2 雪解けの春③
自分が今何処へ向かっているのか、また何処へ行きたいのか、全然分からなかった。心は相変わらず恐ろしいほどざらついたままで、全ての感情は麻痺してしまっている。だから目の前に質の悪い若者が現れても、本当はそんな事どうでも良かった。先刻の蝶と同じ。ただ鬱陶しかったから思ったままを口にした。邪魔だ、失せろ、と。
それが彼らには気に食わなかったらしい。じりじりと輪をつめられて、気付けば背中には壁しかなかった。――それじゃあ、斬るしかない。
そこまでの意識の流れには何の躊躇いも無い筈だった。目の前に現れた人間が失せろと言ってもそこに留まるから。邪魔者を排除して何が悪い。何もかもが鬱陶しい。関わりなんて持ちたくないのに。
それでも剣を引き抜こうとした手を止めたのは、唐突に頭に響いた台詞が有ったからだった。
『――自らの腕が相手にどれだけの威力を与えているのかを知らなければ一流の剣士とは呼べません。ただひたすらに敵を倒すことだけが剣術ではないのです――』
武器を手にして、それを振るって誰かを傷つければ痛いのだと。その現実だけは失ってはいけないものだと。
「……」
今、自分は痛みどころか全ての感情に現実感を失ってしまっている。残っているのは、何だろう。そして失った感情は、何だろう。それすらも分からない――。全てが煩わしくて仕様が無いだけ。
でも剣を抜けなくなった。今ここで抜いたら、自分が彼らを斬り捨てるのは目に見えている。斬り捨てるとは即ちその命を奪う事。まだ僅かに呼吸を繰り返す良心が、理性が、辛うじて自分を止めた。
「俺がいつ助けてくれと頼んだ」
「何よ、なかなか剣抜かなかったじゃない。それともそれってよくあるお飾りなの? じゃあますますあたしの助けが必要だったでしょう」
なおも食い下がるライカにリドゥはうるさい、とにべもない。
「あ、今のってもしかして図星? 当たってるから何にも言わないんだ。ふうん、そっか。何にも出来ないくせに変にプライドばっかり高いなんて性質が悪すぎね!」
遂にライカは勝手に決め付け一人で納得している。それまではライカの台詞をほぼ聞き流し、うるさいとだけしか思っていなかったリドゥだったが、ここにきてその煩わしさが頂点に達し、リドゥはいらいらと口を開いた。――邪魔だ。邪魔だ。邪魔だ。
「これをやるからとっとと失せろ」
そう言うとリドゥはすぐにすっと左耳から青い石のピアスを外した。そしてひょい、とライカに投げて寄越す。ライカは慌ててそれを受け取り、満面の笑みを浮かべた。
「やたっ、ありがと……ってこれ、本物のサファイアじゃない! ……え? ちょっと待ってよ、まさか……!」
それを眺め回していた途中でライカの表情が変わる。と、彼女はそのサファイアのピアスを陽にすかした。
「やっぱり……。薄い透かしだけど本物だわ……」
そう独りごつと、ライカは唐突にくるりと振り返って、まさかこれに気付かなかったの、とピアスを高々と掲げて、空いた手でそれを指差した。
「何が」
真意を掴みきれずにリドゥが尋ねる。
「……気付いてなかったんだ。じゃ、今から教えてあげるから良く聞いてよ? ――あのね、こんなもんもらったって売り飛ばせやしないわよ、カメリアの紋章入りなんだから!」
「……!」
彼女の台詞の後半部分だけが妙に耳に残った。カメリアの紋章入り。すなわちそれは王族のものであることを意味している。王家だけが戴くことを許された椿の花。その売買が発覚したら厳重に処罰される。指輪は贋物だったのに、このピアスは、本物――? これはどうやって手に入れたのだったか? ――ああ、あれは成人の儀の直前に……。
『貴方の瞳の色と同じね』
『情など移るはずもありませんわ!!』
渦巻く。
とんだ狂言の筈だった――。同じ青。サファイア。
ややあって、事態をしっかりと飲み込んだリドゥが呟く。
「……少しは情が移ってたって事か……」
頭の中で響くのはあの時の母の、いや王妃の言葉。ティルデ・フォーディーン。あまりにも身勝手だった女。だから、もうそんな女の事は知らない。命尽きるほど騙された自分の影なんて見たくもない。そして最後にほんのひとかけらの良心を見せたって、それだけじゃまだ足りない。全然届かない。そんな言葉の全てから逃れたくて、リドゥはそのまま瞳を閉じた。途端心が轟々と鳴る暗闇に飲み込まれた。支えを失って身体が前のめりに崩れ落ちる。あまりに急なことにライカは腕を差し伸べてリドゥを抱き留めることも出来なかった。
「え? ちょっと……! しっかりしてよ!!」