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4 追跡⑧

 無事彼の懸念は的中する事なく「何処かで見たことがある」というエセルの発した疑惑は土中へ埋まった。

 それから何となく時間は過ぎ、やがて夕食が始まる。リドゥの前に置かれたプレートには、他の人とは違うものが置かれていた。ライカ・サファイアがオーダーしたらしい。これなら平気、と彼女は尋ねてリドゥを見た。そっと、口に入れてみる。味はまだあまり分からなかったが、ようやく飲み込む事に成功した。微妙に気持ち悪さが胃の辺りから込み上げてきたが、それは先刻とは違って、耐えられない程のものでは無かった。安堵して吐息をもらす。ライカとヴァーンは楽しげに笑いあい、それを微笑みつつエセルが見守っている。リドゥは黙って自分の作業に没頭した。

 夜はライカの強引なしきりにより、リドゥは何故かヴァーン・ディーと同じ部屋に移された。今度はベッドが二つある。ライカはエセルと同室するらしい。絶対覗くんじゃないわよ、と釘をさしつつライカは出ていった。無論その言葉は自分ではなくヴァーンに向けられたものだった。そこで唐突に気持ち悪さが甦る。リドゥは慌ててベッドに横になると、ごわごわとしたシーツに爪を立て、動きを止めた。耐えろと自分に言い聞かせる。ここでまた吐いてしまえば負けてしまう気がした。それは根拠の無い願懸けに似ていた。繋がるものは何も無いと知りながら、そうせずにはいられないような――。

 やがて睡魔の方がそれに勝って、何とか眠りに落ちる。けれど夢を侵食する事までは防ぎきれなかった。ひどい暗闇の中で、必死に何度も何度も確かめたクリスの顔が。より深く記憶しているはずの『クリス・マクドゥール』の顔が、どうしても思い出せずに苦しむような。幾度目を瞑ってからもう一度開いても、見えるのはクリス・フォーディーンだった。夢想の中ですら安らぎを赦してはくれないのか。

 そしてはりついているのはロイドの表情。彼が現れるのを待ち焦がれていながら、心の何処かで初めから残虐な答えを出していた。本当に身体全てを賭けて信じきる事が出来なかった。かなしいひとの弱さ。気が狂いそうに救いを求めて、でも泣かない。それはできない。

じわじわと胸の辺りが熱くなる。何かがつまったように、空気が取り込めない。上擦る呼吸。――弾けた。

 気が付くと朝だった。心の底から安堵を覚える。

 少しは、前に行けたと思って良いのか。沈着した食物はもう身体を流れる血や栄養分に変わっただろうか。毛布を跳ね除けて起き上がる。

 ちょうどそこへ忙しない足音が近づいて来て、ドアの前で止まったかと思うと、勢いよく飛びこんで来る人物があった。勿論ライカである。

「おはよう! あ、ちょっとヴァーン、何だらだら寝てるのよ、もうご飯よご飯! 早く起きなさいよ、全くもう」

「あー何でお前は朝っぱらからうるせえんだよ?!」

「あんたが早く起きないからいけないんでしょ、ねえエセル?」

 ライカは寝起きで不機嫌そうなヴァーンを軽くあしらうと、少し遅れて来たエセルに素早く同意を求めた。え、ええ、とちょっと困ったようにエセルが微笑む。それを見たヴァーンは少し複雑そうな顔をした。

「ほらあたしの方があってるじゃない。分かったらさっさと支度してね、リドゥもよ」

 どことなく付け足しのような言われようにリドゥは小さく笑った。

「あ、何、それ」

 目聡くそれも視界に入れてライカが詰め寄ってくる。

「――ここで言ってもいいのか」

 え、とライカが聞き返す。リドゥはその一瞬、彼女が怯んだ隙を捉えて、その耳に囁いた。

「――お前の負けだな」

 ――あの女に。どう見たってお前の負けだ――。

 どうしてこんな嫌がらせじみたことを言ったのか分からない。けれど何故かそうせずにいられなかった。その感情に従ったからと言って何か得るものが有ったのかといえば、何もないどころか、何かをたちどころに失ったような気がするけれど。

 ライカは最初意味が掴めなかったのか黙っていたが、やがてそれに気付くと、唇を震わせて大きく反動をつけ、この前と同じ場所を思いきり平手で叩いた。

「あんたには関係ないでしょ!!」

 いつも暖かい部屋にいたせいか、手のひらがなかなか暖まらない体質になっていた。だから頬に触れたらものすごく冷たかった。冷えた熱。

 そのままライカは部屋を出て行き、ヴァーンがどうしたんだよ、と怪訝そうにこちらを眺める。エセルは何度もライカの出て行った方とリドゥを交互に見て、気まずそうに下を向いた。

「どうしたんだよ」

 改めてヴァーンが尋ねてくる。リドゥは別に、とだけ答えた。

「別にって事はないだろ。よく分かんねえけどあいつすごく怒ってたじゃねえか」

「――お前には関係ないだろう」

 ほんの一瞬過ぎる既視感。先刻自分がライカに言われた台詞だと気付くのにしばしの時間を要した。

「あのな、そりゃあそうかもしれないけど、その態度には問題あると思うぜ。ふざけんのもいい加減にしろよ。どう見たってお前が怒らせたんだろ?」

「……ヴァーン」

 控えめな声が後ろから投げられる。

「何だよエセル」

「あのね、私ちょっとヴァーンも言い過ぎだと思うの。――でも貴方もちょっといけないと思うわ。昨日一緒に寝てみてよく分かったけど、ライカはとっても優しくて良い人よ。理由もなしにあんなに怒る人じゃないと思うの」

 恐ろしいほど正当な、そして純粋な言い分だった。誰かを疑う事を哀しいと感じるような、けれども愚かしい程全てを信じるわけではなくて。綺麗に、綺麗に育った心だけが持つ輝きを有している。

 やっぱり負けている。これには敵わない。ライカ・サファイアがいくらヴァーン・ディーを好きでも。この女がいる限りは決して叶わない。そしてリドゥはヴァーンを改めて見る。――何も、分からない……。

 やがてリドゥはすっと立ちあがると、ヴァーンの脇をすり抜け、エセルの前を通過した。

「何処行くんだよ!」

 厳しい声が刺さる様に聞こえる。それに彼は振り向くと、

「――別に」

ともう一度言った。

「あのな……!」

 何か言おうとしたヴァーンをエセルが何故か素早く封じた。その間にリドゥは踵を返してさっさと出て行った。

「なんで止めたんだよ」

 ヴァーンがエセルに尋ねる。彼女は少し首を傾げると、

「……何となくかしら」

とだけ答えた。

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