2 雪解けの春⑤
「……」
最初の方はややトーンダウンしたもののリドゥが聞いていないと感じたのか、ぐぐっと調子が戻ってくる。彼はそれをただの騒音とだけ認識して強くなった語調に顔をしかめた。うるさくて頭に、響く。
リドゥは指で額にかかった前髪を梳くと、目で剣を探した。
「なにしてるのよ」
それを見咎めてライカの声が飛ぶ。それを無視して、見つけた剣を手に取ると、リドゥはさっさとドアを出て行こうとした。
「ねえ、ちょっとあんた!!」
後ろからライカが叫んだ。リドゥは溜め息交じりに振り返ると、唐突に反対の耳のピアスも外してライカに投げつけた。
「――これで足りるだろ」
「……」
ライカはそれを見つめてしばらく黙っていたが、やおらゆっくりと口を開いた。
「倒れる直前に言ったから忘れちゃった? これはカメリアの紋章入りだから売り飛ばせないの。そんなことしたら捕まっちゃうでしょ! いっくら高くたって今の私にはなーんの役にも立たないの!」
「……なら砕けばいいだろ。小さくしたってサファイアなんだから」
「小さくしたら価値が下がるでしょ! それ以前にサファイアなんかそう簡単に砕けないわよ!――ってそういう問題じゃないの!」
「じゃあ何だ」
素っ気無い言葉で返す。ライカは呆れ顔で、小さな子に言い聞かせるようにゆっくりと説明を始めた。
「全くもう、いい、それの価値はね、それがサファイアだとかそう言うんじゃなくて、カメリアの紋章が入っているって事、要するに王族に関わるものだ、って所なのよ。だからいっそ樹の枝だってカメリアの紋章が入ってれば価値があるのよ。で、これを持ってる事はすごーく名誉なの。名誉は売れないの! おまけにカメリアの紋章入りのものを売り買いしたら捕まるってさっきから言ってるでしょ! 大体それを王族からもらったあんたが持ってて意味があるんだから、そんなのもらったって空しいだけよ。――あんただって大事なんじゃないの、これ?」
ライカの台詞にリドゥはしばし口をつぐんだ。微妙に影が落ちたその横顔に、冷めた仮面が覆い被さる。
「俺がそれをどうしようとお前には関係ない。やるって言ってるんだから要らないんだ」
「もう、だから……!」
「俺は要らない」
頑ななその物言いにライカは諦めて、じゃ、とりあえず貰っとくわよ、と返事をした。それを聞いてリドゥはドアノブに手をかけた。一瞬、氷の刃からこぼれだした雪が解けて、その手が躊躇する。それでも彼は強引にドアを開けると、出て行こうとした。
次に彼の足を止めたのは単純なる具合の悪さだった。後味の悪い夢から目覚めたばかりで無理矢理起き上がり、久方ぶりに他人と――真っ当、とは言えない様な気もするが、ともかく悪意に満ち満ちたわけではない――会話をし、それだけではなく蓄積された痛みと疲労が目眩となって急に襲ってきて、立ち止まらざるを得なかったのだ。
何処か熱い手のひらで顔を覆う。しまった、と思った時にはもう遅かった。床の木目が途切れなく曲がって見えて、リドゥはその場に片膝をついた。ライカが言わんこっちゃない、と慌てて駆け寄る。
「全くもう、何処の誰だか知らないけど、もうちょっと人の話聞いたらどうなのよ。あんたは病人なんだから、分かったら大人しくそこで寝てなさいよっ!」
ライカはリドゥの腕を引っつかむとそのままベッドまで引きずっていった。リドゥが握り締めていた剣もしっかり奪い返す。
「これはここに置いとくから。――ほら、じゃ、お休み」
小さく溜め息を漏らしてライカは宥めるようにリドゥに宣告した。まるで弟や妹を相手にしているみたいだ。いや、それよりも確実に性質が悪い。何でこんなにコミュニケーション不全なんだろう。
リドゥは何故か反駁する事も無く彼女を何処か焦点の合わない瞳で見つめていたが、やがて無表情なその頬に、不意に、注意して見てなければ気付かぬ程ほんの微かに涙を落とすと、もう一度瞳を閉じた。それを見届けてライカが独り呟く。
「……ったく、厄介な情緒不安定少年を拾っちゃったわ……」