11話 涙の意味
母さんがいなくなってから、ずっとひとりが淋しいなんてことは思わなかった。思ったらそこで折れてしまうし、折れてしまったらなかなか元には戻れないだろうと思っていたからだった。
だから、何でもできることは自分でやって、変わらない生活を続けていたつもりだった。洋子ちゃんにも南くんにも、そしてきっとクラスの誰にも、担任にも、隣に住んでいるサラリーマン風の男の人にだってわからなかったと思う。私がひとりで生活していると言うこと。絶対にばれてはいなかった。
でも、それも今日で終わりだ。ひとりがこんなにも心細いものなのだと、とうとう私は心から理解してしまったから。
外はいつの間にか太陽が昇っていて、部屋の中に陽射しを射し込ませてきていた。それはおそらく平等に、この町を、人を、世界を照らし出しているのだと思う。
でも、どうしたって照らし出されない人がいるのだと言うことに、私は気が付いた。気が付いてしまった。その人たちは、とても大声を上げて太陽の光を欲しがっているのに、どうしても浴びることができない人たちなのだ。もしくはもの《・・》たちなのだ
可哀想だとは思えなかった。ただ、醜いとしか思えなかった。また、そう思ってしまった自分が、何よりも汚れ歪んでいるような気がして、どうしようもない気持ちになってしまった。
身体に引きつけた布団は、冬用のぶ厚い暖かなもののはずなのに、とても寒かった。私は四時ぐらいに目が覚めてしまってから一睡もできずに、また動くことさえできずに、ただただ涙を流し呆然とし続けていた。
夢は、とてもじゃないけれど言い表すことの出来るようなものではなかった。そこは真っ赤な世界で、おそらく四番目の夢の暗闇が晴れた姿なのだろうけれど、とても禍々しい世界だった。
私はそこで、父さんを見て、その後ろに他のいろいろなものの姿を見て、それがどのような人たちなのか、なぜそのような姿をしていなくてはならないのかを、少なからずと理解して、それで目が覚めた。
醜く、まるで人間だった姿を留めていなかった父さん。おそらく、その隣に寄り添っていたのは母さんではなかっただろうか。違うかもしれない。今の私には判別できない。
とにかく私は、目の前に立った二人を見て恐怖し、振り返り迫り寄ってきていた本当の異形を目の当たりにし、それから父さんと母さんが私をその異形から守ってくれていたことに気が付いて、どうしようもなくてその場に座り込んだ。
地面は、真っ赤な液体で覆われていて、座った途端にべちゃりと嫌な音を立てたけれど、そんなことすら気にならなかった。いろいろな感情が入り乱れて、奔流し、私は私という人格から抜け出してしまったのだ。
そうして、人格を本当の異形の前に置き去りにしたまま、私は目を覚ましてしまった。私は全てを理解していた。けれど、同時に全てを捨てて来てしまってもいた。
抜け殻の身体と、夢だけを持ち帰った頭とは、その繋ぎとなる人格を持たないことには起き上がることも、動くことさえできずにただじっと変化する部屋の中の光を追うしかなかった。
何回か、携帯電話が鳴ったような気がする。たぶん洋子ちゃんや、洋子ちゃんから話を聞いていよいよ心配になった南くんがくれたのだと思う。でも、私にはその電話に出ることさえできなかった。だって、身体が動かないから。
時間は刻々と変化していった。光は、始めはカーテンから五十センチくらいしか照らし出さなかったけれど、その内ぐーんと伸びて、斜めになり、やがて小さく萎んでいった。
その間、携帯電話は更に五回以上着信を告げた。それぞれ室内に、振動する耳障りな音を一分近く響かせて、そうしていつも止まった。たぶんメールはもっと多いのだろう。確認できないから私にはわからなかったけれど。
身体は空腹を訴えるようになった。頭にはそれがわかったけれど、どうしようもなかった。動けないから。どうしようもないから布団にくるまって、私は目覚めてからずっと泣いている。あの日と同じような、声は出ないのに決して止まることのない涙だった。
このまま止まらないのならば、脱水症状を起こしてしまうかもしれない。泣き続けて脱水症状になるだなんて、少しおかしな話だけれど、今の私にとっては、あながち笑い話では済まない事柄だった。
でも、その一方で、このまま脱水症状になって気を失ってしまうのもいいのかもしれないとも思っていた。私はとにかく悲しかったのだ。あまりにも悲しいせいで、命すらも軽んじてしまうほどになってしまっていた。
ごめんなさいと、何度も何度も父さんと母さんに謝りながら、私はどうして神様は人間に感情なんてものを与えてしまったのだろうと思った。
もしくは理性か。人間はそんなものがあるためにいろいろなことを考え、予測し、後悔して、誰かを傷つけ、傷つき、あるときにふとどうにもこうにも動けなくなってしまうのだ。
または、そのために、たった一つだけ残された道に気が付くようになるのだろう。その道しか見えなくなってしまうのだろう。
父さんはその道を進まざるを得なかったのだ。もしかしたら、母さんも似たような道を辿らざるを得なかったのかもしれない。逃避すると言う点において、二人の行動はよく似ていると今の私は何となく思う。
そうして子供である私は取り残されている。ただ取り残されているならまだしも、まったくの自由を奪われて(またはまったくの自由になったために)、動けなくなっている。悲しくて泣いている。
いつの間にか外は暗くなっているようだった。何も食べなかった。何も飲まなかった。何もしなかった。私は眠ることさえ許されないまま、ただひたすらに泣き続けていた。
眠れないことについては、おそらく五つ目の夢の影響もあるのだろう。もう、あんな一連の夢を見るのはごめんだった。もう一度あの夢を見たのなら、私はもう戻れなくなってしまう。壊れて、深遠に吸い込まれてしまうような気がしていた。
月明かりが明るかった。もしかしたら満月なのかもしれないけれど、ベッドの上からでは確認できなかった。
あたりは静かだ。時間が止まってしまったかのような静寂に包まれている。携帯電話はあれから更に十回以上は鳴った。洋子ちゃんも、南くんも、案外私のことを心配していてくれているらしかった。
それがちょっとだけ嬉しかった。
でも、夜が深まって、ぴたりと携帯電話が沈黙してしまうと、またあの底なしの悲しさが襲ってきた。
涙は一時も止まらない。もう身体中の水分の十パーセントぐらいは流れ出したんじゃないだろうかと思った。頬が、乾いた涙のせいでかぴかぴしている。頭ががんがんして猛烈に痛かった。
気持ち悪いな。そっと思うと、唐突に瞼が落ちた。そして私は少しだけ短い夢を見た。
背景は白くて、光に満ち溢れていて、笑い声と笑顔の耐えない夢だった。それが誰の声なのか、誰の顔なのか、残念ながら私にはわからなかったけれど、でも、そんな空間を共有できただけで幸せな気分になれた。
もう死んでもいいのかもしれない。
光が遠ざかる中、私はふいにそんなことを考えた。それからものすごく深い眠りの狭間に落ちていった。どこまでもどこまでも。それは今までで一番深い眠りの溝のようだった。