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9話 家の秘密

 家に、ひとりで帰るのが淋しいことになってしまった。全部、南くんのせいだった。

 南くんは、今日から部活が遅くなるからと言って、悪いけど一緒に帰ることができないのだとメールで伝えてきた。メールでそのようなことが送られてきたのも、一緒に帰ることができなくなったのも、それほど残念ではなかったけれど、ちょっとだけしゅんとした。

 でも、それも仕方がないのだ。南くんは今、コンクールに出すための絵を一生懸命仕上げているのだから。絵のことだけに集中して、頑張ってきた部活動に成果を残したいのだから。

 理解しながらも、こつこつと踏み鳴らす靴音がひとつなのはどうにも落ち着かないものだった。手が冷たいのもいただけない。このところ、ずっと一緒に帰っていたもんだから、余計に隣にいない南くんの存在感が大きく感じられてしまった。

 立ち止まって、背後に沈み行く夕陽を振り返る。

 輝くような陽の光も、しかし今日からは青色のフィルターを通して見えるのだろう。思わずこぼれたため息を止めることは、どうしてもできないことだった。


 鍵を回して、家のトビラを開ける。今日も母さんは帰ってきていない。置手紙をひとつ残すだけと言う、古風な感じで唐突に家出をしてしまった母さんは、もう一ヶ月近く家に帰ってきていない。

 私は自室に鞄を置きに向かい、そのまま制服も着替えた。リビングに戻ってきて、テレビを点ける。平日の夕方に放送している番組は、どれもこれも再放送ばかりでつまらない。

 でも、音だけ流していればいいのだ。家にはラジオがないから、テレビをその代用として用いているだけである。

 冷蔵庫から牛乳を取り出して、ミルクパンで温める。インスタントコーヒーを加えて(カフェオレを作るために、一応インスタントコーヒーは準備している)、砂糖を少々、マグカップに移して、私はテーブルについた。

 我が家のカフェオレに純粋な水分は不要だ。まったりとしたミルクオンリーのまろやかさと甘みを楽しむのが、私流である。

 一口啜って、部屋に行ったときに持って来ていた小説を広げる。学校の図書館で借りてきたものだった。過去の恋愛を引き摺ったまま、狂気に囚われ引越しばかりを繰り返す母親と、そんな母親のもとで成長していく女の子の生活を描いた小説だった。

 栞を挟んでおいた場所で開き、私の視線は活字を追い始める。この小説を書いた作家の物語は、どこか静かな喪失感が漂っているから面白いと思う。今までに四冊読んだ。この作品が五作目だった。

 私はこの母子の物語を、恋愛小説だと思って読んでいる。

現行の恋愛ではないけれど、また描かれているのはあくまで狂気に囚われた母親の姿と、そのもとで成長していく女の子の姿だけれど、私には確かにこれが恋愛小説に思えるのだ。

 恋とか愛と言うものは、人の深いところ、心とか気持ちとかそういったところに、大きな痕跡を残して過ぎ去っていくものなのだと思う。それは、過ぎ去ったころになって初めてわかるものなのだ。誰かの痕跡と言うものは、そう簡単に消せるものではないのだと思う。

 その昔、私の父さんは死んだ。殺されたと言った方が正しいのだと思う。いろいろな責任とか、私にはどうしてそう言うことになったのかは今でもわからないのだけれど、悪者にされてしまって、それで自殺した。首吊り自殺だった。

 病院で、泣き崩れる母さんと一緒に目にした父さんは、真っ白な顔をしていて、首に食い込んだ縄の痕とか、不自然に伸びた首とか以外は結構綺麗な死体だったと思う。

 これが飛び降り自殺とか、入水自殺とか、焼死自殺とか、車や電車に轢かれての自殺じゃなくて本当によかった。私は父さんの死体を前にして、最初にそう思った。だって、父さんはびっくりするくらい綺麗な死体だったから。これが原型も留めていないような肉片だとか、頭が陥没した姿だとか、ぶくぶく水を吸い込んだ身体だとか、炭みたいになってなくて、本当によかった。ほっとした。

 これ以上泣き続ける母の声を、また更に悲壮のこもったものにして欲しくなかったし、私自身綺麗な父さんを最後に見ることができてよかったのだ。

 でも、本当は知っていた。首吊り自殺も汚くなるってこと。自殺とは、その本質としてそう言う汚らわしさを伴うものなのかもしれないのだ。それが自ら命を断った者への代償なのかもしれない。

 でも、と私は思った。すっかり本を読むのは諦めていた。

 栞を挟んで本を閉じて、私はテレビも消した。カフェオレを飲みながら考える。

 どうして自殺する者は代償を払わなければならないのだろうか。

 そもそもにおいて、そう言った末路を選択する人は、もう十分に苦しみ、辛い目に会ってきただろうに。それなのに、どうして最後の最後までそんな目に合わなければならないのだろう。

 神様と言う存在がいたとして、その大いなる存在が人の命も見守っていると言うのならば、どうしてそのような仕打ちを仕出かすのだろうか。頑張って耐え続けたのだ、最後ぐらい綺麗に送り出してあげればいいのに。

 そこまで考えて、私は服薬自殺のことを思い出した。ああ、あれなら眠ったように死ぬことができるんだったっけ。なるほど、神様も手段は残してくれているみたいだった。

 私はすっかりぬるくなったカフェオレを一気に煽った。席を立ち、キッチンに向かって夕食の準備に取り掛かる。今日は八宝菜にしようと思った。それからわかめスープとほかほかご飯。一人分のご飯を作ると、どう言うわけか大人数のご飯を作るときよりもおいしくなくなってしまうので、今日は二人分の八宝菜を作ることにした。

 冷蔵庫から青梗菜を取り出す。まな板と包丁を準備して、早速料理に取り掛かった。

 余談だけれど、父さんが死んだ日、私は母さんに隠れてこっそり泣いた。激しく泣き続ける母さんの隣では負けてしまいそうになったけれど、身元確認のための面会も一段落して、心を動かすのを止めてしまったように呆ける母さんを看護師さんにお願いして任せて、ひとり向かったトイレの個室で、私はちょっとだけ泣いた。声は出なかったけれど、涙だけは止めどなく溢れ続けた。

 そう思えば、私はあの日から一度も泣いていないような気がする。

 ざくりと、包丁が青梗菜を切り分けた。

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