十三
十三
『北風と太陽』のイソップ童話を初めて幼稚園の読み聞かせで知った時、真白は、北風は不器用で太陽は要領が良いのだと思った。
旅人の上着を脱がせるという目的もそれに向ける努力も、北風が太陽に劣っていた訳ではない。
必死だったが、方法が間違っていただけだ。
幼稚園から帰り、従兄弟の剣護にそれを話すと、彼は笑った。
〝しろは優しくて頭が良いな〟
けれどお日様のような剣護も、決して要領が良いとは言えなかった。
真白の愛する風と太陽は、揃って不器用だった。
「…こちら510号室ですが、氷枕は用意出来ますか。ゴム製の物が無ければ保冷剤を使って、それらしい物を作っていただけると助かるんですが。無理なら氷水で結構です。……はい、連れが発熱しまして。…はい、はい。お手数ですがよろしくお願いします」
少し低くて張りのある荒太の声に、真白はうっすらと目を開けた。身体の右半身にフカフカした毛皮のようなものが触れている。
(胡春ちゃん)
豹くらいの大きさに変化した胡春が、横たわる真白の身体に寄り添っている。長い優美な尾がパタリ、パタリと上下に動き、金色の目が主人の安否を尋ねるように瞬いた。
カチャリ、と受話器が置かれる音がする。
こちらを向いた荒太が、真白が起きたことに気付いた。
優しい笑みが浮かぶ。
「心配要らないよ、真白さん。ここはさっきの場所から少し歩いたところにあるホテルだ。禁煙のフロアだから部屋に煙草の匂いも染みついてない。ゆっくり休んで」
ベッドに浅く腰掛けた荒太は、真白の額に落ちていた髪をサラリと掻い遣った。
「…こうた、くん…」
「体調が万全でないと思考力も落ちる。良いね?今は、誰に何が申し訳ないとか、そんなこと考えちゃ駄目だ。俺は隣に部屋を取ってるから、何かあったら電話で511をコールして」
そのまま風が離れゆくことに真白は恐怖した。
兄との過去の記憶に混乱し、思い詰めて逃げるように家を出たのに、荒太が離れると考えると恐ろしかった。荒太の愛情と庇護を全て切断することが出来ず、彼がくれた服を着て外に出たのも、自分の弱さで甘えだ。
ギュッと荒太の手首を掴む。彼の着けている腕時計の硬質な金属が掌に痛い。この金属のもたらす些細な痛み程も、荒太は真白を傷つけることはない。それが真白には痛い。
「――――――行かないで」
何を言っているんだろう、と真白は思う。
こんなことを頼む資格は自分には無い。
荒太が自分を責めずに余りに優しいので、甘える気持ちが出てしまうのか。
「氷枕が届くまでいるよ」
「届いたら行っちゃうの?」
子供のように訊き返す真白の目を見た荒太の目の色は深かった。
荒太の目も前生であった嵐の目も、一般的な日本人の黒い目の色だ。
自分のように色素が薄い訳でもなく、漆黒と言う程に真っ黒な訳でもない。
けれど真白は、剣護の灰色がかった緑の目と同じくらい、荒太の目が好きだった。
荒太が真白の手を握る。
「真白さんが望むなら俺は一晩ずっと、傍にいる」
「怒ってないの?」
「……ちょっとだけね」
荒太は真白の左手を取ると腕時計を外し、サイドテーブルに置いた。
バンドの型が薄く刻まれた手首の皮膚に唇をつける。
「俺の言ったこと、守ってくれてありがとう」
氷枕が届き、真白に薬を飲ませると、真白は再び眠りに落ちた。
荒太が部屋を出ると、斑鳩、兵庫、そして剣護が立って待っていた。
「あとを頼めるか、斑鳩」
「お任せください」
斑鳩は即座に頷くと、荒太と入れ違いに510号室に入って行った。
チョコレート色に斑模様の入ったTシャツを着た剣護が、荒太に親指で上階を指す。
「上のバーで話そうぜ、荒太。――――――兵庫も来るか?事情を少なからず知ってそうだな」
黒シャツにグレーのジーンズを合わせ、ゆったり佇んでいた兵庫は頷いた。
荒太にも異論は無かった。
ホテルの上階から夜空の星は見えなかった。
代わりに、地上に散る人口の星々がうるさい程にひしめいていた。
ジャズクラシックの音色をバックミュージックに剣護は荒太にことのあらましを語った。
真白の前生である若雪が、強制的な縁組と邪道な剣術を教え込もうとする父・小野清連から逃れる為に、長兄・小野清隆と備後―――今の広島県の三次に縁戚を頼り、そこで夫婦の契りを交わしたことを。
「今まで曖昧だった部分の記憶が、お前の取材先を伝える電話を受けてからはっきりしたらしい」
話を聴き終えた荒太は、ジン・トニックを片手に呟いた。
「やっぱり剣護先輩でしたか……」
「何か気付いてたのか?」
ジーンズの脚を窮屈そうに組みながら問う剣護の手にはウォッカがある。
「若雪どのが嵐の嫁になってくれると言って少しあと、自分は生娘ではないがそれでも構わないかと訊かれました」
剣護の横顔は変わらないが、身体が硬直する気配がした。
「…若雪どのに昔、想う相手があったらしいことは何となく解ってた。嵐は内心、動揺しましたが若雪どのと添いたい気持ちは変わらなかったので、それでも嫁に来て欲しいと答えました。彼女の相手が太郎清隆だったのだろうと目星がついたのは、今生で剣護先輩に会ってからです」
兵庫は二人から離れた席でウィスキーを傾けていた。
「……若雪どのは生涯、一言もあんたのことを口にしませんでした」
若雪は家族のみならず、一度は自らの夫ともなった長兄を失くした。その悲嘆は余人には計り知れないものがあっただろう。
「彼女は何も言わなかった――――――一人で重荷を背負ったんだ」
剣護がウォッカを口に含む。
荒太が510号室に戻った時、真白は起きていた。胡春はベッドからピョンと飛び降り、長い尻尾を揺らしながら二本の足で歩き姿を消した。
斑鳩を労い、代わりに荒太が部屋にあった一人掛け用のソファに座り、真白の傍についた。それから真白の頭を右手で軽く持ち上げると敷かれていた氷枕に左手で触れ、温くなっていないかどうかをチェックした。その際に洩れた荒太の呼気から、真白はアルコール臭を嗅ぎ取った。
「……お酒、飲んで来たの?」
「うん――――ごめん」
「ううん」
夫の声音や表情から、彼は真実を知ったのだ、と真白は思った。
「荒太君。私―――――――」
「俺か剣護先輩を選ぶ必要は無いよ、真白さん」
荒太が真白の言葉に被せて言った。
「二人共、真白さんの傍にいる。俺のほうが優位だけど。今まで通りだ」
「……それじゃ虫が良過ぎる」
「こればっかりはね。惚れた弱味だ、俺も先輩も。仕方がない」
ベッドに左手をつき、妻の頤に右手の指を添える。
「…キスして良い?」
「うん」
少しして唇が離れ、真白が笑いをこぼした。
「ライムの香りがするわ」
週末、玄関のドアを開けた怜は、そこに目付きの鋭い黒い短髪の少年を見た。
彼は手に段ボール箱を抱えている。
「下宿だったら家はもう、定員オーバーだよ」
「そうではない。……水臣が厄介をかけている侘びに、村の野菜を持って来た。雪の御方様たちのぶんもだ」
「………」
無言で見返す怜に、何を思ったのか吾妻誠は言い添えた。
「有機農法、産地直送だ」
「――――ああ。ありがとう。遠路はるばる。良かったら上がって」
「いや。俺はこれで失礼する。雪の御方様によろしく」
そう言って玄関にドッシと箱を置き、立ち去ろうとする誠をぬっと影が覆った。
「何だ、この小僧は。……はん?花守か。お姫様のままごと相手か」
「あなたには関係ない。口を出すな」
怜の言葉を無視して、新庄竜軌は誠に声をかける。
「おい、お前も上がって行け。その野菜で鍋をするぞ」
竜軌の黒々とした髪の色は誠と良い勝負だが、一部は赤い。黒い目は底が知れない。
朱色のシャツは派手だが、野性味のある精悍な顔立ちと体格、醸し出す空気がそれに負けていない。
「やめろ、新庄。家の客に絡むな。悪いな、黒臣。帰って良いぞ」
後ろから割って入った剣護に、竜軌が白けた目をする。
「つまらん。水臣と言い、所詮は女の御機嫌取りしか出来ぬ輩か、花守の男共は」
「喧嘩した美羽さんを捜しに来たあんたが言える台詞じゃないだろ。今回の喧嘩の原因は何だよ」
「ルーマニアで道を訊いた女から情報料としてキスさせろと言われたので、させてやったらあれがキレた」
玄関が静まり返る。
表情の無い誠と怜に代わり、始末に負えない、と言う顔で剣護が口を開いた。
「当たり前だ、莫迦。世界を股にかける浮気性かよ」
「挙句、俺に平手打ちを喰らわせ俺を弁護しようとした蘭丸も殴り、怒って帰国した。女の悋気は面倒だ」
「あんた、美羽さんがあんたと同じことしたらどうすんだ」
「たたっ斬る。決まり切ったことを訊くな、門倉。俺は俺、あれはあれだ」
とことん横暴な言い様に剣護は呆れ果て、言葉を失くした。
会話の行方を静観していた誠は、このへんが口の挟みどころかと見当をつけた。
奥に薄い青を潜ませた瞳が竜軌に向けられた。
「――――――俺への雑言はともかく、姫様を侮辱する発言は聞き捨てならん。織田信長」
にい、と竜軌が口角を釣り上げる。獲物がかかった手応えを感じた漁師の顔だった。
「そうか。骨がある、と思わせたければ上がって行け。理の姫の面目躍如にもなろう」
「おい、誰の家だと思ってんだ」
剣護の突っ込みを聴きながら、話の繋がりが薄弱だな、と誠は思う。
竜軌はどうあってでも自分を遊びの輪に引っ張り込みたいらしい。
一つ息を吐くと、怜と剣護に対して訊く。
「………邪魔をして良いか」
花守でも最も苦労性の少年に、剣護たちは同情の目を向けた。
「うっわ、花守増殖してるしっ!」
黒いソファにだらしなく四肢を投げ出していた白銀色の髪の少年は、頭を上げて顔を顰めた。
誠も彼には些か思うところがあったが、他家と思い今は矛先を収めることにして、グレーのカーペットに端然と座った。無骨さを感じさせる寡黙な少年の右側面にベランダのガラス戸から光が当たり、白黒の影絵のように見える。
「あー、しかもこいつ、僕の苦手なタイプだ。やだやだ。ちょい悪のぶバカだけでも鬱陶しいのに。真白のとこに避難しよっかなー。成瀬荒太はすごく気に食わないけど」
「やめろ、高御産巣日。雪の御方様にご迷惑をかけるな」
誠が言うと、高御産巣日の後ろから渓が顔を出した。
「その通りだ、クソ餓鬼神族。上に避難するのは私だけで十分だ」
「お前も逃げるな、水臣。俺とて弟妹の面倒を見られない連絡を家に入れたところだぞ」
「………いや、何て言うのか、本当ごめんな。黒臣。天下不武とか言う奴にはろくなのはいないんだ。悪いけど付き合ってやってくれ、あのデカいなりした子供に」
剣護がひたすら恐縮した様子で誠に謝罪する。
「おい、誰がガキだと」
「構わん。年少の相手をするのは年長者の務めだ」
「誰が年少だ、中坊」
「花守の起源はお前よりも古い」
「それを言うなら、僕がぶっちぎりで年長者なんだけど」
竜軌の眼光にも臆することのない誠に、高御産巣日が口を挟む。
剣護は騒ぎを尻目に、誠の運んで来たじゃがいも、人参、玉ねぎなどの野菜をチェックしながら考えていた。
(良い野菜だ。上に分ければ荒太が喜びそうだな。んで、真白も新鮮な野菜料理が喰えて万々歳だ。―――――――それはともかく、肉はどうする。男六人分の牛肉。家計に穴が開く。新庄は絶対に豚や魚では譲らんだろ)
そこまで思考を進めたところで、当の竜軌から声がかかる。
「せちがらい心配は要らんぞ、門倉。肉は蘭に買いに行かせる」
「腕を退けろ、重いっ」
「あんたは成利をパシらせ過ぎだ!」
竜軌に白銀色の頭に肘を置かれた少年と、剣護の双方から苦情と非難が飛ぶ。
「………賑やかだな」
怜はうるさい、と言う単語を避けた誠の配慮に慰められた。
「そうだね。以前はもっと静かだったんだけど」
水の少年は騒動を呼ぶのだろうか、と怜は思った。
リビングのテーブルの上で大量の肉と野菜が投入された鍋がグツグツと鳴っている。
ボウルやざるに入れられた具材の一切は竜軌の手元に寄せられた。
彼は焼肉奉行で鍋奉行だと、剣護と怜は知っているのだ。
(要するに仕切りたがりだよな)
こっそり思いながら剣護が牛肉に箸を伸ばそうとすると、竜軌から手をはたかれた。
「たわけが。まだ程良い固さまで煮えておらん」
「面倒くせえええええ。信長マジで面倒くせえ!」
誠は緑の野菜を黙々と口に運んでいる。
そちらは竜軌の認証圏内らしい。
「密。僕は野郎共に囲まれながらも耐え忍んでいるよ。今度会った時、ご褒美に膝枕をしてくれると嬉しい」
「おい、水臣。現実から逃げるな。戻って来い」
鍋の中をつつきながらぶつぶつ言う渓を剣護が揺する。
「ねえ、やっぱり真白を呼ぼうよ。このままじゃむさくるしくて窒息する!」
「阿呆。真白をこんな苦行に巻き込めるか」
「遠慮は要らんぞ、門倉。真白を呼ぶと良い」
「誰もあんたに遠慮してないんだよ。大体あんた、美羽さんは良いのか」
「腹が空けば戻ろう」
「ペットじゃないんだから」
「ねえ、美羽ってさ」
「余計なことを言うなよ、淡砂」
釘を差した剣護を無視し、高御産巣日が面白がる口調で続ける。
「濃姫でしょ。帰蝶だったっけ?良く再会出来たねえ。巫の力の恩恵?」
「さてな」
竜軌は軽くいなして缶ビールをグビリと飲んだ。
剣護と怜の前にも缶ビールはある。そろ、と高御産巣日が缶ビールに伸ばそうとした手を、剣護が叩いた。
「ケチめ」
「控えろよ。外見は立派に未成年なんだから。そもそもお前さ、黄泉戸喫は大丈夫な訳?」
「あれは界同士の力関係が多分に作用するんだ。神界と現世だったら神界のほうが強いから問題ないんだよ」
そういうものだろうか、と思いつつ、剣護はビールを呷る。
物欲しそうな目をする高御産巣日は取り合わない。
電車の時間に間に合わなかった誠は、鍋の後片付けを手伝ったあと、不平も言わずリビングで一夜を明かした。
翌日、剣護は成瀬宅に野菜を運んで行った。
真白は今は落ち着いた顔で、剣護にも応対する。
荒太は野菜を見ながら、これは良い素材だと喜んだ。
表面上は何事も無かったような雰囲気が保たれている。
それを見届けて家に戻ろうとした剣護を、真白が呼び止めた。
「剣護」
「何だ?」
「簪をください」
伸べられた白い掌に剣護の動きが止まる。
荒太も妻を見た。
「銀細工の簪を。…持ってるでしょう?多分、兄様がくださったのと似た物を。きっと剣護は、私には一生、渡さないつもりで机の引き出しあたりに大事に仕舞い込んでる」
剣護の緑の目が、当惑しながら真白に向かう。
「…千里眼かよ。……良いのか?あれは、お前には重いだろう」
(そう言って。その重みを、あなたは独りで持って行くつもりだった)
真白は思う。けれどもう良いのだ。
真白は兄の目を見てから、夫の顔を見た。
荒太が真白の瞳を直視して頷く。高校のころから知る夫はいつからか、大人の男性の眼差しをするようになった。
「うん。私に、ください。手放さないことに決めたの。重くても」
(太陽も、風も)
懊悩をふっ切り、覚悟を決めた妹の顔は物柔らかに凛としていた。
霞の中に咲き現れる花のようだと剣護は思った。
彼女は愛されることを引き受けると告げている。
自らの中にある剣護への想いすら認め、抱え込んでくれると。
(莫迦だな、真白)
恋情の重みを承知で一生、傍に咲き続ける白い花が、目の前に佇んでいる。
トライアングルは緩やかに、美しい音を奏でた。
夏も本番になったころ。
固定電話の電話代請求書を見た怜は目を大きくした。
どうしたと声をかけて来る兄に、無言でそれを見せる。
「水臣――――――っ」
剣護は客間のドアをバンッと開けた。
「何だ。私は今、姫様からの手紙を読むのに忙しい」
水臣は陶聖学園中等部の制服を着たまま、部屋の隅にいた。
悠々と寝そべり、鼻歌でも口ずさみそうに上機嫌で両膝の先を交互に上げ下げしている様は、今の剣護から見れば可愛らしいと言うより小面憎い。
「お前、他所様の電話でどんだけ長話してんだ!!道理で最近、子機を見かけない訳だよ!」
「愛し合う者同士の会話は尽きることがない」
「開き直るなっ。自分の携帯でやれよっ」
渓は身を起こし、胸を張った。
「持っていない」
「嘘を吐くな!」
「事実だ。姫様も持っておられない以上、私が持つ必要も無い」
剣護は顔を覆い、今度密と話す時には、携帯を持つように勧めようと思った。
渓の実家からは毎月、下宿代と、それとは別に渓への小遣いが送られてくるが、固定電話を今の調子で乱用されては下宿代では追いつかなくなる。渓の懐に入る小遣いから電話代の超過金額を出させるのは気が引けるが、このままではそれも最終手段として考えざるを得なくなる。
同じ保護者でも、天之御中主に人間の経済事情への気回しなど望める筈もなく、高御産巣日は家賃など考えもつかないような横柄な態度で、大きな顔をして居座っている。彼にしてみれば、自分が家に仮住まいすること、これすなわち住人の誉れでありむしろ感謝されるべき行為なのである。代わりに彼は、固定電話の乱用もしない。剣護や怜にとってはどちらの居候もどんぐりの背競べだった。
剣護を無視して手紙を読み進めていた水臣が、急に手紙に目を寄せる。
「―――――門倉剣護。家中を掃除しろ」
「は?」
「来週末までに完璧に綺麗にしておけ!塵一つ残さずにだ」
「お前は荒太かよ。それを命令口調で言われる理由が解らねえんだけど。何でだ?」
「姫様が来られるっ」
正直なところ、うわー面倒臭い、と剣護は思った。
キッチンに立ち、夕飯の支度をする夫の広い背中をリビングから見ていた真白は、チャイムの音を聴いて玄関のドアを開けた。
渓が生真面目な顔で立っている。
「水臣。陶聖学園の制服、似合うね」
渓の制服は剣護のお下がりだ。真白は昔を懐かしんだ。
「雪の御方様にお願いがあるのですが」
「何?」
「………密が喜びそうなプレゼントを選んでください。来週の土曜に来るんです」
真白はその報告を喜び、口元をほころばせた。
「そうなの?じゃあ、明日の夕方にでもお買い物に行きましょうか」
「はい」
「俺もついて行くよ」
真白の背後で話を聴いていた荒太が名乗りを上げる。
「荒太君。お仕事は?」
「明日の午後はフリー」
夫の言葉に、妻は嬉しそうに笑った。
翌日の夕方、私服に着替えた渓と真白、荒太はデパートの地下一階にある雑貨屋に向かった。
「ここは品揃えが良くて、無茶な値段でもない。カジュアルなアクセサリーもある」
そう薦めたのは荒太だ。最近ではスタイリスト業の仕事もこなす夫は、妻よりもこの方面には詳しい。デパートの垢抜けた雑貨屋などに縁の無かった渓は、店内の眩しい照明に目がチカチカした。都会の店はここのように、どこも良い匂いがするのだろうかと思う。渓が知る村内の店とはまるで違う。
置いてある品々の値段は、店の構えを見れば真白にも大方の予想はつく。荒太推薦の雑貨屋は、高級ブランドのような高値の品しか無いこともないだろうが、真白には中学生に手が出る商品があるだろうか、と疑問に思えた。いかにも荒太のお眼鏡にかないそうな上質な輸入品の多い雑貨屋だったのだ。すれ違う客も高そうな衣服に身を包んだ女性客が多い。
荒太の言う〝無茶な値段〟と渓にとってのそれが同じとは限らないと思い、真白は渓に尋ねてみた。
「水臣、お小遣いで買えるかしら?」
不足なようであれば援助してあげたいとの考えもあった。
「はい、多分。僕は取り立てて趣味も無いし物欲も無いので、貯金には余裕があるんです」
この言葉には、夫婦揃って何となく納得が行った。
「密はどんな物が好きなの?」
華奢なティーカップ、ラインストーンの並んだヘアピン、レース状の縁取りのついた手鏡などを手に取りながら訊いた真白に、渓は少し思いを巡らせた。
「可愛い物、全般。水色とかピンクとか。兎とかが好きです。あ、でも兎のぬいぐるみは持ってます」
「いかにもって感じだわ。あの子自身が可愛いものね」
微笑む真白に、渓は強く首肯する。
「…御方様が挿しておられるような物はどうでしょうか」
指を差されて、真白は髪をまとめていた簪に手を遣る。
桜の花びらの一枚を模した銀細工に、真円の真珠が乗っている。見る者が見れば中学生に手の届く代物ではないと一目で判る。
「これ?」
真白は謎めいた笑みを浮かべて渓に尋ねた。
荒太は黙っている。渓が顎を引くと、真白は目を細めた。
「そう―――――じゃあ、店を移りましょうか。可愛い和装小物を置いてるとこがあるの」
土曜日、電車の駅の改札口で渓は密を待っていた。密が電話で話していた電車の到着予定時刻より三十分前から待機し、改札を通る人の顔を見ては密でないことにがっかりしていた。心臓はいつもより速く鳴っている。どこから湧いて出るんだと唸りたくなるような都会の人混みにはまだ慣れないが、間もなく密の顔を見られるのだと思うと気分も浮き立ち、雑踏も野菜畑と等しく感じられた。村では目にすることの少ないスーツ姿も、渓の目には毛色の変わった馬や牛のようなものだった。
電車の走行音を聴きながらじっと立っていた渓の耳に、待ち兼ねた少女の高く澄んだ声が響く。
「渓っ!」
白いつば広の帽子を被った密は、シャーリングの入った濃いサーモンピンクのワンピースを着ている。その裾が膝丈まであるのを確認した渓は、内心ホッとした。改札口を通り抜けるのにもたつきながら、重そうなキャリーバッグを引き摺って来た少女に駆け寄り、抱き寄せる。通行人の迷惑にならないようにと言うよりは、抱擁の邪魔をされない為に改札口から離れ、切符売り場の端に移動した。密の身体を抱き、キャリーバッグをも持った状態なので、カニ歩きのようなぎこちない歩みになった。
「密――――――」
「会いたかった!」
人目を憚らない少年少女のカップルを、周囲の人間は微笑ましそうに見ながら通り過ぎる。
(密だ。密の匂いだ)
それだけで渓は幸せになる。
渓がずっと腕の力を緩めないので、終いには密がジタバタとした。
恋しかった渓に久しぶりに会えた喜びに伴う、気恥ずかしさもあった。
(渓ったら、また少し背が伸びたみたい)
目線を上げ、少年の頬に手を当てて尋ねる。
「元気にしてた?怪我とか病気とか、しなかった?」
密の真っ直ぐな瞳が渓には懐かしく愛おしかった。
「うん。密がいない虚しさを除けば、僕は元気だった」
密が照れたように頬を染め、笑う。
それだけで、渓の目にはあたりに咲く小花の群れが見えるようだった。
だが、そんな二人を前にストップウォッチを手にした少女とそれを覗き込む少女の存在が、渓の盛り上がりに水を差した。
「……どうしてお前たちまでもがいる」
渓は密の後ろに控える寺内若菜子と、エリザベス・ヒュースを冷たい目で見た。
カチ、と若菜子がストップウォッチのボタンを押す。
「三分十一秒。密着時間が長過ぎるわ、水臣」
「次からはもっと短縮しろ。姫様がお困りだ」
口々に言ってから、少女たちは誰に後ろめたいところも無い、と言うように胸を逸らして答えた。
「もちろん、みっちゃんのお供、兼ボディーガードよ」
「お一人でお前に会いに行かせるのは不安要素が多いからな」
彼女たちは当然のような顔をして、渓の邪険な眼差しも全く取り合っていなかった。
金髪碧眼の少女と琥珀色の髪の少女は、駅の構内で目立ち、好奇の視線を浴びた。
歓楽街の中に、目当ての居酒屋は変わらずあった。
剣護が店の敷居を跨ぐと、渋面の店主が腕組みしてカウンターの向こうに立っていた。
埃を薄く被った、薄暗いような店内の様子はいつもと変わらない。
店主の顔を一目見て、剣護は彼が自分たちの訪れを前もって知っていたと察した。情報屋の稼業は順調に機能しているようだ。
「……開店前だぜ、お客さん」
その声を跳ね返すように、少女たちの声が小鳥の賑わいのように店内に響いた。
「お、お邪魔しまあす」
「お邪魔しますわ」
「邪魔をする、店主」
渓は密の傍らに立ち、警戒する視線を店内に一巡させた。
「正味な話、邪魔だぜ。こうも神気を寄せ集められちゃ。客足が遠のいちまう。うちは脛に疵持つ客も多いんだ。妖もな」
苦い声で言う店主に、剣護が片手で拝む仕草をする。
「わりい、大将。俺がちょっと口、滑らせちまってさ。この子らが居酒屋兼、情報屋ってのに来てみたいって聴かなかったんだ。社会科見学させてやってくれよ」
「スカイツリーにでも連れてけ、莫迦野郎。ここは飲み屋だぜ」
「大将、別嬪が好きだろ?見ろよ、美少女揃いじゃないか」
「十年はええ。雪のお姫さんならともかく」
「ねえ、大将さん。ゲソってなあに?」
煤けた店の壁に貼られた紙を見て、密が無邪気な声で訊く。
「…お嬢ちゃん、ゲソも知らねえのかい」
店主の強面が情けないようになる。
「イタリアンですか?」
「………ちげえよ」
密たちの村内にある居酒屋もこの居酒屋も内容に大差無かったが、密は今まで居酒屋と言う大人の世界に足を踏み入れたことがなかった。それは過保護な両親の教育方針のせいでもある。都会の居酒屋は、密にとって二重に未知の世界だった。その上、ここは情報屋も兼業していると言う。密にとって、スカイツリーより余程、ワクワクドキドキする空間だった。
(やっぱりここにも招き猫があるのね。客商売ですもの。でも、何だか埃を被って可哀そう。絞ったタオルで拭いてあげたいわ)
他にも好奇心に満ちた目でキョロキョロと周囲を見回す。
だが、渓はそんな感慨とは無縁だった。飲みはしないものの、竜妃に連れられて村の居酒屋には何度か入ったことがある。厳密には大学一年の竜妃もまだ未成年だが、店側も見知った顔の多い店内の客も素知らぬ振りで通した。
「姫様、早く参りましょう。このような下々の店に長居してはいけません」
「渓っ。失礼よ」
蛸入道の顔が崩れる。
「言ってくれるなあ、〝水臣〟」
怖いような笑みだった。
渓の双眼が細くなる。
「なぜ私の名前を?」
呼気と共に、店主が笑いを吐き出した。
「うちの烏に聴いたのさ。理の姫と水臣は、こっちでもちょっとした有名人だ」
剣護が微笑む。
「あんまり苛めないでやってくれ、大将」
「へいへい。……コーラかオレンジジュースしか出せねえぞ」
「ありがとう、大将さん」
笑顔で言った密を、店主は見定める顔つきで眺めた。
「俺、ちょっとトイレ」
コーラを飲んでいた剣護が席を外した。
途中から紫煙を吹かし始めた店主に渓は顔を顰めたが、煙を吐く方向は少女たちの座る場所と真反対だった為、とやかく物言いすることは控えた。
「……あいつもなあ、難儀な奴だよ」
店内の斜め上に視線を据え独り言のように言った店主に、密は小首を傾げる。
「あいつって?剣護さんのこと?」
「ああ」
「難儀って何が?」
店主の奥まった小さくて細い目が、密を見下ろしたあと、両脇を固める若菜子とエリザベスに問いかける。
「お嬢ちゃんたち、光のお姫さんに幸せになって欲しいだろう」
「無論だ。特A級に幸福になっていただかねば」
「あら、トリプルAよ」
店主が納得ずくの顔になる。
「だろう?光のお姫さんは、そこの水臣と所帯でも持ちゃあ特AでもトリプルAでも幸せに決まってらあな。こう、キラキラした教会で結婚式でも挙げてな」
複雑な面持ちになった二人の少女を置いて、密は力強く頷く。渓は動かないが内心では店主の言葉に同調していた。
「それはその通りだわ」
「引き換え、剣護はB級止まりで幸せを諦めてんのさ」
「………剣護さんは、好きな女の人がいるの?」
「厄介なことに、相手は人妻だ」
内緒話をするように声を潜めて、店主がカウンター上部に設置された、魚介類の納まったガラスケースの四角い縁をついとなぞる。密が身を乗り出した。
「人妻に片想い…っ!」
背徳的な響きに胸が高鳴り、密の頭に妄想が湧く。
「大将さん、その人妻って、結い上げた黒髪に珊瑚の簪を挿して、襟元から白い肌が覗いてて、竹林みたいな緑の縦縞の着物を着て熱燗のお酒を飲んでるような?」
「うん、だいぶ違うな。お嬢ちゃんのイメージは偏ってんなあ」
密の頭の中にあった、日本酒の宣伝のような「人妻」像はあっさり否定された。
「――――――どだい、勝負は解らねえんだ。手を伸ばしてみりゃあ良いもんをな」
戻って来た剣護が椅子に座り、軽く店主を睨んだ。
「口の軽い情報屋ってのは感心出来んぜ、大将」
店主は肩を竦め、煙草を灰皿に押し付けた。
店から出る際、密はこっそり、持っていた白いハンカチでレジ横に置かれた招き猫の埃を拭き取った。店主に見咎められるかと思ったが、彼は剣護と話していてこちらには注意を払っていないようだった。
剣護と少年少女が去ったあと、店主はレジに歩み寄った。
それからポン、ポン、と招き猫の頭を叩くと堪え切れないように笑いを洩らした。
夕方、密一人を宿泊させる予定だった成瀬家に、少女たち全員を入浴させるには荒太の存在もあり難があった為、真白と剣護が連れ立って密たちと渓を銭湯まで案内した。渓までが付き合う必要は無かったのだが、若菜子やエリザベスの不穏な顔も眼中にない態度で一緒に行くと言い張った。
密や渓たちが暮らす村には、昔ながらの銭湯が今でも村人たちによって日常的に活用されており、少年少女は真白や剣護に教わるまでもなく石鹸やタオルなどを準備した。
靴を下駄箱に納め、松竹錠の鍵木札を手に取りながら密が真白に問う。
「姉上様、お背中を流しても良いですか?」
「ええ、皆で背中の流しっこしましょうか」
華と色の漂う会話は、男性陣には耳に毒だった。
密たちの姿が女湯の脱衣所に消えるのを未練がましい目で見送り、渓は剣護と共に男湯の脱衣所に入った。
しばらくすると、お湯の流れる音に被さって少女たちと女性の高い声が響いて来た。
「リズ、肌が真っ白ね。姉上様みたい」
「私はそこまで白くないわ、密」
「みっちゃんだって赤ちゃんみたいなお肌じゃない」
「え、そう?」
「姫様も真白様も肌がきめ細かくて柔らかい」
「それもだけど、みっちゃん、胸が」
「し!木臣。向こうには水臣がいるのだぞ」
「あ…、」
男湯で会話を聴いていた剣護と渓は女性陣のようには話が弾まず、沈黙していた。
「なあ、水臣」
湯船に浸かった剣護が、髪を洗っている渓に話しかける。
話しかけながら、意外にこの少年はしなやかな筋肉がついているなと思っていた。服を着た状態では解りにくいあたり、荒太と似ている。見るからにしっかりした体格の剣護だが、荒太と腕相撲した場合の勝率はおよそ六割である。つまり四割は負けている。
(筋力もだけど、力の使い方のこつを知ってんだよな。荒太は)
「何だ」
姿勢を変えずに渓が答える。湯気が充満した浴場の熱気の中、水の響きは涼しく鳴った。
「お嬢ちゃんの胸って」
「黙れ、何も言うな、想像するな」
泡立った頭の下で薄青い眼光が剣護を的に閃く。
それに対して口をへの字に曲げつつ、湯から上がる為に手すりに向かう老人に剣護が場所を譲ると、タイル張りの浴槽の中で熱い波が動いた。
「他に思考を向けないと、俺の意識は真白に飛ぶんだよ。富士山の絵を見ても、てっぺんの雪の部分を見てあいつの白肌を連想しちまうんだ。のぼせそうでやばい」
渓と剣護の遣り取りは、女湯と違ってトーンを落としてのものだった。
銭湯のイメージを裏切ることなく、浴槽の向こうの壁には一面、富士山のペンキ絵が描かれてある。
「それは自由にしろ」
渓が黄色い洗面器のお湯を頭から被る。他の客にまで湯が飛ばないような作法を弁えているあたり親の躾の成せる業だろう。共に暮らしてみて解ったことだが、剣護たちに対してひどく傍若無人な言動を取るものの、渓は基本的な礼儀作法や公共の場での振る舞い方が身についている。上手く猫を被れば非常に品行方正な優等生で通る。
だが現時点において、渓の素っ気無い返事は剣護に無慈悲だった。
「そうもいかねえって…」
盛り上がりに欠ける男たちとは反対に、女湯からの楽しげなお喋りは絶え間なく聴こえ続けた。
銭湯から帰った密たちは成瀬家に上がり込んだ。持って来た荷物一式は、既にリビングの隅に運び込んである。剣護は無駄に家を掃除させられたことになる。
荒太は予定外に人数が増えたことを聞いてから、再び夕飯の材料を買い足しに出かけて客をもてなす料理を拵えた。ダイニングキッチンに置かれたテーブルでは椅子が足りないので、リビングのテーブルに豪勢なおかずの品々が並んだ。全ては愛する妻の為である。
「どうしてお前までついて来る、水臣」
「密がいるからだ。そんなことも解らないのか、成瀬荒太」
押しの強い少年少女らは、料理研究家の準備した夕飯に舌鼓を打った。
真白の愛猫の胡春は少女たちの人気者となり、淡い桜色の毛並を撫でられながら始終愛想良くしていた。
部屋数とベッドの大きさの関係から、真白と三人の少女は夫婦の寝室のダブルベッドに寝ることになった。当初は密たちに遠慮し、自室のベッドに寝ようとしていた真白を少女たちがこぞって引き留めたのだ。さすがにそこまでは足を踏み入れられない渓は仏頂面になった。自室のシングルベッドに寝ることを余儀なくされた荒太も不満そうな表情をしていた。愛する相手と一秒でも長くいたいと欲張る性分において、荒太と渓は似通っていた。その点に関する堪え性が無いとも言える。
そんな息子の気性を熟知していたから、流光寺住職はこの難関をクリアした暁に、離れを渓に与えることに決めたのだ。今回、密に会うことを許可したのは、耐えている息子への父なりのサービスだった。
真白と胡春、若菜子、エリザベスに続いて寝室に入ろうとした密の腕を、渓の手が掴んだ。渓、と呼びかけそうになる密に、自分の唇の前でしい、と人差し指を立て、渓は密をベランダに招いた。
空の色は下界に向かうにつれぼやけたように白んでいて、村で見る夜空のような冴えがない。夏の夜の風も村のような涼やかさがなく、どことなく生温い。
密は街の夜の空気を吸い込んだ。
「お月様は見えるけど。……星が少ないのね。村に比べると」
上空を見上げた密が残念そうに言う。
「星は少ないけど、密。僕から君にプレゼントがあるんだ」
「本当っ?なあに?なあに?」
密が目を輝かせて渓に迫る。物を貰う喜びより、都会の夜空の下で渓からプレゼントを贈られるというロマンチックなシチュエーションに、彼女は胸をときめかせていた。
唇で弧を描いて渓が差し出したのは、ピンクの地に金の笹の葉が織り込まれた長方形の袋だった。
袋に結われた赤い紐を解くと、中から金色の簪が出て来た。
先端に水色の玉を抱え込んだ精巧な細工の兎と小さな鈴がくっつき、金の細いチェーンが湾曲を描いて二重に垂れ下がっている。
真白と荒太の助言を受けながら渓が選んだ物だ。値段は渓の予想より高く、中学生の身にはかなり高価と感じられたが、真鍮だからその値段で済んでいるのであって、真白が挿している銀細工の簪などに比べればはるかに安いだろうと荒太に言われた。物欲の乏しい自分の気性を幸いと思いつつ、渓は真白の援助を断り自腹でそれを購入した。
簪を見た密は歓声を上げた。
「可愛いっ!綺麗だわ。本当にくれるの、渓?」
少女の声と表情に、渓は嬉しそうに顔をほころばせる。
密の他には、誰も見ることのない彼の顔だ。
「うん、もちろん。挿してあげるよ。貸して」
渓は真白に教わった通り、密の髪をまとめてねじると手早く簪を挿した。毛束の先が斜め後ろにしどけなく流れる。密にはいかにも簡単にこなしたように感じられただろう、一連の動きを会得する為に、渓は真白の髪で何度か練習させてもらった。神族の姉妹は猫っ毛という髪質も同じだったので練習するにも都合が良かった。練習している間ずっと荒太からは険悪な目で見られたが、それに萎縮するような渓ではなかった。
「――――――どう?」
密がドキドキしながら渓に問う。
「…密の髪のほうが光って見える」
「ええ?」
身動きした拍子に、チリチリンと鈴の澄んだ音が鳴る。
「似合ってるよ、お花みたいだ、密」
渓が目を細め、満足そうに言う。ピンク色の頬をした密が眉を寄せる。
「困ったわ。…私、何も準備してないわ。ごめんなさい、渓。こんなことなら、花束くらい用意して来れば良かった」
渓が声を立てて笑う。
「花束は僕が密にあげるものだ。来てくれただけで嬉しいよ―――――これをちょうだい」
そう言って渓は、露わになった密の首筋、琥珀の小川の流れる横にくちづけた。
少女の白い首からは甘酸っぱい匂いと蠱惑的な深い香りの両方がした。
淡い夜の帳に包まれて、頭の芯がじんと痺れる。
無邪気な言動の向こうで、密は着実に女性という生き物の空気を漂わせ、香りをもってして渓を絡め取ろうとする。
柔らかな綾絹を思わせる束縛に抗いがたく、渓は身動き出来なくなる。
「渓?」
振り返り、自分を見上げた密の目には、清澄さと熱く潤むような色の両方がある。
密の薄青い目は、笑みの形に細められていた。
少女と女性のあわいが見える笑んだ瞳に、渓の背が粟立つ。
羽化しつつあるのだと思った。