2 雪解けの春⑧
ドアを勢いよく閉めて彼女が出ていってから、どれくらい経ったのだろうか。相変わらずリドゥはベッドにおさまったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。軋んだ、粗い木目の天井。自然のうねりのままに、年輪が不揃いだが力強さを持って浮かんでいる。それはほんの数日前まで自分のものだったあの部屋の天井とは別物だと思えるほど異なっていた。――比べるほうが馬鹿馬鹿しいのかもしれない。あそこはこの国の王の一人息子の部屋で、ここは名も知らない村の宿屋なのだから。
そう思うと少し可笑しくなった。そう、比べるほうが間違っている。くだらなすぎてどうしようもない。彼はそれより先に考えを進める代わりに自分の肩を服越しに触ってみた。クリスから受けた傷口は当の昔に乾いており、知らぬ間にごわごわした包帯が巻かれていたが、たぐりよせてほどいてみると当てられた布地が傷口に張り付いて剥がれなかった。それを無理やり引き剥がす。
瞬間、傷口を爆心地として痛みが放射線状に広がった。それでもリドゥはそれを無視して、なおも傷口に残る糸屑をびりびりと剥がしていった。やがて露わになった傷は、そこまで手痛いものではなかったが、放置していたのが祟ったのか微妙に膿を含んでいた。
「ただいまー、ほらごはんもらってきてやったわよ。食べるでしょ……ってやっぱり聞くのやめた。どうせあんたいらないとか言うんだろうから」
その時妙に陽気な声でライカがばん、とドアを開けて入ってきた。
「――俺はいらない」
天井を見つめながらそう答える。
「あんたほんっとうに人の話を聞かないわね! さっきいらないってのは無しだって言ったでしょ! 食べないならその剣代わりに貰うわよ。あのピアス売れないもんねっ」
堂々とやや理不尽なことを言い放ち、ライカはベッドに近づいた。そこで彼女はリドゥの肩に気付いたようだった。傷口を覗き込んでちょっと痛そうに顔をしかめる。
「ちょっとあんた何やってんの……? うわ、膿んじゃってる……。痛くない、それ」
「――別に」
リドゥはふいと視線をそらした。眼の端でライカが不機嫌そうな顔になったのが見えた。笑ってみたり怒ってみたりいちいち忙しい人間だ。
と、呼吸の仕方を間違えたのか、息を吸った時空気が肺に引っ掛かった。肋骨が微妙に痛む。誤ったルートを通って上がってきた吐き出されるはずの息は、喉を掠めて熱を帯びた。呼吸を整えるようにゆっくり空気を吸い込みながら、痛みを和らげる為にリドゥは自分の胸に手のひらを押し付けた。
「――あのねえ」
それを見ていたライカがため息混じりに言う。
「あんた自分の置かれてる状況分かってんの? ――いい、しつこいけどこのままじゃあんたは死んじゃうのよ。水も飲まないしご飯も食べないし。それでまがりなりにもここで一応寝てるんだったらそれなりに死にたくないんでしょ? 生きたいんでしょ? だったらもうちょっと人の話聞きなさいよ! 私はあなたのこと心配して言ってるの! 全然、どこも間違ってないはずよ!」
この前と同じ、言い聞かせるような口調だった。まるでなかなか言うことを聞かない子供に話すように。シャープさと温かさが華麗に共存した声。理詰めと情感と、その二つをないまぜにして、噛み砕くように彼女は話した。――本気だ。
どうして確信出来たのか分からない。けれども、言葉は本気だった。そうとしか言えなかった。
ぼんやりと、みっともないな、と思う。
(『みっともない』――?)
そこでリドゥは我知らず自分の表層に上がってきた感情に心臓を打たれた。今まで空洞だった場所へかすめるように立ち現れたのだ。大げさに言えば、出口無き迷路に一筋の光が射した。それは決して行き先を示すものではなかったけれど、それでも自分の周りを見回すには十分な光だった。
何処も彼処も氷だらけだった。雪まみれだった。だが――春が来れば、たとえ僅かばかりでも必ずそれらは解ける。冷たいかけらは、水に浮かんで揺れる。
差し伸べられた手を振り払うのは簡単だ。その手を取るのもまた同じ。
「――ちょっとあんた、また人の話聞いてないでしょ」
黙ったままのリドゥにライカが声をかける。
「ねーえ、返事! 全くもう、あんたって人は本当にもう……! ――ああそうだわ、さっきから何か変だと思ってたらそう言えば聞いてなかったわね、名前」
ライカはそこで小さく咳払いをした。真っ直ぐな瞳がリドゥを捉える。
「あたしはライカ・サファイア。あんたは?」
サファイア。
『貴方の瞳の色と同じね』
そう言った同じ口で。
『情など移る筈もありませんわ!』
揃いの指輪は、王家の印は、クリスの指に。鏡に映る虚像が歪んで唇をもたげた。死んでくれと懇願するその手のひらは、深紅に染まっていた。どちらが本体なのだろうか――。
何て因果な名前なんだろうと思いながら、リドゥは吐息と一緒に言葉を吐き出した。
「――リドゥ・エル……」