13話 すぐそこにある温もり
その日、私は南くんと一夜を過ごすことになった。洋子ちゃんと名取くんは夕食の準備と食卓に並ぶのを済ませるとさっさと帰っていってしまった。私としては南くんにも帰ってもらってよかったのだけれど、南くんがどうしてもと言うので仕方なく一緒に過ごすことにした。
「絵梨はまだ万全じゃないんだから」
確かにそれはそうだった。けれど、私としては、今までずっとひとりで過ごしていたわけだから、急に人が、それも一応ではあるものの、彼氏がいるとなると妙に胸が騒ぐのだった。
食器のあとかたつけを申し出たのだけれど、猛烈に却下されてしまった。言い分は先と同じ。実感として、かなり万全に近い状態だったので、なんだか申し訳ないような気がした。ちょうど、微熱があるようなときと感覚が似ているのだ。それは、けれど少し心を休めてみると、案外心地のいい疲れだった。
何せ、身の回りのことを何もしなくていいのだ。それはとても贅沢なことだった。
ベッドに潜り込んで、私は今日のことを思い出してみる。冬用の厚みのある布団の温もりは、来てくれた三人の温もりと似ているような気がした。
やがてノックがあって、部屋の中に南くんが入ってきた。ベッドの隣に座ると、私の額に手を当てて、大丈夫かと訊いてきた。
熱じゃないんだからと思った。でも、ひんやりと冷たい手はとても気持ちよかった。
大丈夫、なんともないと答えてから、私は南くんの掌の不思議について考えることにした。
南くんの掌。大きくて、ごつごつしていて、とてもこの掌が繊細な絵を描き出すとは思えない掌。その魔法の手は、繋ぐととても温かいくせに、こう言ったときには気持ちよく私のことを冷やしてくれる。どうしてなんだろうと思った。どうして南くんの手はこんなにも私の心を理解しているのだろう。
「もうさ、ひとりで抱え込むなよ。洋子だって、あの名取って奴だって、もちろん俺だっているんだから。だからさ、もう抱え込まないでくれ」
声を聞いて、掌の秘密がわかったような気がした。
「ねえ、南くん、そんなに言うならさ、ひとつだけお願いしていいかな」
「もちろん。どうぞ」
答えた南くんを見ながら、私はにへらにへらと笑ってしまう。これから口にすることが小恥ずかしくて、また同時にそのときに見ることができるだろう南くんの反応が楽しみで、そんな妙な笑い方になってしまうのだ。
「なんだよ、気味悪いぞ」
案の定よからぬ空気を悟ったのか、南くんは身じろぎながらそう言った。私の笑みはますます深くなる。
「ふふん。じゃあ言うよ。あのね――」
「ちょっと待った。その、無理なこととかはなしだぞ。物真似とか、俺はできないから言われてもしないから」
どうして、そこで物真似が出てくるのだろうと、ますます南くんを可愛らしく思った。
「大丈夫。そんなこと言わないよ。ほんのちょっとしたお願い事だから」
「本当に?」
「本当に」
しばらく押し黙って、南くんは決心を固めたようだった。
「よーし、何でも来い」
「へへ、じゃあね、今日だけでいいからさ、私と一緒に寝てくれないかなあ」
南くんは硬直した。私も顔が真っ赤になるのがわかった。でも笑顔だけは絶やさない。絶やしてなるものかと思っていた。
「ねえ、何でもいいんじゃなかったの」
「う、あ、うん。確かにそうだけど」
「ふふん。じゃあさ、早く早く。布団の中に入りなさいな」
「いや、でも……」
「私がいいって言ってるんだよ? 何を迷っているのさ」
私はもう恥ずかしさも何も全部捨てて、どうしても南くんと一緒に寝ることができるようにと畳み掛けていた。
南くんは、それでも顔を真っ赤にしたままうじうじしていた。そんな姿を、私は心から愛おしいと思った。初めてだった。私が南くんに対してこんなに強くそう思うのは。それは純粋な愛おしさであり、とても大切な恋心だった。
「わかった」
そう、呟くようにして口にした南くんの表情と、その決意を私は将来忘れないんじゃないかと思う。さあさあと、招き入れる私に対して、いろいろ電気とか消してきてないからと言って、南くんは部屋を後にした。お楽しみはあとにと言うことらしい。私はとてもばくばく拍動する心臓の鼓動を身体全体で感じ取っていた。
ドキドキする。とても恥ずかしいけれど、わくわくしている。不思議な気持ちだった。できればこの時間がこのまま止まってしまえばいいのにと思って、いやでもそんなのは嫌だと思った。私も混乱していた。
やがて、南くんが帰ってきた。そっとベッドに近づくと、私を向いて、
「いいか、俺は絵梨に対してなんらやましいことは考えてないからな。ただ、俺は一緒に、そう、添い寝をするだけなんだ。それ以上でもそれ以下でもないんだ。いいな」
と言った。私は可笑しくなって噴き出してしまう。
「それ、誰に向かって言ってるの?」
答えずに、南くんはゆっくり布団の中に入ってきた。
肩が触れた。ベッドがしなって、ぎぃっと音を立てた。私たちは互いに無言のまま、じっと天井を見続けていた。
心臓はばくばく言っている。たぶん、きっと、南くんも同じくらいに。二人の心臓が振動し続けているから、こんなにも大きく聞こえるのかもしれなかった。室内には鼓動の音と呼吸音以外何も聞こえなかった。
私は叫び出したかった。
今、私、南くんと一緒にベッドで横になっている!
でも、恥ずかしいから止めにした。
代わりに掌が南くんの手を求め、そして握った。がちがちに凝り固まっていた南くんの身体は、それだけでびくんと撥ねてしまって、それが可笑しくて、私は随分と緊張を和らげることが出来た。
「笑うなよ」
「ごめん」
そんなやり取りをしながら、私たちは互いの掌をぎゅっと握り合った。
それはとても幸せなことだった。繋いだ手と手の間に光が捕まえられていて、それがゆっくりと身体の中に染み込んでくるような感じだった。
やっぱり南くんの掌は温かだった。さっきはあんなに気持ちよく冷えていたのに、今はとても温かい。その理由にちょっと得意になって、私はまた笑えて来てしまった。
「今度はなんだよ」
こちらも、さっきの一件で随分とリラックスできたらしい。南くんはそう尋ねてきた。私はあることを思いついた。
「ねえ、南くん、抱きついてもいい」
「は?」
「ね、いいよね」
「いや、それはちょっと……」
「なに。南くんだって私に抱きついてきたじゃん」
「あれは、その、感極まってって言うか」
「じゃあ、私も。今私は感極まっているんです」
言って、南くんの身体に抱きついた。ぎゅっと抱き締める南くんの身体は大きくて、それから知らない家のにおいがした。私はそのにおいを身体いっぱい吸い込んでみる。それから左胸に耳を押し当ててみた。
「どくんどくん言ってるね」
「当たり前だろ」
恥ずかしそうに南くんは口にした。その声だけで、私はもう笑顔になってしまう。とても幸せな感じだった。それでいてとても満たされている感じ。私は目を閉じた。
南くんの鼓動が闇を満たす。においが、上下する胸の動きが、それぞれゆっくりと私の心を満たしていく。それがとても嬉しくて。知らず知らずの内に私は涙を流していた。
気が付いた南くんは、しかし何も言わずに私の頭を抱き寄せてくれた。
「もう泣くなよ。背負うなって、言ったばっかだろ」
そんな心配する一声すら、清水のように私の心に染み込んでいって、いつの間にか私の口は微笑を作っていた。
「今日で最後にするから。こんな風に、淋しさと悲しさと、それから嬉しさと喜びを感じて泣くのは今日で最後にするから」
だから、今夜だけはこのまま泣かせてください。
ぎゅっと頭に回った南くんの腕にちょっとだけ力がこもったような気がした。嗚咽を堪えながら頬を寄せる南くんの身体に、心地のいい暖かさを感じながら、私はやがて眠りへの入り口へ落ちて行きそうになった。
これから先、またあの夢を見ないと言う保障はどこにもない。母さんがどこに行ってしまったのかも、戻ってきてくれるのかも、生きているのかさえわからない。もし、もしも最悪の事態になってしまっていたとするならば、私は再びあの夢に囚われてしまう可能性は、結構あると思う。その時はこうして、またいろんな人たちを心配させて困らせるのだろとも思う。
けれど、今夜だけは、今宵だけは、絶対にあの夢を見ないと言う自信があった。
だって、隣に大好きな彼がいるのだから。
幾分か落ち着いて意識の半分くらいまどろみかけていた私は、ゆっくり顔を上げると、南くんの唇にキスをした。
大丈夫。きっといつか満たされるときが来るのだから。
遠く、夢の奥底で誰かが笑った気がした。
私はその人を、またその人たちを誰よりも知っているような気がした。
これで一応終わりです。少しの間でしたが、お付き合いいただきありがとうございました。
今作は江国香織の神様のボートを読んだ後覚えた、寂しさとも悲しさともつかない感覚を頼りに書いたものでした。ですからこの作品は、いわゆる雰囲気を伝えるだけのものでした。
なんの道筋もなく、空白のままに最初の一文を書いて、そのまま一気に書き切りました。そのため少し見苦しい点が散在していましたね。一度修正入れましたし。ただ終われてよかった。
短編にしようとして、それなりに延びてしまった。次はきつねを頑張ります。終わらせたいです。……なぜか書けない。
今回の作品について。
端的に書くようにしたこと。そのために薄味の表現になったと思うこと。その他、感じたことを次回に活かしたいと思います。
一文の感想や指摘、酷評、ありましたら気軽に書き込んでください。ためになります。そして主に私が喜びます。
それでは。また次の作品で。