「誤解」
灰色の世界は、静かにそれを運んでくる。
誰しもの傍らに佇む、その匂いを。
共に生きるには、あまりにも永く
共に果てるには、あまりにも短い
その匂いを。
彼は、そんなことも露知らず、今日一日をいつものように何気なく生きていく。
飽くまでも、平常に。飽くまでも、平和に。絶え間なく続くと思われていたこの日常を。
刺す風が、肌を撫でる。
冬の風は悲惨なことにマスクを貫通し、治り掛けの風邪を悪化させるように喉を襲う。
首に巻いたマフラーの善戦虚しく、内側から突き崩されてしまう。
「うぅ、寒すぎんだろ...」
俺は、学校に向かう自転車を漕ぎながら、震えた声でつぶやいた。
時刻は午前八時を過ぎた頃、太陽が出ていれば多少は暖かいが、生憎この日は雲に閉ざされていた。
学校はさほど遠くはないのだが、この時期、暖かな家や炬燵の中から出るのはかなり億劫にならざるを得ない。
───さほど遠くない、「直ぐ」の距離だったとしても、その「直ぐ」が寒いんだよなぁ
俺は、寒い、寒い、とつぶやきつつも、その銀輪は学校への門をくぐって行った。
教室はまだがらんとしていて、そこには俺と「彼女」しかいなかった。
俺は、おはよ、と「彼女」に挨拶をして窓際の「彼女」の隣の席に座る。
「彼女」は、美しくのびた黒い長髪に、向こうまで透き通るかのような白い肌。顔立ちも整っていて、思春期の悩み多き男子が一目見たら少なくとも心臓の拍動が十は増えはするだろう、そんな美しさをしている。
だけれども、不思議なことに「彼女」は誰にも声を掛けられてもいないのだ。
それを見てから、俺は「彼女」を密かに狙っていたりもする。
幸い、クラスでの席替えで隣の席になれたのだが、悲しいかな告白する勇気も話しかける勇気も出ない。
仕方なく、席に座っては性に合わない活字などを開いては、横目でチラチラと盗み見るだけ。
以前も、そして今も同じように、小難しい新書を開いては適当にページをめくり、その度に横目で「彼女」を見る。
やがて時間は過ぎて行き、教室内は人で溢れ返ってくる。
知り合いがちらほらと俺の周りに集まってきては散っていき、そしてまもなく朝のショートホームルームの時間となった。
「おい、おい、この問題、解いてみろ」
数学の時間。
俺は教師に指名されてしまった。
慌てて黒板を見上げても、そこに解くべき問題文もなく、題問のみが書かれていただけ。
急いで教科書を開く。
その様子を、クラス全員がうっすらと笑っていた。
「お前さぁ、最近変だぞ?
少なくとも以前なら授業中に教科書を開かないなんてなかったし...はぁ」
言い残し、他の人へと指名を移す。
惰性に進む授業はとても退屈で、そんなことに神経をすり減らすくらいならもっとすべき事がある、そう思う。
少なくとも、ペンをとらず、ノートもとらず、虚空を見つめる「彼女」を見ているとそう思えてしまうのだ。まるで、どこまでも深い闇に潜り込んでいく、そんな雰囲気の「彼女」を見ていると、無性に。
俺は再び「彼女」を見つめ始めた。
その日の夜、俺の携帯に親友から一通のメッセージが入った。
「君、最近変だよ。何かあったのかい?」要約するならばこんな内容だ。
返答に、「彼女」のことを言うわけにもいかない。「なんでもない」と返そうにも疑われているならば効果は薄いだろう。
「最近、気になる人が出来てな。もしかしたら、恋わずらいのせいかも知れない。」
間違ってはいないが、合ってもいない。そんな内容を打ち込んで、返信する。
すると驚く事に長文での返信がそう時間を置かないうちに帰ってきた。
内容は、全て俺が人に気を持つことが信じられない、と言ったようなものだ。
酷い言い草だ、とは思ったが、今まで部活一筋で打ち込んできた絵に描いたような脳筋野郎が、こんな年頃の乙女のような悩みを持つとはにわかには信じられない事もない。
こんな会話が出来るのも親友くらいしかいない。
俺は、そんな自分が面白くて、ついつい隣の席の「彼女」の事を話してしまったのだ。
嬉しくて、嬉しくて、「彼女」の素晴らしきものを話しつくした。
やがてそんな俺がうざったらしくなったのか、返信は来なくなったが、それでも俺は話した。
今日も、隣の「彼女」を見つめる。
どの教科の先生も、しばらくこの様子の俺に飽きれてしまったのか、既に見向きもしない。
親友は、頭が狂っていると言い残して学校でも俺を避けるようになった。
今日も、「彼女」は綺麗だなぁ。
ふと、今までこちらを見向きもしなかった「彼女」がこちらを振り向き、手招きをする。
俺はすっかりその「彼女」に見惚れてしまって、授業中にも関わらず席を立った。
「彼女」も同様に席を立ち、軽々と窓枠を乗り越え、ベランダへと身を移す。
思わず俺は、待って、と追いかける。
いつしか、そこは学校では無くなっていた。暗い暗い世界に、「彼女と俺」を繋ぐ細い細い崩れそうな橋。
俺は、もう逃がさないとばかりに、彼女へと抱きついた。彼女は、嬉しそうに微笑み、俺の頭を撫でた。
あぁ、温かい。この幸せが、永遠に続けばいいのに。
俺は彼女という赤に包まれたまま、永久の眠りについた。