2 もう戻れない場所①
さあ、と優しい音を立てて、雨が降り始めた。細い絹糸のようなそれは、見る間に木々を濡らしていった。葉は手のひらで包み込むように水をためる。それを指で弾いてみれば。ひときわ大きな雫が頬に飛んだ。
雨は、全てを溶かすように。癒すように。――そして、たたみかけるように、思い出を引き寄せる……。
あの日は雨。
『――貴方の見てくれに騙されたかわいそうな女の子達はとっくに愛想を尽かしちゃったでしょ?』
どこか皮肉げな口調でアーデルハイト・ミクランは唇の端に笑みを滲ませた。頬杖をついて、イリヤ・エヴァレットもまた超然と、まあね、と答える。
『でもお前の見てくれに騙された気の毒な男達は、とっくに真相を掴んで逃げたんだろ?』
『まあね』
同じ調子で彼女が答える。そこで二人は視線を合わせて微笑みを交換した。
『じゃ、誰も相手がいない気の毒な貴方のパートナーになってあげてもいいわよ。マイバハール公爵様の主催するパーティーですものね、久々に王妃様もお帰りになっているって言うし、まさか一人では行けないでしょう?』
『――そんなのお断りだって言ったら?』
『……。そういうところが詐欺なのよね』
『他人の事は言えないだろう』
『まあね』
『まあね』
『……何が可笑しいんだ?』
『色々よ。分かるでしょ?』
人生って言うのは難しいわね、と彼女は呟くと仕事に戻って行った。結局話題にのぼったパーティーに関して、明確な結論が出ぬまま二人は別れた。でもそのパーティーの当日、彼女の家の前にはイリヤ・エヴァレットが立っていた。
『……遅い』
アクセサリーを選ぶのに手間取っていた彼女に、彼はそう言い、彼女は謝る代わりに右の手をぴん、と差し出した。その薬指には小さなエメラルドの指輪が嵌められていた。
『ちゃんとエスコートして頂戴』
触れられたイリヤの手は少し冷たかった。
『ねえ、イリヤ』
『何?』
『……やっぱり何でもないわ』
『……』
イリヤは何か言いたげに口を開いたが、遂にその台詞を口にする事無く彼らは目的地に着いた。
『イリヤ』
マイバハール邸に着いた直後、アーデルハイトは再びイリヤの瞳を見つめてそう名を呼んだ。ちょうど客足が一段落ついた頃で二人の姿は期せずして目立つ格好となった。稀代の精霊使いでありながら国一番の剣士ロイドの一番弟子、イリヤ・エヴァレットと、公爵の財政管理官補佐として切れ者と評判のアーデルハイト・ミクラン。どちらも大した自覚はないもののこの城ではそれなりの有名人で、また恋人同士ではないようだが妙に仲が良い、といった不可思議なスタンスで付き合っていた為、その微妙さが当時一部の暇と財産を持て余した人々にある種の焦燥感と期待感を抱かせ興味を引いてやまなかったのだ。
ともかくも、様々な視線の中アーデルハイトは再びイリヤの名を呼んだ。
『何?』
そう言った視線には無頓着であるのか、イリヤは先刻と全く変わらない調子でそう返事をする。
『……』
アーデルハイトはしばらく口を開くべきか逡巡したが、この場のいづらさに負けて後でね、と呟いた。イリヤは二度も台詞を打ち切られた事に少し顔をしかめたが、「何でもない」から「後でね」に多少なりとも前進しているのをそれなりに評価して、ああ、と答えた。彼女の言う「後」がいつ訪れるのかはよく分からなかったが。
『さ、貴方の見てくれに騙された可哀想な女の子達には会わない様にしないとね』
『お前の見てくれに騙された気の毒な男達にも』
『それじゃあ私達はここを歩けないじゃない』
『良く言うよ』
苦笑混じりにイリヤが答えると、アーデルハイトはすぐさま美しい唇を動かして、冗談よ、と呟いた。
『どこから?』
『そうね、パートナーになってあげても良いわよ、ってところからかしら』
『随分遡るんだな』
『あら、こんないい女に誘われたのをそんなふうに風化した記憶にするつもり? 忘れられない思い出にして綺麗に磨いておいた方が良いわよ、きっと』
ふふ、と笑ってアーデルハイトが答えた。相変わらず何処まで本気で何処まで冗談なのか分からない。
けれどもそんな幼い表情をしてみせる彼女は透きとおるように美しかった。そしてその笑みに、そう簡単には見せない優しい顔を惜しげもなく返す彼も、心から愛しむべき存在だった。