1話 夢と私と南くん
小さい頃、よく夢を見た。
それは夢というにはあまりにもはっきりとしていて、その上意味を成さない断片的なものだった。私はひとり暗い部屋のベッドの上で目を閉じる度にその夢を見た。とても怖い夢だったような気がする。それでいて、どこまでもどうしようもない夢。私はその夢を見る度に、夜、目を覚まさなければならなかった。
夢は随分大きくなった今でも、ときどき思い出したように見ることがある。
私はもう高校二年生になっていた。
「高橋、さっさと帰ろうぜ」
教室で、ぼんやりとグラウンドを走り回る野球部員達を眺めていたら、入り口からそんな声がした。振り向けば南くんが立っていた。南くんは私の恋人だ。一応。私としては、特別他の男子達と印象が違わないのだけれど、告白されたし、それを受け入れたので私と南くんは恋人同士なのだ。
でも、そのことについて、私は南くんに対して少し罪悪感を覚えている。断る理由がなかったから受け入れた告白だったのだけれど、友達の葉子ちゃんに言わせれば、それは随分おかしいことだったのらしいのだ。
「断る理由がないって言ったって、別に好きでもなかったんでしょ? そんなの、南くんが可哀想じゃない」
確かにそうかもしれない。私は南くんに対して、淡い恋心も、考えるだけでほっとできるような、温もりに包まれた愛情も、まったく抱いていないのだ。それなのに、一生懸命告白してきた南くんと恋人になるのは、なるほど、よくないことなのかもしれない。
ちょっと卑怯だとも思う。もちろん、私がだけれど。
「なに見てるの」
近寄って、南くんが訊いてきた。ふんわりと自然と香る、たくさんの絵の具のにおい。南くんは美術部に在籍している。帰宅部の私とは、まるで大違いなのだ。
振り向いて、私は南くんの質問に答えようとした。けれど、私が答える前に、
「ああ、野球部見てたんだ」
と、南くんは勝手に納得してしまう。
こう言ったことはよくよくあることなのだけれど、表れる南くんの態度を、私はいつも少しずるいと思う。
「なあ高橋、早く帰ろう」
南くんはすぐに野球部への興味を失ったらしく、また同じようなことを言ってきた。
「わかった」
ため息を吐いてから答えて、私は鞄を手に席を立つ。机の中のものを詰め込んで、鞄を閉めたところに、にょきっと掌が現れた。
見上げると、南くんが優しく微笑んでいた。その笑顔を見て、私は急にどうしようもなく淋しくなった。まるで、大事なものが指の間から零れ落ちていくのを、何もできないまま見守るかのような感覚だ。理由はよくわからなかったけれど、それは一気に私を飲み込んだ。
でもそんなことには表情ひとつ変えないで、私はそっと微笑んだ。
大きくて温か過ぎる掌をぎゅっと握り返す。
「よし、帰ろう」
そう元気よく口にする南くんは、今日も嬉しそうだ。
夕焼けに染まる町は、たとえそこがどれだけ人工物に侵されていようとも、自然に満ち溢れていると思う。オレンジ色に染められた建物とか、走り去っていく車の波とか、コンクリートで舗装されてしまった川であっても、どこか懐かしい感じがするのだ。ちょうど、小さかった頃おばあちゃんの家で見たような、里山の景色に似た感覚。吸い込む空気も、聞こえる町の音も、どこまでも純粋に澄んでいて、それぞれがとても大切なもののような気がする。
それはもしかしたら、夕陽がものごとの消失を思い起こさせるからなのかもしれない。そんなことを考えていた。
手を繋いで南くんと一緒に歩きながら、私たちはずっと黙っている。私はもちろん、南くんにしても話すことは別になかった。だって、一緒の学校に通って、一緒のクラスで同じ授業を受けているのだ。知らないことや、伝えたい事柄が生まれることの方が珍しかった。
それでも、前日にあった家での出来事とか、見たテレビ番組、聴いた音楽とか、読んだ小説に関しての話題がないこともなかった。ただ、私がそれらのことについてそんなに興味がなかっただけだった。
いつか、そういった私の興味のないことを、南くんが帰り道で熱心に話していたことがあった。きっと沈黙が怖かったのだと思う。私は、ふーん、とか、へえ、とか短い返事しかしないのに、とても懸命に話していたのが印象的だった。
「……あのさ、高橋ってもしかして俺のこと嫌い?」
ふいに押し黙った南くんは、少し淋しそうな声でそう訊いてきた。
「べつに。そんなことはないよ」
私は本心で答えた。べつに嫌いではないし、好きでもなかった。
「ならさ、どうして、どうしてそんなにつまらなさそうなの」
切羽詰ったように捲くし立てた南くんに、私は戸惑った。そんな風に誰かに熱くなられることなど、今まで一度もなかったのだ。立ち止まり、脅えながらも懸命に視線を向けてくる南くんを前にすると、私にまでその怖さとか本気さが伝播してくるようで、ちょっと変な感じだった。
「私はそんなに話さなくてもいいの」
口にすると、南くんは不思議そうに首を傾げた。面倒だなと、少なからず思ったものの、ここは説明をしておかなければならないだろうと思ったので、私はしっかりと説明することにした。
「だからね、私は南くんの話がつまらないとか、その内容に興味がないとかじゃなくて、話をするというそのこと事態に魅了を感じていないの。そんなことしなくてもいい。じっと歩いて帰るだけでいいの」
「でも、それは、俺がいなくても出来ることじゃないのか」
その通りだった。
「俺はさ、高橋のことが好きで、もっといろいろ話をしたくて、それで一生懸命話しているのに、高橋はそれが嫌なんだろ。じゃあさ、俺がいる意味って、俺と一緒にいる意味ってなんなの」
ああ、とても辛そうな顔をしている。私はそう思い、その表情を少しだけ愛おしく思った。珍しいことだった。誰かに対して、そのような気持ちを持つのは初めてのことだった。私は南くんが少しだけ愛おしくなった。
「意味って、必要かな。私は南くんと一緒に帰ることができるならそれだけで十分なんだけれど」
言うと、南くんは固まって、じんわりと頬を赤くした。それから前を向くと何も言わないまま歩き出してしまった。
私はくすりと笑って、南くんと歩調を合わせる。その日はそのまま無言のまま帰ることになった。
それからだと思う。私と南くんの帰り道は、穏やかな沈黙が包み込んでいることが多くなったような気がする。
「焼き芋が食べたい」
唐突に南くんが口に出した。それが帰り始めた二人の間に生まれた最初の言葉だった。
「まだ売ってないんじゃないかな」
私はそう答えた。季節はまだ十一月になったばっかりだった。朝晩が冷え込むようになってきた言え、寒さはまだ微々たるものだったし、焼き芋売りの本番は十二月になってからじゃないのだろうかと私は思っていた。
「でも、食べたい」
こういう時、南くんは頑固になる。駄々を捏ねる子供のように融通が利かなくなる。欲求が満たされるまで止まることができなくなってしまうのだ。ぎゅっと、繋いだ掌に力が加わるのがわかった。
「探しに行こう」
南くんが私の方を向いて口にした。眉毛が力強く釣りあがっていた。とてもわくわくしているようだった。
私は返事をいう代わりに小さく頷いて、それから掌を握り返してあげた。仕方がないと、南くんはこういう人なのだと、少し呆れつつも。
夕方の外気は寒い。風に身を震わせることも多くなってきた。けれど、繋いだ掌だけは、空気がどれだけ冷たくなっても変わらず温かなままだった。
突発的!
ある小説家に結構影響受けているような気がします。
分かる方はいらっしゃるでしょうか?(追記 絶対わからないと思う)
ともかく、頑張ろう。
今回は携帯でも読みやすいはず。きっと。たぶん。
それとも空白を空けた方がいいのでしょうか?まあいいや。