2 雪解けの春⑥
風は誰かの姿を映す。翳と過去と未来と今と。永久不変の真実なんて有りはしない。そして言葉は、どうしたって言葉は、果てしなく無力で、いつまでも辿り着けない。凍りついたようにその場から動けない。――いや、本当はそうじゃない。生命を与えられて芽吹くそれも有る。その心のうちに、大きな葉を広げながら。そう、本当は、あの人が無意識のうちに耳を塞いでしまっているから――。
人は矛盾する生き物。同時に二つの感情が激しくせめぎあう。どれだけ結果を知りえていても、たとえその先が闇でも、それでもゆかなければならない時が確かに存在する。ただ一瞬に全てを賭して、心は翼を得て、休息する場所を求め、収束する未来の先へ、誰よりも早く、導かれるのではなく自らを導いてゆく――。
小さくくしゃみの音が聞こえて、リドゥは瞳を開けた。カーテン越しの、昇り切らない太陽の薄明かりがより一層視界をぼんやりと淡くさせる。数十秒そうしたままで、彼はもう一度何があったのか思い出そうとした。ベッドを僅かに軋ませて身体を動かす。と、側のソファーの上に毛布に包まって寝ている誰かの姿が目に入った。――思い出した。
「……」
リドゥは黙ったまま前髪をくしゃりと掴んだ。ひどく頭痛がする。喉がひりつく。名前も知らない彼女は、丸くなって寒そうにしながらまだ眠っている。――常識的に考えれば、本人に言われなくともこれは実に感謝すべき状況である事は明白だった。ただ、
(だから?)
そういう風に心が動かないのもまた事実だった。
伸ばしたもう一方の手がベッドの木枠に触れる。冷たくて気持ち良かった。しばらくそうしていると、もう一度薄綿で包まれたような無意識の世界に引き込まれそうになる。そこでうとうとしかけた頃、もう一度くしゃみが聞こえて、今度こそ彼女がもぞもぞと動いて起き出した。
「ん……。肩凝ったー……。あ、あれ、起きてたんだ、お早う」
ぶつぶつ言いながら肩を回していた彼女はそこでふとリドゥに気付いたようだった。
「……」
「あれ、それとも寝てた? だったらごめん」
「……」
気だるい空気の中、喉の焼け付き感も手伝って返事をしたくなかった。そのまま沈黙を守る。そんな態度に彼女、ライカ・サファイアはむっとして声を荒げた。
「ちょっと、返事くらいしなさいよ。朝から失礼な奴ね。聞こえてるんでしょ?!」
「――うるさい」
「あんた、言うに事欠いてそれ?! もう頭にきた。病人じゃなかったら叩き出すとこよ!」
ああ不愉快だわ、と思い切り呟くとライカはばさと毛布を払いのけた。それにつられて埃が舞い上がり、リドゥはちょっと顔をしかめた。それに全く気付かずライカは力いっぱい毛布を振り回し、勢いよくしゃっ、とカーテンを開けて窓も開いた。途端日差しと風が滑り込んでくる。
「天気は良いじゃない。……さーってと、朝ご飯食べて来よっかな、と」
少々気を取り直して呟くライカにリドゥは冷たい一瞥を与えた。
「何よ。言いたいことがあるんなら言いなさいよ」
居心地の悪い視線に気付いてライカが振り向く。
「――少しは黙れないのか」
途端ライカはまたむっとした顔に戻って大股でドアの方まで歩くと、閉め際に
「あんたは言葉が足りなすぎるのよ!」
大声で叫び、ドアを壊さんばかりの勢いで閉めた。続いて、軽やかだがやけに素早い階段の軋みが聞こえる。
「……」
リドゥは黙ったまま窓の方に視線を投じた。先のことを考えるのだとかきちんとした会話をするのだとか起き上がるのだとかそれともいっそ死んでしまうのだとか、どんな行動もする気が起きなかった。ただ途切れ途切れの夢想に身を任せて、今の自分はどうしようもなく膿んで朽ちようとする生き物みたいだった。