16 【侯爵家の嫡男、ルカ】
「これはどういう状況だ?」
全員が黙ったまま動かない。
「タイラー。何があったのか説明しろ」
お兄様のすぐ近くにいた男性が声を掛けられた。この本邸の若い執事だ。
「その、突然大きな悲鳴が聞こえたのでここまで急いで来たのですが……。どうやらフレイア様が階段から落ちてしまったようです」
執事はフレイアさんが倒れている場所に視線を送る。お兄様がその視線の先を確認すると使用人たちは急いでその場を退いた。
そこにはソフィアと、意識を失っているフレイアさんがいる。
「容態は?」
「はい、もう大丈夫かと。その、ソフィアお嬢様が能力を発現されたので……」
「何、だと……?」
お兄様は一瞬、動揺したように見えた。
誰にも分からないだろう、一瞬だけ。
お兄様はジロリとソフィアを見る。
「能力が……、覚醒したのか?」
ソフィアはお兄様の問いに答えられないでいた。まだ侯爵家に来て日が浅い。能力の発現が、と言われても本人もよく分かっていないからだろう。
「どうした、なぜ何も言わない?」
「あ、あの、その……」
ソフィアの顔色が悪くなっていく。お兄様の威圧的な態度にあてられてしまったようだ。
「まぁいい。それで?」
お兄様は執事に続きを促した。
「そして、その能力でフレイア様は意識を取り戻しました。今は安心して気を失っているようです」
「そうか、状況は分かった。なら早く部屋まで運んでやれ。お前たちも早く持ち場に戻るんだ」
お兄様はこの場にいる人たちに解散するように言い、部屋へ戻ろうとするが——。
「公子様! 違うのです!」
一人のメイドが声を荒げてお兄様を呼び止めた。いや、まさか。
「何が違うと?」
お兄様は振り返り、メイドに問う。
「奥様は、奥様はっ! 階段からただ落ちたのではありません! "落とされた"のです!」
お兄様の目が不快なものを見る目に変わる。周りにいた使用人たちは、その言葉にまた視線を私へと向けた。それは無意識に向けられたものだけに、とても嫌なものだった。
そこでようやく私がこの場にいることに気が付いたようだ。お兄様は私を見て、少しだけ目が見開いた。
「……それはどういうことだ?」
お兄様は私からメイドへと視線を戻し、表情を変えずに聞く。お兄様は私に集まる嫌な視線に気が付いているはずだ。
「私ははっきりと見たのです! そちらにいるシアお嬢様が奥様をっ、……奥様を階段から突き落としたのです!」
またこの場がシン、と静まる。
メイドがはっきりと言ったことにより使用人たちの私への不信感が増したのが分かった。不信感というより、それは憎悪のようにすら感じる。
ねぇ、待って。お兄様、違うの。
「違うわっ、私はフレイアさんを押してなんていない!」
私は誤解を解くため声を張り上げた。私はただ助けようとしただけ。
「嘘をつかないで下さい!」
メイドも負けじと声を張り上げる。
「う、嘘なんてついていないわ! フレイアさんはめまいがすると言っていたの! それで階段を踏み外して……。だから、私は手を——」
「いいえ! 私は見ました! シアお嬢様は奥様が伸ばした腕を振り払ったのです! それがわざとではなくて、なんだと言うのです!?」
私の言葉にかぶせるようにメイドはさらに声を張り上げた。お願いだから、みんな私の言葉を聞いて欲しい。
「それは、私の力ではフレイアさんを支えられなくて! 腕を掴もうと思ったけれど、すり抜けてしまって、でも私は助けようと——」
どうしてだろう? これではまるで、私が必死に言い訳をしているみたいだ。悔しくて涙が出てくる。
なぜ私が突き落とした事にされなければいけないの。
「違うの、突き落としてなんて……いないっ」
ポロポロと涙が頬を伝わる。
「私は、嘘なんて……」
"ソフィアお嬢様への嫉妬が"
"奥様が現れたことで自分の立場が"
"だから、殺そうと"
使用人たちがコソコソと話す会話が聞こえてくる。どうしてこの場には私の味方になってくれる人が誰もいないのだろう。
誰か一人ぐらい、私のことを"そんなことをする人ではない"って言ってくれる人はいないの?
こんなにも私は信用されていなかったのか。
ソフィアは?
ソフィアはこの状況をどう思っているの?
怖くてあの子の顔を見ることができない。
こんなことなら本邸になんて来るんじゃなかった。早くリリーたちのところへ帰りたい。
「おい」
お兄様の声は先ほどよりも低かった。使用人たちはヒソヒソと話していたのをピタリとやめた。
「お前、今の発言に責任は持てるのか?」
お兄様のその言葉にビクリと体が強張る。お兄様まで私を疑っているの?悔しくて悔しくて、お兄様を睨みつけた。
しかし、お兄様が見ている相手は私ではなくメイドの方だった。
「え?」
メイドは一瞬、戸惑いの表情を見せた。
「お前は今、この大勢の者がいる中で何を言ったのか理解しているのか?」
メイドはカタカタと体が震え出した。
「え、は、はい! 私は、今の言葉を取り消すつもりは、ありません!」
「そうか。なら、もしお前の発言が間違いだった場合は——。どうなるか分かっているな?」
「は、はい」
「確認がとれるまでこのメイドを部屋から一歩も外に出すな。接触禁止だ。連れて行け」
メイドはルカの専属護衛騎士に連れて行かれた。
「他に何か言いたいことがある者はいるか?」
誰もその場を動けずにいた。
「この場の事は口外無用だ。もし違反した者がいれば処分する。今すぐ解散しろ」
お兄様がとても不機嫌なのが嫌でも分かった。
言葉遣いも、態度もいつもよりよくない。
相手がフレイアさんが連れて来たメイドだからだろうか……? 使用人たちはお兄様に目を付けられないようにか、全員その場から素早く解散した。
他のメイドに付き添われて別棟へ戻ろうとしているソフィアの後ろ姿が目に入った。その後ろ姿からはソフィアの感情は分からない。
どうしよう、私がフレイアさんを突き落としたとソフィアが思っていたら……。怖くて見られなかったけれど、ソフィアはどんな表情をしていたんだろう。
嫌な視線を送ってくる人たちがいなくなり一人残された私は力が抜け、その場にぺたりと座り込んでしまった。
足に力が入らない。怖い、悲しい。お兄様が私を見ているのが分かる。けれどその目には何の感情もない。お兄様、私のことをどう思ったの?
「誰かあいつを部屋まで連れて行ってやれ」
私はお兄様付きのメイドに支えられながら、自分の部屋がある西の別棟まで戻った。
部屋へ戻ると、リリーたちが心配しながら待っていてくれた。顔を青くしてふらふらとしている私の状態を見たリリーは優しく声をかけてくれた。
その事に心の底から安心した。