今から誰もがアーティスト
悠太は愛子に買ってもらったギターをケースにしまい、彼女と歩き始めた。
時々彼女からは甘い香りがしてくる。
どこから匂ってくるのだろうか。
肌って、こんな香りなんじゃないだろうか。
彼女との会話に少し間ができた。
ふと足もとに目をやるとマンホールの隙間から雑草が生えている。
昔から彼は一瞬一瞬を大事にきりとる所がある。
そこら辺の苔や雑草や、建物や看板などに、いちいち感嘆しなければ気が済まなかった。
気付けば同年齢の者たちの言葉、ファッションなどは洗練されていて、自分だけ置いて行かれる寂しさが常にあった。
クラスで口数少ない愛子は、つるむ人間が決まっているわけではない。
ぽつんと一人で座っていることが多かった。
悠太と違うのは、嫌われたり、いじめられていない点である。
中学時代、愛子は男勝りで喧嘩っ早かった話は有名で、それが抑止力となっている。
愛子は悠太のことが好きなのではないだろうか。
だが、そうじゃないと傷つく。
悠太と彼女は似ている部分が有るから、彼女は近寄ってきたのだと彼は思おうとした。
彼は予防線を張った。
悠太の意識は過去に向けられることが多い。
目の前の会話に集中するよりも、さっき言われたことを掘り下げて考えた。
常に人からどう見られるかを気にして、気が休まらない。
悠太に「今を生きる」大切さを教えたのが愛子である。
次彼女に何て話しかけようか。
まだ悠太の視線は地面にある。
コンクリートの隙間から顔を出す花は、美しい。
愛子が、おじさんみたいに唾を吐いたとしたら。
唾液は花の葉にかかり糸を引いて道路に落ちて。
こっそり彼は今来た道を戻って、「それ」を採取したい。
生まれ変わった自分には、愛子と音楽活動がある。
行き場のない屈折した性欲や神経症からのフラストレーションを原動力に、次々と作品をつくりあげるのだ。
「ごめんね。無口になっちゃって」
「なんも。気にしないよ。むしろ悠太の独特な『間』好きだよ」
愛子も下を見たまま彼と目を合わさず言う。
高校1年頃の悠太は人気者だった。
当時ふかわりょうみたいな「間」が面白い、と言われたことがあるのを思い出す。
北野たけしさんの映画の中でみられる「間」は、きっと自分のと同じ意味がある。
そう信じなければ、やってられない。
「あっ。鳥。この鳥なんていう名前なんだろう。よく見るけど」
「なんていう名前なんだろうね。かわいい」
愛子も久しぶりに笑った。
コミュニケーション・勉強などと、ある程度ポジティブに周囲と足並み揃えて取り組めば、高校生活は充実するのかもしれない。
小学生の頃、悠太は「ビックリマンシール」収集に夢中になった。
この頃は周りの子どもたちとやってること大差なかった。
進級するごとに、物を集めたり、ごっこ遊びをする仲間はいなくなっていった。
個人でこっそりと趣味にしていたのはいたかもしれないが。
髪型や服などのセンス、コミュニケーション能力において優れている子どもがリア充になれると思う。
悠太は高校2年になっても、過去の断片的な記憶や現在の一場面に「深い意味付け」をした。
そこには彼を救う神様がいると信じたからだ。
愛子に出会うまで。
いや、きっと神様はいる。
彼女は「音楽」に出会わせてくれた。
ギターを弾いて「神」を表現できる。
小学3年か4年、弟が家で飼っていたクサガメを排水溝につながる濁水へ逃がしたことを思い出した。
悠太は激怒し、何度も何度も弟を叩いた。
なんてかわいそうなことをしたのか。
カメは怖い思いをしてるだろう、苦しいだろう。
亀にとってよかれと思い、行動を起こした弟は、兄の悠太と違い、まともに育っていった。
悠太も何かできただろうか。
亀を友人たちにみせて楽しませるとか、飼育日誌を書いて学校の課題に使うとか。
柔軟な「遊び」ができる人間だったら、もっと豊かな高校生になれただろう。
小学高学年の同級の女子が、歯磨きをして、うがいをする。
ついでに唾液も吐くものだから、それが欲しくて欲しくて仕方なかった。
「そういえば、陸上競技場まで散歩するんじゃなかったっけ」
悠太は、そろそろしゃべるタイミングだと思った。
今日下校してから愛子に数万円のエレキギターを買ってもらったのは想定外である。
「行くよ。明日以降だけど。今から、だるま屋のオヤジんとこ向かうよ。ライブしに」
ビギナーがギターを買った日にライブをすることになるとは。
だるま店主に許可とるどころか連絡さえしてない。
先日にらまれて、2人で店を後にしたばかりだ。