3 律動③
今でも、夢に見る――。
七年前に塔から転落して死んだ彼女。事故だった。あまりに哀れな事故だった。その前の日に彼女が口にしようとしていた言葉は永遠に葬り去られた。聞けなかった……。
生きたいと願うのは本能。身体の奥深く、螺旋が欲する力。まだ、死ねない。まだ、死にたくない。――彼女のそれは、どれくらいの悲鳴を上げて、果てていったのだろうか。病気でも怪我でも自殺でもなく、不意に訪れた事故だから。余計に思いは募る。
七年間、こうして生きてきても、彼女を諦める事は出来なかった。最初の一年間よりは、少しは輪郭がはっきりしているけれど、世界は未だ色褪せたままだった。――要らない。もうこんな世界ならば要らない。
何度そう思って手放そうとしたかは分からない。ただ自分を踏み止まらせているのは、あの時の師の言葉だった。もし立場が逆であったなら、自分は彼女に決してそんな事をして欲しくはないから。いつまでも憶えていて欲しいけれど、それで縛るつもりは全然無いから。……けれど現実は、そう簡単には運ばなかった。どれだけ懸命に努力しても、七年かけて倒れた身体の上半身を少し起こすのが精一杯だった。まだここには渦巻く記憶が有る。長い長い夢のように。全てを包み込む薄い膜が。その中で恐ろしいほどの現実感を持っているのは一番透明な彼女で。
「……」
イリヤ・エヴァレットは手の中で彼女の遺品である指輪をそっと弄んだ。小さなエメラルドの嵌まった指輪。その輝きは、未だ失われていない。
イリヤは小さく溜め息をつくと、それをかたん、と机の上に置いた。背中の窓から射し込んだ光が指輪に当たって、翠の影を創り出す。それをもうしばらく眺めていたかったが、時間がそうする事を許さなかった。彼女の後を継いでマイバハール公爵の財政管理官補佐となった彼には、すべき仕事がたくさん残っていたからだった。
「――イリヤ様」
立ち上がりかけた彼の耳に、控え目なノックの音と、そう自分を呼ぶ声が入った。
「何だ」
ばさりとコートを羽織って出掛ける準備をしながらイリヤは答える。
「お客様がお越しです。急な用とかで、すぐにイリヤ様に取り次いで欲しいと……」
「……用件は」
「それが、イリヤ様に直接お話になるとおっしゃるばかりで私には教えて頂けませんでした」
「……」
イリヤは少しの間沈黙した。その間数十秒。やがて彼は着ていたコートをもう一度脱ぐと、分かった、話を聞く、と執事に返答した。
「では、こちらのお部屋にお通しします」
執事はそう返答するとドアから離れ、やがて客を伴って戻ってきた。
ドアを開けて入ってきたのは、自分よりも大分年上の女性だった。
「ああ、イリヤ様……! 私は、昔離宮でメイド頭をしておりましたメアリーの妹でございます。――実は、姉は今病に倒れているのでございますが、死ぬ前にイリヤ様に是非にお目にかかりたいと、そう申しているのです。……お願いです、不躾だと言う事は重々承知しておりますが、生い先短い姉の願いを聞いて頂けないでしょうか……!」
彼女は入ってくるなり必死の表情でそう訴えかけ、はらはらと涙を零した。
「……」
イリヤは黙ってそのメイド頭の顔を思い出していた。穏やかで温厚そうな女性だった。確か、七年前のあの事件の後、急に辞めたのだと聞いた気がする。
「――分かった」
同情、という機能は上手く働かなかった。けれども微かに残る胸の痛みがそれをそっと補完していた。別に断る理由は何処にも無いのだし。
「本当ですか?! ……ありがとうございます……!」
女性は見る間に顔を輝かせて、何度も彼に礼を述べた。
「では早速ですが、一緒に来て頂けますか?」
イリヤはそっと頷くと、引き寄せたコートを再度羽織った。