問題篇
「この前、近所の本屋でおかしなものを見てさ」
一口サイズに切ったハンバーグを口に運びかけたところで、碓氷は手を止める。
「おかしなもの?」
「文庫コーナーの本棚の本が、ランダムに倒されていたんだよ」
無言で眉根を寄せる碓氷に、蒲生は身振り手振りで状況を再現しようとする。
「どう言えばいいかな。こう、本の背の部分があるだろ。普通本棚に並ぶ本は、背の部分を客に見せるようにして横一列に配列されているわけだ。だが俺がこの前本屋で見たのは、棚の本のいくつかがページの上か下の部分を手前に引き出したようになっていたのさ」
理解を求めるように、対面に座る碓氷をじっと見やる蒲生。碓氷はナイフとフォークを皿の上に置いて、ショルダーバッグから一冊の文庫本を取り出した。ファミレスへの行きがけに書店で購入したものである。
「背というのは本が閉じられている方で、本のタイトルや作者名などが印字されている部分だね。文字通り本の背中にあたる部分だ。蒲生が言ったページの上と下というのは、天と地のことだろう」
「天と地?」
「天とは、背を手前側にして本を立てた場合、上になる部分のことだ。地は天の逆で、本を立てたときに下になる部分を指す。つまり、通常本の背を表にして並べている書棚の中に、天あるいは地の部分を手前に引き出した状態になっている本があった。そういうことだね」
文庫本の背、天、地の部分を順に指差して説明する碓氷に、蒲生は深々と頷く。
「そういうことだ。実に分かりやすい解説だな」
「どうもありがとう――で、どうしてそんなことになっていたの」
「知るかよ。その答えを聞きたくて今日お前を呼び出したんだ」
あっけらかんと告げた蒲生に、碓氷はがくりと首を垂れる。
「あのね、僕は推理小説に出てくる探偵じゃない。そんなことを聞かされても答えられるわけないよ。本を倒した張本人に訊ねるしかないだろう」
「誰がやったか突き止められないから、お前の意見を拝聴したいのさ」
「本屋の店員が、何かの目印のためにわざとやったんじゃないの。本の並び替えとか、在庫確認とかのために」
「しかし、あの並びは明らかに無秩序というか、何の規則性もなかったぞ。無作為に選んだ本を倒している感じだった」
両腕を組み抗議する友人に、碓氷は蝿を追い払うように片手を振る。
「選択の規則性なんて、実行した本人にしか理解できないものだよ。考えるだけ無駄だって」
「ふ。お前のことだから軽くあしらわれることは想定済みさ」
蒲生は悪事を企む犯罪者めいた笑みを浮かべると、シャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
「何を隠そう、件の本棚の写真をここに収めてきたのさ。これを見れば、お前なら何らかの規則性に気が付くかも分からんと思ってな」
液晶画面を碓氷の鼻先に突きつけて、蒲生は勝ち誇ったように微笑む。半ば強引に探偵役を担がされた男は、意図せず砂漠に迷い込んだ旅人のように、げんなりとした面持ちで溜息を吐いた。
「本が倒されていたのは文庫コーナーの本棚二つのみだった。ハードカバーや児童文学、参考書や雑誌といった他の場所ではそうした妙な光景は見られなかった」
「しかも、日本文芸のみの文庫コーナーだね」
スマートフォンの液晶画面を食い入るように見ながら、碓氷は補足する。
「ああ。海外文庫コーナーに関しても、倒れている本は一冊もなかった。それから写真を見れば分かると思うが、倒されていた文庫本は全部で十五冊だ。そこの本屋は縦長の書棚を横に二つ並べてコーナーの一角にしていて、その一角の中で十五冊が倒されていたわけだな」
「本棚一つにつき五段あるわけか。つまり、五段の本棚が二つ横並びになっていて全部で十段。その十段のみが被害に遭っていた」
「多少大袈裟だがそういうことだ」
「これが店員のやったことじゃないのなら、必然的に客の仕業になるわけだけど。でも、本が倒されていた以外にはこれといった異常はなかったんだよね」
「いや、あの後にもしかすると何か事件が起きていたかもしれないぞ。実は店内に万引き犯がいて、ターゲットの本を目印として倒していたとか」
「十五冊も万引きされたら、さすがに店員が気付くでしょ。というか、今は大概の本屋で、レジを通さない商品を店外に持ち出そうとすると警報みたいな音が鳴るよね。蒲生が行ったところもそうだったんじゃないの」
「そこはほら、何か方法があるのさ。ブザーを鳴らさず商品を持ち出す妙案が」
苦し紛れな声で対抗する蒲生に、碓氷は冷めた視線を送る。
「一人の客が十五冊も一気に持ち出せるとは思えないけど」
「その点に関しては問題ない。万引き犯は複数人いたんだ。仲間で手分けして数冊ずつ盗み出す。みんなでやれば怖くないという、あの理論だな」
「いや、使い方が違う気がするし、そもそも問題ありまくりでしょ」
失笑する碓氷に、だが蒲生は真顔で言い返す。
「万引きという発想自体は至って現実的じゃないか。犯罪組織が書店の本を通じて秘密裏に情報交換をしていたとかいうよりは」
「蒲生の思考は随分小説の中身に影響されやすいみたいだね。その書店で買った本、どうせスパイものか何かでしょ」
蒲生は聞こえなかったふりをして碓氷の言葉をやり過ごすと、テーブルに置かれた文庫本に手を伸ばした。
「倒されていた本は、天の部分が手前になっているものもあれば、地の部分が手前のものもあった。この違いは何なんだろうな」
「選ばれた本に法則性がないとすると、真っ先に考えられる可能性が一つある」
「お、早速敏腕探偵ぶりを発揮か」
茶化すような口ぶりの蒲生から文庫本を取り上げた碓氷は、家の扉をノックするように表紙を拳で叩いてみせる。
「本を倒した人物は、本が奇妙な向きに倒されている書棚に客や店員の意識を集中させたかった。店内にいる人たちの注意を一定の場所に引き付けようとしたのさ」
「本屋にいる人たちの注意を逸らす、か。となると、犯人は衆人の目をごまかして何か他の悪事に手を染めようとしていた」
「万引きの話は確かに現実的だけれど、店に設置された警報のことを考えればやはり無理がある。また、店内には防犯カメラも設置されているだろうし、いくら周りの注意をある場所から逸らしたところでカメラに映ってしまえば意味がない」
「カメラの死角を利用したってのはどうだ。確か、防犯カメラの真下は死角になっていて映らないんじゃなかったか」
「人間の目も、カメラの目も欺こうとしていたのか。でも、本が倒されていた書棚は二つだけだったんだろう。そんな限られたところに店内にいる全員の目が向くとは考えにくい。蒲生が店にいたとき、客の入り具合はどうだったの」
蒲生は記憶の糸を辿るように視線を斜め上へと彷徨わせる。
「土曜日の夕方で、そこそこ賑わっていた気がする。レジに客が列を作ることもあったし、まあ閑古鳥が入る隙はなかったろうな」
「であれば尚更だね。それに、わざわざカメラの死角に入り込まなくても、もっと簡単に人の目が届かないところで悪さをする方法がある」
「俺は全く想像がつかないぞ」
「同じ店内にありながら、絶対的に他者の視線からプライバシーが守られている個別の空間があるだろう」
「視線を遮る個別の空間――トイレか!」
短く叫んだ蒲生に、碓氷はこくりと頷く。
「店内にトイレがあれば、出入り口の警報にも引っかからないよね。それに、犯人の目的が本まるごと一冊ではなくページの一部だけだったら、切り取った後の本はこっそり棚に戻しておけばいい。商品を持ち出していないのだがら警報を恐れる必要もない」
「なるほど。周囲の意識を本棚に向けさせようとしたのは、ターゲットの本をトイレに持ち込む瞬間を見られないようにするためか」
「そういうこと――ここまでは、あくまで倒された本に規則性がない場合の話だ。では、犯人が一定の規則に従って本を倒していたらどうなるのか」
「購入予定の本を忘れないため、というのが妥当な仮説だがな」
「ミステリ性も何もない結論だね。蒲生が納得するのであれば、僕からは何も言わないけど」
碓氷に探偵役を押し付けた男は、両の口角を三日月のように吊り上げてみせる。
「納得いくわけがないだろう。それに、考えるうちにやはり倒された本には何かルールがあるんじゃないかと俺も思い始めた」
書棚を映した写真を液晶画面に表示させたまま、蒲生はスマートフォンを碓氷に手渡す。
「タイトルや作者名が書かれた背表紙は見えないから、厳密にターゲットを把握することはできないね。せいぜい、作者名の頭文字を絞り込むくらいしか」
ショルダーバッグからボールペンを、財布からレシートを取り出す碓氷。画面と睨めっこをしながら、倒されていた十五冊の配列をあいうえお順にレシートの裏に書き出してく。
あ(地) / い(地) / お(天) / く(天) / さ(天) / し(地) / そ(地) / は(天) / ふ(地) / ら(地) / ら(地) / わ(地) / わ(地) / わ(地) / わ(地)
「この括弧の中が、客側に面した部分ということだな」
「うん。それにしても妙に偏っているね。わ行は四冊も倒れているし、地の部分が手前になっている本が圧倒的に多い」
「言われてみればそうだな。因みに、この中のいくつかは正確な作者名が分かるぞ。気になって本を引き抜いてみたんだ。もちろん、戻すときも倒したままでな」
碓氷からボールペンを拝借した蒲生は、レシートに書き込みを加える。
「『そ』は確か、造田箴言だったな。『ふ』は毒島影一郎、『ら』は乱橋吹汰だ」
「蒲生の趣味も極端だね。見事に古典ミステリの名手しかいないじゃない」
「俺の好みはほっとけや」
意中の相手を前に恥らう乙女の如く、微かに頬を赤める蒲生。
「で、何か法則性は見つかったのか、敏腕探偵さんよ」
「僕は探偵じゃないし、すぐすぐ分かるわけないだろう――人任せにしないで蒲生も考えるんだ」
碓氷は空のグラスを手に立ち上がると、レシートに鼻をくっつけるようにして唸りを上げる友人を尻目にドリンクのセルフコーナーへ足を運んだ。出入り口のレジでは、店員と制服姿の警官が立ち話をしている。壁に貼り付けられた「警察官立寄所」のステッカーに目を移し、一人会得したように頷きながら席へ戻った。
「碓氷。これはやはり、書店を密会の場に暗号通信が行われていたんだ」
ソファから立ち上がらん勢いで身を乗り出す蒲生を、面倒臭そうに手のひらで押し戻す。
「はいはい、どんなやり取りが行われていたんだ」
「真面目に聞けって。いいか、これは誰もが知っているあるものに見立てた配列だったんだ」
「あるもの?」
「そう、人生で必ず一度は目にするものだ。特によく見かけるのは学校とかだな。人によっては家に置いているとか、これでプロの道を目指す者もいるだろう」
「もったいぶらずにさっさと言いなよ」
「解答を即座に求めるとは、敏腕探偵の名が泣くな」
「僕は敏腕探偵じゃないし、名乗った覚えもない」
「まあ、いいか。これはだな、ピアノの鍵盤を再現していたんだ」
蒲生の口から飛び出した新説に意表を突かれたのか、碓氷は忙しなく両目を瞬かせる。
「よく見ろよ。地をピアノの白い鍵盤、天を黒い鍵盤に置き換えるんだ。『お』『く』『さ』の作者の本は『天』、つまり黒い鍵盤が連続している。ピアノの黒い鍵盤が連続している部分といえば」
「ファ、ソ、ラのシャープ。半音高い鍵盤だ」
「あるいは、ソ、ラ、シのフラット、半音低い鍵盤とも言えるな。どちらでも構わないが、とにかくこの連続する黒い鍵盤を基準に考えてみよう。最初の黒い鍵盤は『お』で、前には地、つまり白い鍵盤が二つある。ということは、ファのシャープから二つ前の白い鍵盤はミ、ファになるわけだ。この調子で十五冊すべてを鍵盤に置き換えると、ミから始まりオクターブのミを超えたラまでの白い鍵盤十一個、『お』『く』『さ』『は』に当たるファ、ソ、ラ、ドのシャープを表す黒い鍵盤四個。以上に見立てることができる」
一息に捲くし立てた蒲生を、しげしげと眺める碓氷。
「かなり突飛な仮説だけれど、発想としては面白いと思う」
「だろ、だろ」
「で、倒れた本を鍵盤に見立てて、犯人たちはどんなやり取りを交わしていたの」
「例えば、最初に本を倒した犯人がいて、二人目の犯人がそこからいくつかの本を抜き取る。最初の犯人が程なくしてから戻ってくると、鍵盤に見立てた本がいくつかなくなっていることに気付く。その抜き取られた鍵盤が犯人たちにとっての暗号になるわけだ」
得意げな顔で自説を披露する蒲生。だがこのとき既に、碓氷は蒲生とは異なるひとつの仮説を導き出していたのである。