年は彼女と皮肉の応酬をするようになり、積極的に剣の練習をするようになり、精霊使いとしての才能も開花させて彼女の言葉通り『水』だけを守護につけ、そして何より綺麗に微笑うようになった。そしてそれを全て導いたのは他の誰でもない彼女だったのだ。アーデルハイト・ミクラン。美しく聡明な気高い女性。

『……あ! あの……!』

 慌ててメイドが制止したのを振り切って、イリヤは彼女の顔にかけられていた白い布を剥ぎ取った。そこには一縷の望みが有った。指輪は確かに彼女のものだった。昨日嵌めていたエメラルドの指輪。服は確かに彼女のものだった。でも、まだ顔を見ていない。もしかしたら、数億分の一の確率を超えて、これは彼女ではないのかもしれない。

『……!』

 ふと、イリヤの手が凍り付いて動かなくなった。

 白い布の下から現れたのは、見るも無惨に歪んだ『死体』の顔だった。身体中が震えて、それで彼はようやく皆が自分の行動を必死に止めようとした理由を思い知った。まるで極寒の地に薄いマント一枚で放り出されたようだった。次第に肺に入ってくる空気さえが薄くなってゆく。 誰もが彼に声をかけるのを躊躇う中、口火を切ったのはここの公爵の一人娘で現フォーディーン国王妃――ティルデ=フォーディーンだった。

『……大丈夫ですの?』

 視線を合わせる事が出来ずに、瞬きを何度も繰り返しながら彼女は小さな声で問う。イリヤは、ゆっくりと顔を上げた。翠の瞳は透明な硝子のような輝きを帯びていた。やがて、彼は微笑みさえ浮かべながらそっと答える。

『何がですか……?』

 気まずい沈黙が一層深まった。無理をしていると傍目にも分かるような冷静ぶりではない。殆ど普段と変わりがない。違うのは、いつも彼が纏っていた自信の表われの様な空気がないだけ。それすらも注意深く観察しなければ失われてる事には気付かないだろう。そしてだからこそ、だからこそ余計に傷の深さが伝わってくる。

 そんな周りの心情を知ってか知らずか、イリヤはティルデがそれ以上言葉を続けないのを確認するともう一度彼女の、アーデルハイト・ミクランの前に膝をついた。そして、生きていた時の面影を殆ど留めていない、冷たいその唇にそっとくちづけた。

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