4 生命倫理⑬
「――!」
あの時から剣には触っていなかっただろうと思えるイリヤの腕は、それでも鈍ってはいなかった。本当ならそれは喜ばしい事だった。目をかけた弟子の腕前は良ければ良い程いい。
(……私はイリヤを置いて行くべきではなかった……)
幾ら王妃に懇願されようと残れば良かったというわけではない。――イリヤを、アーデルハイトの側を離れようとしないイリヤを、無理矢理にでも連れて行くべきだった。下手にその気持ちを慮ったりするのではなかった。忘れるのでも、浄化するのでもなく、癒される為に。面影を残したままでいい。永遠に訪れぬ『いつか』もある。……そんな風に、言っていれば……。
だが全ては詮無き事だった。もう動き始めてしまった。だから、せめて、ここで食い止めなければ……!
ロイドは一段と強い力をその剣に込めた。そうして、剣先を重ね合わせている間は、七年前、アーデルハイトが生きていた昔に戻ったようだった。
しかし、そんな安らかな思いはそう長く続きはしなかった。捨て切れない微かな戸惑いを持ったままのロイドと、既に心を決めたイリヤとでは、どちらが強いのか冷酷なほど簡単に答えは出せる。死ぬ気になれば何でも出来る。
「……っ!」
ほんの一瞬の隙を突いて、イリヤの剣がロイドの腹部を深く刺した。歯を食いしばって悲鳴をあげまいとするロイドの身体から、イリヤは冷酷に自分の剣を引き抜いた。途端、真っ赤な血がそこから一気に吹き出る。その返り血を浴びてイリヤは初めて戸惑いを見せた。が、それを振り払うように頭を振ると、もう一度その剣を突き刺そうとする。
「――?!」
その手を止めたのは、奇跡とも躊躇いとも、それとも彼女ともつかない身体中を走る電流だった。何処にも外傷が無い筈の身から、ぎしぎしと悲鳴が聞こえてくる。
「イ、リヤ……?」
傷口を必死に圧迫しながらロイドが呟く。その声も届かない場所に彼はいた。内側を侵蝕するのは解き放たれて恐ろしい『自由』を手にした嵐。イリヤはそれを懸命に押え込むと、本来の目的である王妃の方へと踵を返した。彼女は凍り付いたように動きを止めていた。まるで息をしていないようだった。ただ手のひらだけが、隣りにいる夫を掴んで離さなかった。私達は夫婦ですもの。独りで逃がしはしませんわ。瞳がそう物語っているようだった。
――その先は、ただ一太刀で。おびただしい量の鮮血が、自らへと返ってくる。それは目眩のしそうな重量で彼に圧し掛かってきた。それにおされて思わず壁にもたれた瞬間、
「!!」
嵐の後の静けさを唐突に破って、ドアが軋んだ音を立てた。振り返った先にいたのは、リドゥ・エルだった。
『本物』に消されたわけではなかったのか。やや安堵して王子、と声をかけかけてロイドは沈黙した。――違う。
「……先生……?」
何処か現実感を失ったようにリドゥが呟く。瞬間、何かが弾けた。床に零れ落ちた血だけがくっきりと目に入った。
「先生……!」
叫んで駆け寄る。――こういう時は、どうすればいいのだろう……! ともすれば何処かに行ってしまいそうな意識を全力でねじ伏せてリドゥはマントを引き裂くとロイドの傷口に押し当てた。
「先生、先生!」
「……私は、逃げろと言った筈ですぞ……」
「いやだ。いやだ、いやだ! ――だって僕は『贋物』なんだ! だから、先生が僕を庇う義理なんて無いんだ!」
子供のように激しく首を振ると、リドゥはそう繰り返した。その瞳に映るのはもはやロイド、唯一人だった。彼はそこにイリヤ・エヴァレットがいるのも忘れてただひたすらにその血を止めようと力を尽くした。
イリヤ自身も目の前で行われている行為には何の興味も湧かないらしかった。それより、口の中に広がった錆びた鉄の味の方に心を奪われていた。
「――人間には、『本物』も、『贋物』も、ありませんぞ……。貴方は、王子ではなかった、ただ、それだけ、です……。それが、貴方の価値を変える訳ではない――」
「いいから喋らないで下さい! じゃないと、血が……!」
半泣きでロイドの台詞を遮る。ロイドはそっと首を振ると、もう一度口を開いた。
「貴方の、名前は……?」
「リドゥ、リドゥ・エルだ……!」
「良い名だ……」
しばしの沈黙が訪れる。やがてロイドは渾身の力を振り絞ると、唐突にリドゥの手を振り払い、その身体を突き飛ばしてドアの向こうに追いやると素早く扉を閉めた。
「先生?!」
扉の向こうで、どんどんと必死に叩く音がする。
「――いいから、逃げなさい! リドゥ・エル、私は貴方の師であれて幸せでした。だから逃げろ! 早く!」
激痛が身体を走る。最後の方は殆ど悲鳴だった。
「先生!」
それでも諦めきれずに何とかドアを開けようと、リドゥはドアノブをがちゃがちゃと何度も何度も回した。だが、どんなに力を込めても扉は固く閉ざされて開きはしなかった。
「早く!」
絞り出すような声がドアの向こうから聞こえる。それは魂から響く叫びだった。
「――先生も、後から来て下さい……!」
切なげにリドゥが呟く。
そんな事は殆ど無理だという事は分かっていた。そしてここを破ってもイリヤ・エヴァレットに敵う可能性は限りなくゼロに近いという事も。けれど、その返事を聞かずにここから離れる事は出来なかった。自分が楽になる為だったかもしれない。その逆でロイドを苦しめる事になるのかもしれない。けれど。
その返事を聞かずにここを離れる事は出来なかった。ほんの微かでも希望が有れば、きっと生きてゆける。
「――分かりました」
そのリドゥの期待にロイドは見事に応えてみせた。
「じゃあ、待ってる! 絶対待ってるからな!」
それだけ言い残すと、リドゥは無我夢中で走り出した。……ほんの微かでも希望が有れば、きっと生きてゆけるから。
その足音を聞いて安堵したようにロイドは溜め息をつき、言葉を途切れ途切れに吐き出した。
「……あの子には、リドゥ・エルには、何の罪も無い……。お願いだ、イリヤ、もうこれ以上は……!」
「――それが先生の最後の望みであれば」
そう答えたイリヤ・エヴァレットの唇には、返り血ではない血がこびりついていた。
――何日も、何日も何日も。
――限りなく、限りなく限りなく。
この身体は着実に君に近づいてゆくのに、果てしなく恐ろしく離れてゆくような気がするのは何故だろう――。
そんな思いを振り払って、イリヤは小刻みに震える手でドアを開け放った。足音は、もう聞こえない――。