3 未だ氷の刃③
「――ああ全くもう、あたしってなんていい人なのかしらね」
窓を閉めてカーテンを閉めてから側の上着を引っ掛け部屋のドアを開けると、ライカはそう誰とも無く呟いた。
(アル、シュウ、トウィ、サヴィー、キャロ、ネディー、それに父さんと母さん、貴方達のお姉ちゃんは嫌になるくらい立派よ。……だからもうちょっと待っててね、今この人を独りにしちゃいけないと思うの。でも絶対お金手に入れて帰るんだから。それであの家を守るんだから)
もうここまで来れば幾ら自画自賛してもし足りない気がする。そっと階段を降りながらライカは心の中で呟いた。
――瞳は青く澄んでいた。月光を拾い上げ、何処か禍禍しいもののように。
何を考えているのかなんて全然見当がつかない。大体何かを考えているのかすら怪しいところだ。もう理解出来ないし理解したくもない。
それでも、ライカは苦心して音を立てないように宿屋のドアを開けた。そして外へ。
「……いい加減にしてよ、リドゥ・エル」
右から、そんな声が聞こえた。それを認知するや否や強引にライカが腕を取る。瞬間、リドゥはぱっとそれを振りほどいた。
「……最初にも言ったでしょ、放っておいて欲しいんなら私の目の届かないところで行き倒れでも何でもして頂戴って。あたしだって暇じゃないの。今すぐにでもお金を手に入れなくちゃいけないんだから」
「……」
リドゥは黙ったまま自分の剣の柄を見据えた。そこには宝石が幾つもちりばめられている。偽物であるはずがない物達。
「……ナイフ」
「は?」
「ナイフを貸せと言っている」
「何なのよ、いきなり」
怪訝そうに答えたライカにリドゥはいいから早く、と急かし、ライカはしぶしぶ自分のナイフを取り出した。リドゥはそれを受け取ると刃先を器用に操って嵌っていた一つのルビーを取り出す。
「――こうすればお前はもう俺に近づかないのか」
そのルビーをナイフと共に強引に押し付けられてライカはしばらく呆然としていたが、やがて身体を震わせるとものすごい形相で唇を噛んだ。
次の瞬間、彼女は受け取ってしまったそれらを地面に叩き付けると空になった手のひらで思いきりよくリドゥの頬を叩いた。
「ふざけないでよ、お金のためだけだったらそんなのさっさと盗んであんたなんかとっくの昔に放り出してるわ! 人を何だと思ってるの?! 見くびるのもいい加減にしてちょうだい! ……行きなさいよ、勝手に。もうあんたなんかどうなったって知らないわ。こんなもんだって要らないわよ!」
そして矢継ぎ早に台詞を繰り出すと素早くポケットから例のピアスを取り出し、同じように地面に投げつけた。
「……」
リドゥは緩慢な動作で打たれた頬を押さえた。熱い。こめかみがぎりぎりと締めつけられるように痛んだ。要らないものは要らない。必要なものも要らない、そう願った筈だった。再び静寂を取り戻した世界が大きく口を開ける。その静まり具合に取り込まれそうになる。身体の周りを薄い真綿が覆っているようだ。熱が、こもる。
「……!」
急に指先に力が入らなくなった。握りしめることを拒んだ手のひらは、あっけなく剣を取り落とした。悔しいくらいに思い通りにならない。
音楽が聞こえる。美しい声の二重奏。二つの旋律と歌詞が絡み合って、互いを侵食し合いながら新しい何かを生み出してゆく。そのどちらを主旋律とし、どちらを副旋律と呼ぶのか。やがてそれらはひどく調和の取れないものに成り果てた。不協和音の嵐。でも、病んでいるのは音楽じゃない。――疑いようも無く、自分の方だ。
それに気付いた時、何処かの時計の針が動き始めた。或る一時の時間へ向かって。かちりと長針と短針が重なる。影が、できる。
次の刹那リドゥはゆっくりとライカの方に倒れ込んだ。その身体を抱きとめて、ライカがちょっと不満げにひとりごつ。
「……ねえリドゥ、これってちょっと卑怯なんじゃない?」
ほんのしばしの沈黙の後。
「――上手く……動かないんだ……」
ライカの髪に顔をうずめる様にしてリドゥが吐き出すように呟いた。ライカは返事があった事に少し驚いたようだった。起きてたの、とそっと口の中で言葉を転がした。
(――名前は)
切れ切れになりそうな意識達から、必死で一つの記憶を手探りで探す。彼女の、名前は。