十四
十四
恋しい光が降り注いだ。
光は次には花となり、ほころぶと笑いかける。
指に触れた琥珀色が目の前で風に靡いた。
蛹から、蝶の半透明の羽がゆっくり現れ出ようとしていた。
胸を焦がしながらそれを待ち望んだ。
渓はぼんやりと目を覚ました。
密に久しぶりに会った夢を見た。
そのまま思考が停止して約三十秒経ち、いや、それは夢ではないと思い直す。
枕元に置かれた時計は九時半を指しているが、渓は休日はもっと遅くまで布団の住人だ。
部屋の向こう半分を見ると白銀色の頭もまだ転がっている。
高御産巣日は渓以上にルーズな生活を送り、剣護たちを呆れさせていた。
渓と高御産巣日は部屋のフローリングに、大学準教授を務める怜の持ち物であるチョークで中心線を引くという原始的手法で互いの縄張りを定め、たまに相手の足が少しでも白線を踏もうものなら、領土侵犯だ何だとぎゃあぎゃあうるさく罵り合った。渓が自分の陣地に並べ立てている密の写真が、言い争いの種となることもしばしばだった。
(密が来てる。夢じゃない!)
普段であればここでもう一眠りするのだが、渓の頭にはそれを認識した時点で即座にエンジンがかかり飛び起きた。
朝食もそこそこに成瀬家を訪れた渓を出迎えたのは、荒太の無情な一言だった。
「理の姫たちなら、真白さんと一緒にさっき出かけたぞ」
「――――――嘘だ。密が僕を置いて出かける筈がない」
事実を否定する渓に、荒太は面倒そうな顔を隠さなかった。
「嘘じゃない。今日のテーマは〝都会でお洋服ショッピング〟だと言ってた。…理の姫は、お前にいつもよりお洒落した格好を見て欲しいんだと。満足か?」
「莫迦な。ただでさえ非常識に可愛くて綺麗なのに!なぜそんな危険極まりない計画を阻止しなかった。お前には物を考える頭がないのか」
「…知らんし俺には関係ない。俺だって真白さんが外出するたび、その手の心配はしてるんだ。理の姫や花守にレンタルされるのも実のところ、面白くない――――閉めるぞ」
渓は閉ざされる茶色の玄関ドアを眺めながら、目覚まし時計をセットしていなかった自分を呪った。密は解っていない、と思う。
(お洒落なんかしなくて良いから、少しでも長く一緒にいたいのに)
今日の午後には、愛する少女と再び離れなければならないのだ。
横を歩く密が気がりそうな目を時々見せるので、真白は彼女の肩に手を置いた。
「どうしたの、密?何か心配事?」
声に反応して自分を見上げて来る妹の瞳はいじましく、愛らしい。
(水臣の気持ちが解るわ)
「姉上様。渓を置いて来ちゃったから。今頃、怒ってるんじゃないかと思って」
「自分の為にお洒落したいと言うみっちゃんの女心を理解出来ないような男なら、放っておきなさいな。男として未熟だわ」
若菜子が手厳しい意見を述べると、エリザベスも頷く。
「姫様のお心の有難みが解らん男は、このまま都会で果てるが良い」
「それはダメよ。渓には村に帰って来てもらわなくちゃ」
真白たちは数棟並ぶマンションの敷地を出た小道を、大通り目指して歩いていた。
今は緑の桜並木やあちこちから蝉のけたたましい鳴き声が響く。
村ではまだひんやりと涼しい時間帯だが、都会の空気は既に暑い。空からの熱気とアスファルトからの熱気に挟み込まれて逃げ場が無い。
密は別の心配に、再び真白を見上げた。
「姉上様、お身体は大丈夫ですか?」
真白は微笑み、密の頭を撫でる。
「大丈夫よ、ありがとう」
出かける前に荒太から持って出るようにと手渡された涼しげなアイスブルーの日傘には、一面に細かい刺繍が施してある。そして強い日差しに備え、真白も密たちも入念に日焼け止めを塗っていた。
「その日傘、とっても素敵ですね。姉上様にお似合いだわ!」
「荒太君が、ずっと前に買ってくれたの。出先で私が暑気あたりになった時に。大事に手入れして使ってるのよ」
真白の口調と表情から、密は姉が幸せなのだと思った。
(………良かった)
銀杏の街路樹が並ぶ大きな通りに出たところで、賑やかなクラクションが鳴る。
赤い車体が真白たちに近付いて来た。
道路の端に寄せた車の、左側の運転席のドアが開く。
そこに降り立ったのは、オープントゥでハイヒールのパンプスを履き、身体のラインに沿った濃い紫紺の、上質な絹のワンピースを身に纏った美女だった。
胸元には艶やかな真珠が贅沢に並び、耳にも大粒の真珠のピアス、ルージュの色は華やぐような赤だ。
美女は金茶色の長い髪をサラリと掻き上げると、赤いルージュの唇を開いた。
「真白!」
「市枝、ありがとう、来てくれて」
「当たり前だわ、真白の頼みですもの――――――また綺麗になったんじゃない?」
三原市枝はじっと真白を見るとその頤を軽く人差し指で持ち上げ、華やぐ赤を真白の唇に密着させた。
少女たちが一斉に瞠目する。
「市枝っ、子供たちが見てる前で!!」
ルージュがついちゃったわ、と真白が慌てる。
「そうね、ごめんなさい。今度は二人きりの時にするわ」
「そう言う問題じゃないわっ」
赤い顔で叫ぶ真白を見て、密が狼狽えて言う。
「姉上様、こ、この方との関係を、荒太さんはご存じなの?」
「いえ、これが都会流と言うものかも知れないわ、みっちゃん。早合点しちゃダメよ」
「うむ、都会は奥が深い」
少女たちの会話を聴いて、そこでふと止まった市枝が密の前に立つ。
真白とはまた趣の異なる艶やかな美女に睥睨され、密は固まった。
「―――――理の姫ね?」
「は、はい」
返事した瞬間、鼻をつままれた。
若菜子とエリザベスが身を乗り出しかける。
「今度真白を泣かせたら、承知しないわよ?」
「ふぁ、ふぁい」
何とか答えると、市枝はニコッと笑い手を放した。
「よし、良い子!さ、皆、乗りなさい」
真白は市枝の横の助手席に座り、後部座席には密を真ん中に若菜子とエリザベスが座った。車を走らせながら市枝が訊く。
「その子たちのお洋服を見繕えば良いのね?」
「うん。せっかくの休日、使わせてごめんね。経営企画部長って大変なんでしょう?」
「まあね。でもやりがいがあるわ。親の七光りって陰口叩く奴を実力で蹴散らすのは爽快よ」
「市枝のお家はね、ファミリーレストランを大々的に展開してる会社を経営してるの」
真白が後部座席に向けて説明する。
社長令嬢、という言葉が少女たちの頭に浮かび、市枝の服装と容貌を成る程、と納得させた。
「…それにしても、アルファロメオのジュリエッタだなんて市枝にはまり過ぎだわ」
真白が笑いを噛み殺して言う。
「私の基本理念は高校から変わってないわ、真白」
真白の焦げ茶の瞳が、おどけるように親友の横顔に向かう。
「解ってる。〝常に優雅に〟よね?」
「そう」
「でも、デパートの駐車場、空いてるかしら。今日は日曜だもの」
「何とかなるでしょ」
密がそろ、と尋ねる。
「これ、アメリカの車ですか?お、お市の方」
「市枝で良いわ。イタリア車よ、これは」
そうか、この車はイタリアンなのね、と密は改まった気持ちで車内を見回した。
市枝がバックミラーを見ながら口を開く。
「…でも、真白。私の見たところ、お嬢ちゃんたちの服装はそう悪くないわ。どれも品が良くて素朴な感じ?金髪の、金臣はもう少しスタイリッシュなのが似合いそうだけど」
「当たり前でしてよ、お市の方。私たちは皆、今回の旅において村の仕立て屋、ヨネ子さんの手による物を着て来ているんですから」
若菜子の得意げな言葉にエリザベスが続ける。
「ヨネ子さんは村のファッションリーダーだ。いつもショッキングピンクの生地にカラフルな色がプリントされたエプロンをして若々しい。村の女性は、ここぞと言う時の服はヨネ子さんに仕立ててもらう。ご亭主を亡くしてから一度は仕立て屋を閉店しようとされたヨネ子さんだったが、村中の女性が懇願して彼女に店の継続を望んだと聞く」
「……そのヨネ子さんって、お幾つ?」
少女たちが顔を見合わせる。
五十でしょう?いや確か七十過ぎたと聞いた、嘘、あの肌のハリツヤは四十よ、とボソボソ言い合う声が聴こえて、市枝はそれ以上の追及を諦めた。
「ヨネ子さんに仕立ててもらう服の他は?」
「村に二軒ある洋品店で買うか、通販で買います」
(洋品店…)
市枝も真白も、密の発言の古風な響きに、都会と田舎の落差を感じた。
「解ったわ。モード系の服をざっと見てみましょう」
市枝が一考した後、宣言した。
それから真白たちは、市枝と共にデパート内を巡り歩き、昼は手近なカフェに入った。初めて入る都会のカフェに気後れしていた密も、真白たちが一緒ということもあり、すぐに慣れた。若菜子やエリザベスは、密が行くところであれば氷山であろうがサバンナであろうが顔色一つ変えずついて行く姿勢だった。軽い昼食のあとはパフェやケーキ、スコーンなどを食べながら、それらと同じくらいに女性が大好物のお喋りタイムに突入した。美味しい物、綺麗な物、可愛い物への愛着は世代を超えて共通しており、大人の女性の話題と少女たちの話題、都会の話題と田舎の話題を情報交換するかのように彼女たちの口は動き続けた。
昼過ぎ、デパートを出て街中のブティックを見て歩いていた時、真白のショルダーバッグの中で着信音が鳴った。
「荒太君からだ。ちょっとごめんね」
真白は断ってから、読み辛いアルファベットの店名が表記されたガラス張りの店の外に出て、一分後、微苦笑を浮かべた顔で戻って来た。可愛い妹の顔を探す。
密は丁度今から、市枝に渡された服を試着しようとしているところだった。エリザベスは既に試着室内で、若菜子は棚に並ぶ服を手に取って見ている。
「密。水臣がね、密が恋しくて死にそうだって。僕かお洋服かどちらかを選んでくれと言ってごねてるそうよ」
密が赤くなって下を向き、若菜子は片眉を上げ冷ややかな顔をした。
「おやまあ、呆れた坊やね。それじゃあ急ぎましょうか」
市枝が髪を掻き遣る。
それから洋服がかかった一列を指差し、店員に高らかに告げた。
「こちらの品、全部いただけるかしら。包装は簡単で良いから早めにお願い」
渓は暑い中、成瀬家の玄関前に立ち、密を待っていた。室内待機を拒否されたのではなく、密が帰ってくればすぐに判るように、あえて外にいるのだ。
(蝉の声がうるさい。密の声が聴きたい。早く。早く)
背中に流れる汗を感じながら、じりじりと気が急く。
(密)
せめてもの情けとばかりに、荒太から持たされた携帯蚊取り線香を手に提げている。それを渡された際、熱中症で倒れるなよ、迷惑だから、とも言われた。
車の止まる音に身を乗り出してマンションの駐車場を見下ろすと、そこには真っ赤な外車があった。車内から降りて来る人間の中に琥珀色の髪を見た途端、渓は蚊取り線香を置いて駆け出した。
「密っ!!」
息を弾ませて駆けて来た少年に、密が笑う。
「ただいま、渓。寂しかったの?」
「うん」
ひどく素直な渓の返事に、密はまた笑った。今度は嬉しそうに。
「良いところに来たわ、水臣。荷物持ちしなさい」
当たり前のような命令口調に渓は怪訝な表情で見慣れない美女を見たが、数秒後、彼女が誰かを察した。水臣だった時、市枝とは少ないながら面識があった。加えて花守も密も、顔を見れば相手の前生を知ることが出来る。
女性陣が皆降りたあとのジュリエッタの中は、シャープなデザインの紙袋で埋め尽くされていた。とりわけ、人一人が入れそうな袋は圧巻だった。
車の音を聴きつけて降りて来た荒太がいなければ、渓は四階の成瀬家まで何回か往復することになっただろう。
冷房を効かせた成瀬夫婦の寝室は、鮮やかな洋服の色彩の海となった。
そのドアから密がひょこっと顔を出し、渓の前に進み出る。
淡い青紫の丸襟のシャツには透明なビジューが並び、腿の半ばまであるスカートは目の覚めるようなカナリアイエローだ。すんなりと白い素足には、大人びた服装のせいか常よりも色気が感じられる。密は市枝の手で、化粧も施されていた。チェリーピンクのチークが少女の頬に映えている。
「……どうかしら。渓。何だか顔が厚ぼったくて息苦しいんだけど」
「―――――――密。君は閉所恐怖症だっけ?」
思ってもいなかった真顔の問いかけに、密は首を横に振る。
「いいえ?」
「…あのさ。だったら、もう僕の部屋か離れに一生閉じ籠ってさ、他の男と会わないで」
「……褒めてくれてるのよね?物の例えよね?」
喜ぶところか危機感を覚えるところか判断しかねて、密が尋ねる。
渓はファンデーションの塗られた密の頬を撫でている。頬の手触りがいつもと違う。
「褒めてるけど。割と本気の提案だよ。僕以外の男と会う必要ないだろ?」
「あのね、でもね、それだと色々と、日常生活が困ると思うの、…渓、どうしてそんなに顔を近付けるの。ち、近い、近い近いっ」
仰け反る密に渓はぐいぐい迫る。少女の背骨が悲鳴を上げる。
「理由は一つしかないだろう。嫌なの?密」
「じゃなくて、こ、荒太さんがいるのにっ」
「あれは人型のかぼちゃだとでも思って」
「無理、無理!」
リビングのソファに腰掛け、左手で頬杖を突いていた荒太は軽く右手を振った。
「どうぞ、お構いなく」
密と渓がキスしようが犬と猫がキスしようが、荒太にはどうでも良かった。
「だそうだ」
「渓……っ」
だが、グロスの光る密の唇に渓が触れる前に、寝室のドアがバンッと開いた。
密に劣らず、装った美少女たちが現れた。
「それだからあなたは獣だと言うのよ、水臣」
若菜子はアシンメトリーなデザインのメタリックシルバーのワンピースを着て、水牛の角で作られた大振りなバングルを左手首に嵌めている。若菜子のふんわりとしたカントリータッチのお嬢さんのような顔立ちと雰囲気に対し、それとは真逆の硬質な色、そしてナチュラル感と重量のある装飾品を身に着けることで、いかにも垢抜けた都会の令嬢風に、イメージが一変している。
「待つ、耐える、思い遣る、の三箇条をまずは覚えろ」
エリザベスは藤紫を基調としたエスニックな柄の、ノースリーブで裾の長いシャツに、控えめな光沢のある黒い、ゆったりしたズボンを合わせていた。ポニーテールに結い上げられた金髪が、衣服の色調と見事に調和している。まだ少女なのに大人のような貫禄が感じられた。
二人共、それぞれに合わせた化粧が馴染んで大人っぽい。
ほお、と荒太は彼女たちのコーディネートに感心の声を上げた。
そして最後に登場したのが真白だった。
荒太が目を見張る。
「真白さん―――――」
真白は、普段なら着ないようなワンピースを身に纏っていた。
薔薇が色づく過程を物語るかのように、膝下まである裾の真紅から上に向かうにつれ、淡いピンクへと美しいグラデーションに彩られている。緩く身体にまとわりつくようなシルエットが女性らしさを引き立てる。耳には淡い紫のアメジストと真っ赤な珊瑚のイヤリングが揺れる。
唇にも真紅が塗られていた。
「…荒太君…派手じゃない?」
「…………綺麗だよ……」
荒太は心からの賛辞を妻に贈った。
寝室から出て来てリビングの壁に片肘を突いて寄り掛かり、彼らの様子を市枝はニヤニヤしながら見ていた。
「お代は結構よ、成瀬。真白の唇をいただいたから」
「嘘っ」
「ホ・ン・ト」
うふ、と笑う市枝の溢れんばかりの色気を他所に、荒太は真白の顔を見る。
焦げ茶色の目が夫を見辛いように泳ぐ。
これには荒太も目くじらを立てて声高に市枝を非難した。
「市枝さんっ、真白さんの唇は俺のだよ、俺の占有物なのに勝手に触るなよっ!!」
「あーら、愛すべき真白の唇は皆のものよ。公共のお花畑とおんなじ。知らなかった?」
「断じて違う!俺は夫だぞ、真白さんは俺だけの私有財産でありお花でお宝だっ。他人にホイホイ触られてたまるか!」
「他人じゃないもの~。私は真白の親友兼、恋人だもの~」
「認めない、絶対に認めない!!真白さんの服とイヤリング代は俺が払う!」
歌うように嘯く市枝に、気色ばんだ荒太が噛みつくように吠える。
市枝がそんな荒太を流し目で見る。にやり、と相手を挑発するような笑い方は、その兄に通じるものがある。
「良いの、成瀬?イヤリングの珊瑚、血赤珊瑚よ?」
「だと思ったよ、くっそ!俺があげたかったのに…っ。………払うっ」
「こ、荒太君、私が自分で払うわ」
「真白さんは黙ってて!」
「そうよ、真白はその可愛い唇を閉じてなさい。何なら私が塞いであげるわ」
「市枝さんっ!!」
密はその遣り取りを聴きながら、これが都会に暮らす人たちのお洒落な会話というものかしらと考えていた。その後、荒太はカーテンがまとめられたリビングの隅で、市枝から真白の服と装飾品の合計金額を小声で聴き出し、真白は二人の様子を不安そうに見守っていた。それでも大好きな姉が華麗に着飾るのは、密にとっても嬉しいことだった。
そして別れの時間はやって来る。
駅まで送ってくれると言う市枝の好意に、密たちは甘えることにした。
渓は駅には同行しないと言った。
渓との離別を前に、密は見るからにしょげ返っていた。白いアラベスクの装飾模様が広がる、生成り色のカーペットの上に白い脚を内股にして立ち、悄然としている。ガラス戸から差し込む日の光を受け、顔を俯けた光の少女は見る者の目に哀れを誘った。
密は渓と離れたくなかった。
真白たちは密と渓に気を遣い、今は階下の剣護たちの家に移動している。
二人きりになったリビングで、密は渓のシャツを両手で掴んだ。シャツの布地が伸びてしまいそうに強い力が入っていた。本当はそのまま、少年を引き摺って帰りたかった。
(私がもっともっと、力持ちなら良かったのに)
渓を持ち上げて村まで運んで行ってしまえるくらい。それが出来ない自分の非力が悲しかった。
「渓。渓。…やっぱり、一緒には帰らないの?」
密は、久しぶりの再会で渓が決心を翻してくれないかと、ほんの少し期待していたのだ。けれど少年から、望む言葉を聴けそうにはなかった。
「………うん」
水は揺らがない。
「どうして?か、帰ろう?村には、伯父様だって伯母様だって、竜妃お姉ちゃんだって、……私だっているわ。花守も」
「僕は密だけがいれば良い」
「私は今からいなくなるのよ?」
渓が顔を歪めた。唇だけが辛うじて笑っている。
「―――――――そうだね。辛いよ」
密は泣きながら渓にかじりついた。
肩のあたりに涙の流れる気配を感じながら、渓は少女を抱き締める。
「…………密。その格好で帰すのは正直、不安があるよ。ナンパは金臣たちに即、追っ払ってもらうんだよ。約束して」
「解ってる。渓。あなたが大好きよ」
「僕もだ。手紙をまた書いて。電話で話そう」
水の流れは優しい響きで密の耳に触れる。
密はすすり上げて、琥珀色の頭をコクンと前に倒した。
「…うん。帰って来る日を、待ってるね」
渓は化粧が落ちそうだと思いながら密の目の下の涙を拭った。
渓にはそのほうが好都合ではあった。
(化粧が全部、台無しになって、密の美しさが隠れてしまえば良い)
邪心を胸に、少女を呪縛するように甘く囁く。
「待ってて。木苺の実る季節を」
「うん。待ってる」
再会を約束して、少年と少女は別れた。
密は胸がつかえたように苦しかった。市枝の車の中では我慢したが、帰りの電車に乗ってからはずっと泣き通しだった。
せっかくのファンデーションもチークもアイシャドウも、全て涙で流れた。
若菜子とエリザベスの懸命な励ましも功を奏することなく、少年の密かな祈りは天に通じた。涙を拭く為に使ったハンカチには化粧の色が染め移り、図らずも旅の思い出の一品となった。
剣護は居酒屋社会科見学のあと、密にさりげなく携帯を持つように勧め、密は母親に相談してみると答えた。しかし渓は相変わらず固定電話を使い続けた。剣護が口やかましく電話代がかかり過ぎだと連呼した為、通話時間は多少、控えられるようになった。
それでは足りないとばかりに密と渓は、文通で互いの距離を埋めようとした。
二人はとにかく、恋しい存在に飢えていた。
光に飢え、水に飢え、息を潜めるようにして苦しい時を凌いでいた。
そんな中、密から渓に届く手紙の内容は、バラエティに富んでいた。
朝顔や露草の押し花が封筒から出て来たかと思えば、大きな茶封筒に村の景色のスケッチや水彩画が入っていることもあった。
渓の似顔絵が送られて来た時は、密自身の似顔絵も欲しいとリクエストする返事を出した。自画像は難しいのよ、と言う注意書き付きで送られて来た密の似顔絵を、渓は客間の壁にセロテープで貼って飾った。その時また、高御産巣日と口喧嘩した。あんな乳臭い小娘のどこが良いんだという発言を渓は聞き流せず、神つ力をぶつけ合いそうになり、気配を感じて駆けつけた剣護からいい加減にしろと怒鳴られた。
秋には櫨以外の紅葉した木々の葉が同封され、開けた端から渓の回りに紅が舞った。渓はそれを一枚残らず拾い集め、持っていた文庫本に大切に挟み、挟んだページを忘れないように付箋を貼った。
渓もまた密に負けないように工夫を凝らし、綺麗な古い着物の端切れを七色揃え、虹のような色の組み合わせに重ねて送ったり、良い香りのする紙石鹸を便箋に忍ばせたりした。
密も渓と同様、送られて来た物は全部、大事に保管した。便箋の間から出て来た紙石鹸は、枕の端に置いて寝た。
露草で染めた、花浅葱のハンカチが渓から送られて来た翌日は、学校にそれを持って行った。渓の欠片と一緒に登校しているようで胸がときめいた。
この文通において、真白は渓の良き相談相手となっていた。
冬には渓も密も、銀色や白の折り紙を雪の結晶の形に切り抜き送った。そしてそのことを電話で話し、考えることは同じだねと嬉しそうに笑い合った。
クリスマスには、渓には細かい着彩が鮮やかな手作りの、密には文房具店で選び抜かれた装飾の美しいカードが手元に届いた。
電話でカードを褒め合い、お礼を言って、来年のイヴは必ず一緒に過ごそうと約束した。
雪の降る、裏森の薄暗がりに、密は黒いピーコートを着て立っていた。
白い息を吐きながら凍った泉を見守る。
差した傘の上にしんしんと雪が降り積もっている。
藪椿や椎の樹の黒いような枝葉をも、雪は隠そうとしている。
〝氷を溶かしてあげようか?〟
そう言ってくれた水の少年は、ここにはいない。
渓と逢えた二日間が、今では夢のようだ。その日々だけがはるか遠く、華やぐ色彩に満ちていたように感じられる。
じわりと目に涙が滲む。
泉に浸かることは出来ないが、冬の隠れ処も美しい。
けれど命の脈動は他の季節より稀薄で、冷たい鏡の世界のようだ。
(それでも渓が隣にいれば、冷たさもどうってことない。寂しくもない)
泉に張った氷の上に裸足で立てば、彼は飛んで来て密を叱るだろうか。
いけないよ、密、と言って手を引っ張り、泉のほとりで密を抱き締めるだろうか。
(もしそうなら、すぐにでも試すのに)
少女の危うい計略を知らない風情で、花びらのように降る雪は美しい。
雪白の美しさに姉を想う。
(―――――姉上様は切ないくらいに美しい、峰の白雪でおられた)
人界に降りた彼女は、人の温もりに触れて何を感じただろうか。
温もりだけではない。疎外される苦しみを、真白もまた味わった筈だ。
神界に戻るつもりはないのかと尋ねた密に、真白は頷いた。
共に現世で生きたい人がいるからと。
(渓が私と同じ神族であったことは、私たちには幸いだったのだろうか)
密には良く解らない。
神であるがゆえの、悩みや葛藤も生まれると知るからだ。
「お風邪を召しますよ」
朗らかな声に振り返ると、定行が傘を差して立っていた。モノトーンの世界に、彼の赤い髪は松明のように目立つ。渓が村から離れて以来、花守たちはそれまで以上に密を気遣い声をかけてくれる。水の少年がいないぶん、より心を籠めて、慎重に密を見守っている。
「明臣」
「寒くはありませんか。姫様。火をともしましょうか?」
火の属性の花守は言う。彼の生む美しい火焔は他を燃やすことなく宙に留まり、暗い隠れ処を明るく賑々しく照らし出すだろう。
「いいえ。良いの。このままが綺麗だから。これも、この隠れ処の顔の一つだから」
甘く優しいだけではない。涼しく爽やかなだけではない。
白と黒の静かなコントラスト。今はそれで良いと密は思った。
「寒くはありませんか」
重ねて問う定行が、本当は何を気にかけているか解った。赤いフレームの奥からは密を思い遣る心情が見て取れる。
最年少の花守の、こうした優しさが密は昔から好きだった。
彼と琴美が再会出来たことは本当に良かったと思う。
「寒いけど。―――――――雪解けを、待つわ」
密にはそれしか出来ない。
水の少年もきっと今、凍えながら密と同じように雪解けを待っている。
年が明けて一月一日、密と渓は十五歳になった。
密は渓へのプレゼントを悩みに悩んだ末、村の骨董品店で見つけた水色の切子ガラスのコップを買った。初めてそのガラスコップが目に入った時、密はこれよ、と心が弾んだ。川のせせらぎのような切り込み模様が渓に相応しいと思えた。戦利品が入った箱を胸に抱えて家に持ち帰り、蒐集していたお気に入りの可愛いラッピングペーパーから厳選した一枚で箱を包装し直し、細いビロードの水色のリボンをかけて送った。今まで何回にも及ぶ渓との誕生日プレゼントの贈り合戦で、密は常に渓に貰う喜びの大きさに歯噛みするばかりで連敗記録を重ねていると感じていたが、今回は勝利を確信していた。
果たして渓から届いたプレゼントは、小さな宝石箱だった。パール・ホワイトのリボンを解き、青い地に金の音符が躍る包み紙を慎重に剥いでいくと、その宝石箱は眠り姫のようにクッションペーパーに丁重にくるまれていた。白い陶器に金色の装飾が光る、ピンクの薔薇が描かれた箱の蓋をそっと開けると、エドワード・エルガーの『愛の挨拶』のメロディーが流れた。
〝いずれここにルビーの指輪が入る〟
そう書かれた紙が折り畳んで赤い布地に置いてあった。
密はまたもや、負けたわ、と思った。
やがて雪が融け、蝋梅が散り、梅がほころび桃が咲き、桜の季節になった。
去る秋と桜の時期には成瀬夫妻が村を訪れた。
荒太は民宿『神の憩い』の中庭の柿が甘いことを確かめた。家で干し柿を作る用に、宿から幾つか譲ってもらった。色々あったが真白の笑顔を見て、村を再訪するような事態に落ち着いたことを荒太なりに喜ばしく思っていた。
その日は日曜で、『神の憩い』に宿泊していた真白と荒太は、密や花守たちと一緒に流光寺境内の桜の下でお花見をしようということになった。真白たちは宿に頼んで、密たちのぶんも花見弁当を用意してもらった。
どこまでも青い空の、麗らかな日和だった。
桜が植わる境内の一角に広いビニールシートを敷き、夫婦と密、花守はその上で寛ぎ、花の天蓋に目を細めた。
若菜子とエリザベスが水筒に入れて来たお茶を飲み、長谷川家から差し入れられたクッキーをつまみつつ語らっている。
誠は黙ってシートの端に座り、お握りを頬張っていた。定行は一人、琴美に作ってもらった愛妻弁当を荒太に見せびらかしながら食べ、それに対して荒太は、俺が真白さんに作る愛情弁当のほうが絶対に美味い、と断言した。
めいめい好きに過ごしているようで、花守たちの意識は一様に密に向いていた。
天蓋の隙間から陽の光が差し込む。
その光を受けて密の琥珀の髪は、流れる川のように輝いた。
渓がいなくなってから何となく髪を切る気にもなれず、背の半ば程まであった密の髪の毛は、今では腰に近いくらいまで伸びていた。
琥珀の流れに、ひとひら、ふたひら、花びらが乗る。琥珀に桜色の小さな舟が浮かぶ。
「春の妖精みたいね、密」
桜色のブラウスに白いカーディガンを羽織った真白が微笑む。その横には胡春がのんびり横たわっている。主人と揃えたような淡い桜色の毛並にも花びらは舞い落ち、毛の色に埋もれて行方が紛れていた。
「姉上様……」
妹の顔は以前よりも大人びた。まろやかな頬の輪郭が少し削がれて、洗練された美が表出しつつある。無邪気さに奥深さが加わり、密の顔は日に日に変化していた。
渓と離れている憂いが、彼女の中の女性性を熟成させようとしているのだろうか。
「姉上様」
密は真白の膝に甘えるように頭を乗せると、丸くなった。その上にも、花びらは降って来る。真白は妹の長い髪を、慈しむように手で梳いてやった。
「…辛いわね」
耳に落ちる柔らかな姉の声は優し過ぎて、密は唇を噛んで泣くのを我慢した。
穏やかに晴れた空。
愛する花守たちに見守られ、髪には優しい姉の手がある。
咲きほころぶ桜の、白にごく淡い紅を垂らしたような花びらが気紛れに降る。
全て心和む、美しく幸福な風景。
密は真白の膝の上で目を閉じる。
足りないピースはただ一つ。
――――――水の少年だけがいない。
密はこの日、拾った花びらを押し花にして便箋に貼り付け、渓に送った。
やがて村に甘い春雨が降り、桜の花を散らした。
密は木苺の棘をチョンとつつき、手を引っ込めた。
息を吸えば、緑の深い匂いがする。
常緑樹と腐葉土。そして瑞々しいルビーの匂いが。
薄暗がりに差す淡い日光が、赤い宝石を厳かに輝かせている。
約束の赤。少年が誓った宝石が目の前にある。
隠れ処に木苺の実る季節が来た。
密は春が過ぎ初めるころから木苺の繁みに通い詰め、実がついていないかを確認していた。初めてルビーの数粒を見つけた時は嬉しくて、渓にすぐ電話をした。
渓も嬉しそうな声で、学校の転校手続きなどを終え、荷物をまとめたら村に帰ると言った。
密はその日から毎日、裏森に足を運んだ。
だが、水の少年は中々姿を現さなかった。
今日は電話して六日目になる水曜日の夕方だ。
密は緑の絨毯にさんざめくルビーを睨むように見ながら左手で頬杖を突き、じっとうずくまっていた。
足元の緑の中をチョロチョロと黒い小さな点が忙しなく動き回っている。
(蟻さんたちはいつも何かに追われるように急いでるわ。お仕事が大変なのかしら)
もう一度、木苺の棘をつつこうとした時。
「いけないよ、密」
清水が鳴った。
「………渓……」
白い長袖シャツに、紺のスラックスを穿いた少年は唇に微笑を浮かべ立っていた。
密にはまだ、それが渓だという実感が湧かなかった。
記憶にあるより背が伸び、一層、思慮深げな顔立ちになった少年は滑らかな足取りで密に歩み寄って来ると、密の傍らにしゃがみ込んだ。
「ただいま」
間近に薄青い瞳が和むのを見ても、密はまだ声が出ない。
「…密?」
「渓。……本物?本物の渓っ?―――――渓なの?」
震える右手で渓の頬に触れる。
「うん。長い間、一人にしてごめんね」
水の音が響く。揺らぎ、流れる。
愛しい水が。
「……………っ」
密は泣きながら少年に飛びついた。
少女の身体の勢いに、渓は下草の上に仰向けになってしまった。みぞおちが圧迫されたが呻き声は洩らさず、堪えた。
(髪が伸びたな)
琥珀色の帳は渓まで覆い、緑に広がっている。
草の匂いと少女の甘い匂いが鼻を突く。
密は渓の上からしがみついている。
「渓。渓。渓。渓―――――――」
渓は仰向けのまま、密の身体を抱き締めた。
「密」
渓は密の涙を舌で受け止めた。
長らく離れていた少女の涙は、少年にとって甘露な雨だった。