7話 四番目の夢
四番目の夢は、もう随分見ていなかった。だから、おそらく見るだろうなと思って寝たのだけれど、がばりと目が覚めたあとで後悔した。眠らなければよかった。冷や汗でびっしょりになった身体が、冷たい秋の夜の外気に晒されてとても寒かった。
その夢はまったくの暗闇に始まって、暗闇のままに終わる。私は、これまでの夢とは打って変わってその場に蹲り、がたがたと震えているのだ。
そこには恐怖しかなかった。明確な悪意とか、外部からの強い憎しみみたいなものはまったくないのだけれど、私はずっとそれ《・・》を怖がっているのだ。
恐怖は、たぶん闇が本当の闇だから生じているものなのだと思う。
夢の中で、私は何度も目を開けたり閉じたりしている。それなのに、目の前に広がる闇の濃度は一向に変わらない。それが奇妙で、怖くて、私は更に何度も何度も目の開閉を繰り返してみるのだが、その内に、果たして今私は目を開いているのか、それとも閉じているのかさえも分からなくなってしまうのだ。
確かに、頭ではきっと今は目を閉じているぞ、いや今は開いているぞ、と理解している。それは当たり前のことだった。馬鹿でもわかることだ。でも、そんな当たり前であっても、次第に不安で耐えられなくなってくる。もしかして今は、本当は目を開いているんじゃないだろうか。頭が、本当は勘違いを起こしていて、閉じていると思っているにも関わらず、目が開いているのではないか。そうしてそのまま目が乾いていって、カチカチに固まってしまうんじゃないだろうか。私は目が見えなくなって、でも暗闇の中だからそれすら確認する方法がなくて、本当に何も出来なくなってしまうのではないだろうか。
そんなことを考えるたびに、夢の中の私は、ぎゅっと、ちかちかするくらいに目を瞑って、それからそっと瞼の上をなぞる。それしか目の開閉を確認する方法がないのだ。そうして、よし、私は今目を閉じていると確認して、目を開いて、また私は恐怖に震え始めるのだ。今度はそれ《・・》に対して。
それ《・・》は息をしている。大きな吐息で、遠くにいようが近くにいようが、その吐息は必ず聞こえてくる。すぅー、はぁー、すぅー、はぁー、と規則正しく、私との距離を詰めたり離したりしながら聞こえてくる。
息は、遠い時には、それこそ目のことについて不安を覚えてしまうほどに遠く聞こえるのだけれど、近くに聞こえるときは、本当に耳のすぐ側でその吐息が聞こえてくる。湿っぽくて、生臭い呼吸が、耳を撫でるようにして繰り返されるのがわかる。
後ろに、それ《・・》はいる。確かな質量を持って、そしておそらくいびつに歪んだ笑みを浮かべて、それ《・・》は立っている。舌なめずりをしているのがありありと浮ぶような気がする。
そのとき私は盛大に身体を震わせて、目からは涙を、おそらく鼻水も涎もたらしながら、がちがちと奥歯を鳴らしている。とにかく怖いのだ。怖くて怖くて堪らないのだ。それ《・・》が私に対してなにをどうこうするのが問題なんじゃない。それ《・・》と言う存在が近くにあると言うだけで、私は自分を忘れてしまうくらいの恐怖に包まれてしまうのだ。
それ《・・》は、そんな私のもとから離れるとき、決まってぶるると身体を震わせる。それが快楽から来る震えなのか、それとも何かに脅えての震えなのか、後ろを振り向くことを許されていない私にはわからないのだけれど、その震えを背中に感じるとき、私は確かに安堵する。もう怖い思いはしなくていいんだと思う。
そうして、がばりと目が覚めるのだ。
じっと、上体を起こしたまま今まで見ていた夢を振り返っていた私は、時計に目をやった。午前四時を回ったところだった。
室内が暗いのは当たり前なのだけれど、まだ空にも夜がしたたかに残っている時間だった。
けれど、もう一度眠るような気力が残っていなかった私は、少し眠いし、起きるにはかなり早いけれど、ベッドから降りることにした。
ここ十数日、あの夢を、子供の頃によく見ていた夢をまた見るようになった。それがなにを意味するのか、または何かの暗示なのか私にはわからないけれど、できることならもう見たくはないなと思った。
四つ目の夢は、それこそ子供の頃からのトラウマだった。見れば必ず泣くことになったし、そうやって泣いて起こすと父さんも母さんもいつもあやしてくれたものの、いつからか面倒くささが滲み出すようになっていた。
私の夢が、私だけではなく両親をも煩わせている。
その事実は、私が小学一年生になった頃、ようやく重たい事実となって理解することができた。だからその頃からは、四つ目の夢を見て起きて、怖くて泣くことはあっても、決して両親に頼るようなことはしなかった。父さんと母さんに、面倒くさいと思われるよりかは、果てしない恐怖に耐える方がまだ楽だった。
いつから、夢を見ても泣かないようになったのだろう。私は汗で濡れたパジャマと下着を着替えて、温かなコーヒーを飲んでいた。濃く苦めのコーヒーは、たちまち目をきりりと覚醒させてくれる。
ああ、確か小学三年生くらいだった。その頃から私は四番目の夢を見ても泣くようなことがなくなり、代わりに静けさを好むようになったのだ。
泣かなくなったことと、静けさを好むようになったこととの接点が上手いように見いだせなかったけれど、私の中で夢に泣かなくなったことと静けさを好むようになったこととは、見事に時期が一致しているのだ。少し不思議だけれど、そう言うことになっている以上、そう言うことだと受け入れる他、私にできることはそうないと思う。
私はマグカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。幾分か温度の下がっていたコーヒーは、私の空っぽの胃の中を、その焦げた黒色で満たしていった。