1 沈黙の音③
「――さあ王子、これが最後の試合です。彼に勝利なさったならば、お約束通り私がお相手致しますぞ。どうぞ、悔いの無き様。――では、始め!」
その声に背中を押されてリドゥは唇を引き締めた。最後の相手は流石に手強くて、最初の様に数秒で勝負が決まると言う事は無かった。次第に試合時間が長くなっていくと、疲れがたまってくる。疲弊は技の流れをせき止めて、リドゥは幾度も攻撃を軽くかわされた。その上避けるスピードも落ちてきて、肩と首の境界の辺りを斬られてしまい、ぴっと鮮血が飛び散った。
(集中しろ!)
リドゥは心の中でそう何度か呟いた。剣先にだけ意識を集中させて、流れる汗は拭わない。
ふと、何かが見えた気がした。靄のヴェールの向こう、何かが見える。
それが何を意味するのか分からなかった。が、きっと瞳を見開く。剣の軌道が見えた。
次の瞬間リドゥの剣は見事に相手が振り下ろした一撃を受け止めていた。
『反動を利用してですな、こう、横に払う様にして、それから上へ――』
つい先刻教えてもらったばかりの知識を甦らせ、言われた通りに剣を振るう。一振りの剣がかん、と鋭い音を立てて宙を舞った。リドゥの手の中にはまだ柄がしっかりと重みを残して握られている。
「――それまで!」
しん、とした空気の中で我に返ったようにロイドがそう宣言した。それを聞いてリドゥが一気に姿勢を崩す。
「……」
彼はそのままつめていた息をふうっと吐き出した。
「……出来た……」
疲労を顔ににじませながらも嬉しそうにそう呟く。
「さあ先生、約束を果たしてもらいますよ」
リドゥは傷口を手で無造作に押さえながらそう言った。医師を呼ぼうとするクリスを目で制す。
「……」
ロイドは内心舌を巻いていた。確かに先程王子に技の欠点と直す方法を教えたのは自分だ。だがこんなに早く、しかも自分が教えたよりも更に難易度の高い技を決められるとは思いもしなかった。
(なんと筋の良い……)
今まで自分の教えてきた弟子の中でもかなり上位のランクに位置する腕前。それは決して才能に溺れることなく真摯に精進を積み重ねてきた者への当然の見返りだった。そして、彼は、何と楽しげに努力をするのだろうか。目の前の彼は今、クリスの差し出したハンカチで首を押さえ直している。真っ白いそれにじわりと赤い染みが広がった。
「王子」
「あ、先生、さあ試合を」
振り返ったリドゥが目を輝かせてそう言う。自分の師匠と直接手合わせできることが嬉しくて仕方ないらしい。
「王子、申し訳ありませんが、約束は次の機会にして頂きたいですな」
「――どうしてだ?」
リドゥはちょっと不機嫌になって口を尖らせた。先生と試合をする為にこんなに頑張ったのに。
ロイドはその素直さを微笑ましく思いながらやおら口を開いた。
「先程の技、本当にお見事でしたぞ。私がお教えしたことをきちんと実践なさったばかりかそれを超えて……。だから私は万全の状態の王子とクリスと、戦ってみたいと思ったのです。さあ、それでは傷の手当てを」
「あ、私が医師を呼んで参ります」
ほっとしたようにクリスが言い、すぐに走り出す。それを見送ってリドゥは小さな声で呟いた。
「別に呼ばなくても自分で行くのに……」
微かに睫毛を瞬かせる。青い瞳が金の間から見え隠れした。
「……」
ロイドは、口をつぐんだままだった。
やがて、クリスが医師とメイドを伴って戻ってくる。その仰々しさにリドゥはちょっと顔をしかめながら、それでも来てくれた人達の為に笑顔を作った。
「王子! ――怪我をなされたとか……。大丈夫ですか? どうぞ傷をお見せ下さい」
どこか悲愴な顔をして医師が尋ねた。
「大したこと無いよ。ちょっと掠っただけだ、ほら」
言いながらリドゥはすっとハンカチを傷から離した。もう大分血は止まっている。
「……」
医師はほう、と溜め息をついて、おっしゃる通り、そんなに深くなくてようございました、と安心した顔をした。
「本当に大丈夫なんですか?」
後ろからクリスが心配そうに声をかける。
「ええ、この程度なら膿んだりすることはないでしょう。ですが王子、念の為にこの後の乗馬の授業はお休み下さい。成人の儀も控えていることですし、どうか御身を大切に。――さ、私が治療致しますのでどうぞ傷をお見せ下さい」
医師はそう言うと、メイドを促して剣と防具を受け取らせた。あっという間に周りを囲まれて、リドゥには異を唱える余地もない。
(平気なのに……。何でこんなに大げさなんだ?)
仕方なくリドゥはその囲みから首を出してクリス、と叫んだ。
「何でしょう、王子」
すぐさまクリスが反応する。それを目の端に捉えてリドゥは口を開いた。
「――僕が行かなくてもお前、乗馬の授業に出るんだぞ! ――明日にでも何を習ったか教えてくれ。乗馬の先生だって予定を突然変えられては困るだろ?」
クリスは、
「――承知致しました。授業が終わりましたらすぐ見舞いに参りますので」
と言ってぺこりとお辞儀をした。次にリドゥは自分を部屋へ連れようとするメイドを制して、ロイドに声を投げた。
「先生、約束は今度果たして下さいよ」
「仰せの通りに。……御身を大切に」
笑顔を見せて教師はかしこまってみせる。それにリドゥは手をひらひらさせて応じ、今度こそ大人しく部屋へと帰っていった。