2章(1)・加護のまじない
その祭壇の上には、大きな魔方陣の跡が残っていた。
郷のまじない師たちが使ったらしい、まじないのための魔方陣の跡だ。
カノンは今、林へ少し入ったところ――小さな石の祭壇の上に居る。
この小さな石の祭壇は、郷のまじない師たちによってよく利用されていた。彼女たちがどこかへ向かう時、皆決まってそこでまじないを使い、旅の安全を願うのだった。
カノンもその習慣に従って、この祭壇へと立ち寄った。
「この模様……、道しるべのおまじないかな?」
石畳の上に描かれた図形を見渡しながら、少女は呟く。
魔方陣が少しかすれて見え辛くなっている。
「うーん……、それじゃあこれを使って、やろうかなぁ」
彼女はこの魔方陣の一部を利用して、まじないの儀式を行うことに決めた。
スッ。
腰にぶら下げていた小さな袋――色々なまじない道具が突っ込んである、布製の巾着袋に手を掛ける。
そして腰から、チョークのような白い小さな塊を取り出した。
カッ、カッ、カッ、カッ。
気持ちのいい音と共に、カノンが新たな魔方陣を描き出していく。
それと一緒に、腰の巾着袋も小さく揺れる――。
「これでよし!」
立ち上がって、もう一度その全体像を確認する。
「大丈夫……、かなっ」
これで、儀式の準備が整った――。
クワァ。
祭壇の横では、ヤップルがのんきに草の匂いを嗅いだりしている。
「分かった分かった。ちょっと待ってね」
カノンは一旦瞳を閉じて、ひと呼吸置いてから再び開いた。
これまでとは少しだけ違った顔つき――。
集中した様子で腰から小さなわら人形を取り出し、ブツブツと呪文のような言葉を唱え始めた。
わら人形は手のひらサイズで、小さな目と口が描かれている。さらに、貴族のようなツルリとしたヒゲ――……、黒くて不気味な感じのわら人形だ。
その顔は、邪悪な笑顔を浮かべているようにも見える。
サァァァァ。
木々がざわめくような音がして、次第に辺りで肌寒い気配が漂い始めた。
…………。
ヤップルは突然静かになり、草木の揺れる動きがだんだんとスローになっていく。
「嫌な感じだなぁ……」
そう呟きながらカノンはまじないを続ける。
ふぅ、と小さく息を吐き、『大丈夫!』と自分自身に言い聞かせた。
「旅での災禍から、我が身の無事をお守りください。樹木と大地の星に眠る、大いなる影――土の精霊たちの護りの加護を――……」
さらさらと囁くように、祈りの言葉を捧げる。
そして、わら人形を魔方陣へと投げ込んだ――。
と、その時一瞬回りの時間が停止する。
魔法陣は透明な緑の光を放ち、代わりに世界から色が消失してしまったようだ。
サァァァァ。
再び、肌寒い気配がして、何かがすばやく横切っていく音がする。
鳥肌が立つような、嫌な感覚――。
ボトッ。
そうして次の瞬間、わら人形が魔方陣の上にゆっくりと着地した。
ヌルリッ。
そして、それと入れ替わるように、同時に真っ黒な何かが床から現れた。
滑るように、その液状の何かは自身の形へと変形していく。
暗いこげ茶色の、泥のような生き物――。
その体の大きさは、少女の体の数倍ほどにも見える。
その大きなサイズのせいで、カノンの周りが少し薄暗くなってしまう程だった。
「いい”だろぅ……おまぇを守る……盾と…なりゅ。対価は……すでぇに………受けとっだ……」
口をモグモグさせながら、低く鈍くさい声で話す。
埴輪のような目と口で、さっきのわら人形にそっくりな見た目。
おそらく口の中には、投げ込まれたわら人形でもあるのだろう。短いモグモグを終えると、ごくりと飲み込み、満足げに石畳の中へと戻っていった。
「よろしくね、ボビさん」
カノンはほっとした様子で、去っていく泥の塊を見送る。
どうやら無事に、護衛のまじないの儀式も終わったようだ。
彼女はずっと嫌な予感を感じていたが、その予感もおそらく取り越し苦労だったらしい。
「よかった……」
きっと旅への不安がそんな予感を生んでいたのだろう……、カノンがそう考え直した直後だった。
「あぁぁぁ……・・うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その嫌な予感は的中した。
突然、どこからともなく誰かの叫び声が聞こえてくる。
「えっ!?……何?」
カノンはとっさに辺りを見渡す。が、何が起こっているのかは把握できない。
「無理、無理、無理、無理!」
その声は、どこから聞こえているのか分からなかったが、カノンにははっきりと聞き取ることが出来る。
「どこ?」
そう言ってもう一度後ろを振り返ってみるが、それでも声の主は見つからない。
「うえぇぇぇぇ!!」
――――頭上だった。
聞いたことの無いような悲鳴がこだましながら、すぐ手前のところにまで迫っている。人がどこかから落ちてきたのだ。
カノンがそう理解したとき、傍目からはもう手遅れのようにも見えて、すでに衝突が避けられないところまで来てしまっていた。
――――僕が意識を取り戻したのは、気を失ってから数分後のことだった。
いや、正確な時間は分からない。でも、体感的にはそれくらいに感じた。
何故だか悲しい気持ちで目を覚ましたが、すぐにそんなことはどうでもよくなってしまった。さっきから体がふわふわとして、まるで宙に浮いているみたいな感覚だったのだ。
…………。
ここはどこだろうか……、風が強くてとても寒い。
ゴォォォォォ。
耳たぶに冷たい空気が吹き付けている。
つまり……、結論を言うと、僕は空から落ちていた。
しかも空から人が降ってくるとか、そんな生易しい物ではない。全速力で落下していた。
「えぇっ!?」
それからの僕は、はっきりいってどうしていたのか覚えていない。
とにかく僕は必死だった。
きっと半泣きで、恥ずかしげもなく叫んでいたと思う。
でも、だからといって僕にどうこうできるわけでもない……。抵抗むなしく僕の体は成すがまま、死に向かって高速で突き進んでいた。
向かう先は……、森の中――。
もしも、落下先が深い湖の中だったら……、なんて淡い期待もしてはみたが、それもスグに打ち砕かれる。
『ダメダメ、高速で叩きつけられたら、水はコンクリートよりも硬いんだよ!』
昔、クラスメイトの中谷君が満面の笑みで教えてくれた。そんな古い記憶がいまさら蘇って来る……。
特に仲が良かったわけでも無いのに。
その無邪気な笑顔が、今はとても憎らしい。
そしてさらに悪いことに、僕の真下には誰か人が居るようだった。
「どうしたらいいんだ……」
どんな人かはよく分からない。
でも、とにかく人を巻き込むのだけは避けるべきだと瞬間的に考える。
何かの間違いで自分が死ぬのはしょうがない……。でも誰かを道連れにするのだけは、とても後味が悪く感じた。
それが僕に残された最後の使命だ――。
僕は大きな力に引っ張られながら、そんなことを考えていた。