十二
十二
マンションの敷地内にある公園のブランコに真白はぽつねんと座っていた。
時間が時間だけに子供の姿は一つも無い。葉桜が微かに風に揺れている。
瑠璃色の夜空には、今にも満ちそうな仄白い月がある。砂場の砂は月光に照らされた砂漠のようだった。
〝では若雪。俺の嫁になるか〟
剣護の前生である兄・小野太郎清隆にそう言われた晩も、こんな月が出ていた。若雪は本気で期待したが、清隆に冗談だと言われて落胆したのだ。
(それははっきり憶えてたのに――――――)
嵐に出逢う前、まだ若雪が家族を失うよりも更に前、長兄と辿った逃避行の記憶は霞のように朧げにしか憶えていなかった。
それを今、鮮明に思い出した。
次兄・小野次郎清晴と母の助けで、若雪と清隆は束の間、仮初めの夫婦のように過ごした。
備後国三次、大伯母の住む爽原の家で、ほんの三月ばかりを過ごした。
その夜は雪が降っていた。
雪の中で夢を見た。
幸せで儚い夢を。
〝春、雪が融けて桜が咲くころに。俺の嫁になれ、若雪。この地で共に暮らそう。俺は何をしてでも、お前が喰うに困らぬようにする〟
〝太郎兄の、嫁御にしていただけるのですか?〟
〝なってくれるか〟
〝―――――はい。はい〟
(太郎兄は真剣だった。私は兄様に心から求められたことが、泣きたいくらいに嬉しかった。それから。それから私は、兄様と―――――)
押し付けられた背中に感じた襖の固さ。深く重ねられた唇の感触は息が苦しくなるくらいに長く続き、肌を辿った指の動きまで生々しく蘇る。
兄と愛し合った記憶の波が否応無しに押し寄せる。
あの時、若雪は確かに太郎清隆を最愛の人だと感じていた。
この世の全てのように。彼がいれば幸せだった。
幸せだった。
愕然とする。
(…愛してた。愛してたわ。兄様を)
〝ずっと隣にいてよ〟
(荒太君)
〝俺の一番の幸せだよ〟
にゃあ、と猫の鳴き声がした。
「胡春ちゃん……淡砂君」
高御産巣日が、真白の愛猫を抱いて立っていた。
貴族の子息のような身なりをした白銀色の髪の少年が、淡い桜色の毛並の猫を抱いている姿は、絵本の中から抜け出したように浮世離れしていた。
「…雪の、」
「真白で良いよ」
「……真白は、何で泣いてるの」
「―――――――解らない。荒太君を、裏切ってたからかも」
昼間とは異なり、少年は透徹とした表情で淡々と口を開いた。
「前生で兄と寝たこと?別にありなんじゃないの。人間のモラルって狭苦しいよね。神界はもっと悠然としてるよ」
真白が目を見張る。
彼女が座る隣のブランコに、高御産巣日は腰掛けた。
「知ってるよ、僕は。伊達に長く生きてない。あんたがまだ、峰の白雪だった時から見てたんだ。まさかあんたが現世に流れるなんて思ってなかったから、見失った時は焦った。若雪としての生を終えたら、神界に戻るとばかり考えてたのに。待ってたけど、真白は戻って来なかった」
真白はぼんやりと少年を見た。
「…荒太君に逢いたかったから」
「…知ってる」
高御産巣日の腕から飛び降りた胡春が、真白の足にすり寄った。真白は柔らかな温もりを抱き上げた。真白は目を細めて、それまでとは異なる眼差しで白銀色の少年を眺めた。
「………私と荒太君に子供がいたら、きっと淡砂君の見た目くらいの年だわ」
「子供。欲しかったの?」
「……難しいってお医者さんに言われたの。私は身体が弱いから、出産には耐えられないかも知れないって。それを聞いたから荒太君は、夫婦二人だけでやって行こうって。子供なんか要らないって。私にもしものことがあったら耐えられないって辛そうな声で言って抱き締められた――――――」
声を震わせ顔を伏せた真白の横で、少年は黙ってブランコを漕いでいた。
剣護は真白が家を飛び出したあと、すぐ弟のもとに向かった。本当なら真白を追いたかったが、真白が一層、恐慌状態に陥りそうで追えなかった。胡春が真白を追いかけたようなので、ひとまずは任せようと思った。
家に入る時、玄関の靴箱の上に、小振りなガラスの器に飾られた野の花が目に入った。
真白の手によるものだ。妹のちょっとした気遣いで、剣護たちの住まいには和やかさと華やぎが添えられる。
決して失えない存在なのだ。
ソファに座る怜は剣護から話を聴いて、難しい顔をした。剣護はカーペットの上に腕組みして立っている。
テーブルの上の白い花々から立ち上る芳香が鼻を突く。
「その住所は、どうして」
「多分、荒太の次の取材先か何かだろ。すげえ偶然だけど」
「……真白は、本当に思い出してた?」
剣護の脳裏に真白の狼狽え、赤面した顔が浮かぶ。
――――――〝太郎兄〟―――――――
「十中八九」
「………あの子の性格からして、成瀬と離婚するとか言い出しかねないな。あいつ、いつ戻って来るの?」
「四日後とか言ってたかな、しろは」
「――――――呼び戻そう。非常事態だ。太郎兄は今日は俺の部屋で寝て。俺が、真白の傍についてる」
「……解った。頼む。あいつを宥めてやってくれ。きっと混乱して苦しんでる」
「うん」
真白が家のドアを開けると、胡春はトン、と床に降り、二足歩行になって心配そうに主人の顔を見上げた。フローリングの床に、こちらを向くスリッパが真白の視界に入る。
「お帰り、真白」
いつもと変わらない顔で、微笑む怜が出迎えた。
「――――次郎兄」
「ご飯は出来てるよ。けど風呂を沸かしておいたから、先に入っておいで」
真白は次兄のシャツに縋りついた。怜は何もかも承知した顔で妹の身体を受け止め、包み込んだ。
真白の口から嗚咽が洩れる。
「…真白」
怜の胸を焦げ茶色の頭が強く押す。
「次郎兄、次郎兄、どうしよう、私、どうしよう」
「どうもしなくて良いんだ、真白。今まで通りで良い。成瀬は真白を愛してるよ」
「嫌われる。荒太君、きっと私のこと――――――」
「嫌わない。嫉妬は相当にするだろうが、あいつは真白から離れられない。絶対に」
怜は確信を籠めた声で妹に言い聞かせた。
それでも真白は小さな声で、どうしようと繰り返し言い続けた。
翌日、日曜日の夕方、荒太は忙しない足取りでマンションの郵便受けを通り過ぎた。
耳には真白の声が響いている。昨夜、荒太は真白と怜の二人から電話を受けた。
〝―――――真白さん?〟
〝荒太君。荒太君、早く戻って来て〟
〝真白さん、何かあったの〟
〝お願い、早く。…あ。あ、ごめんなさい。や、やっぱり良いの、忘れて。ごめんなさい、荒太君。ごめんなさい。ごめんなさい――――――――〟
涙声の電話はそれで切れた。
真白が荒太の仕事先に電話をかけて来たことは、これまでにほとんど無い。そしてそんな時は、どうしても止むを得ない場合だけだ。荒太から、真白の声が聴きたくなって電話する回数のほうが多い。真白は常に、夫の仕事の邪魔をしないようにと気を遣っている。
(何があった―――――)
怜もまた、すぐに真白のもとに帰れと言うだけで、詳しい理由などは伝えなかった。
荒太は残りの日程の仕事をキャンセルして、急いで引き返したのだ。
「おい、成瀬荒太!」
居丈高な響きに上を見ると、階段の踊り場に、少年が腕を組んで仁王立ちしてこちらを見下ろしている。逆光で解りにくいが、彼の髪の毛の色は白銀に見える。
「お前、真白に子供を作ってやれ!」
荒太は耳を疑った。そして当然の疑問を口にした。
「…………どちら様?」
「水臣、お前に手紙が来てるぞ。速達で」
剣護が差し出した手紙は、分厚く膨れていた。花柄が全体にプリントされた水色の封筒だ。結局、客間を居候の二人に使わせることにしたのだが、この決定には渓も高御産巣日も大いに不服を申し立て最終的には、怜が嫌なら出て行くように静かな声で言い渡すと二人共、不承不承、頷いた。
「興味ない」
「何か良い匂いがするな。差出人は――――、空也密」
それを聞くなり客間の床に転がっていた渓は跳ね起き、剣護から手紙をひったくった。
「どうして勝手に触るっ!匂うっ!」
「あのなあ」
言葉を続けようとした剣護を無視し、渓は封筒を軽く手で払うと剣護に右手をひらひらと差し出した。
「あ?」
「ペーパーナイフだ、門倉剣護。それかはさみを寄越せ、早く。気が利かない奴だな」
「…………お前、家でもそんなだった訳?」
「いや、もう少ししおらしくしていた。仔猫みたいに。仮にも生家だからな。良いから早くペーパーナイフを寄越せ。売れない物書きでもそれくらいは持ってるだろう」
剣護はこの居候をポリバケツに押し込んでゴミ捨て場に出す光景を思い浮かべた。
しかし仮にそれを実行すれば空也密が嘆き、ひいては真白が嘆くことになる。
妹を盾に取られた剣護は、黙って自室にペーパーナイフを取りに行った。
筆不精の密が分厚い手紙を書いて送ってくれたことに、渓は舞い上がっていた。
最小限の傷しか作らないよう、封筒を慎重に開けると中から便箋の束を取り出す。
それから部屋の隅に移動して、いそいそと中身を読み始めた。
手紙は愛する渓へ、で始まった。その五文字だけで渓には落雷級の重みがあった。
少し丸みを帯びた綺麗な文字に、渓は指の腹で触れた。
それから、元気にしているか、風邪などひいていないかと続き、昨日あったこと、今日あったことなどの事細かな報告が記された。
朝食にベーコンエッグとロールパン二つを食べ、コーンスープを飲んだこと、近所のブルドッグにまた吠えかけられて怖かったこと、枝毛を発見してショックだったこと、エリザベスに英語を教わったこと、薔薇のような紅の朝焼けが美しかったこと、出来れば渓と並んで見たかった、やはり渓がいなくて寂しい、渓がとても恋しくて恋しくて恋しくて―――――――という内容だった。
特に、恋しさの余り泣き濡れています、という一文は渓の心臓を打ち抜いた。当初の目的を忘れ即刻、村に戻ろうかという思いが胸をよぎった程だ。
便箋の余白には所々密の描いた小さなイラストが入り、文章は全て赤いインクのペンで書かれていた。
渓は目を見開いて、文章を何度も読み返して熟読した。
(食欲は意外にあるんだな。あのブルドッグ、懲りずにまだ密に吠えてるのか。不届き千万だ。あいつは主人に甘やかされてるからな。密が自分より一億万倍可愛いから嫉妬してるんだ。然るべき対応策を検討する必要があるな。枝毛の一本や二本、密の輝きを損なうものじゃない。金臣め。英語が本場仕込みだからって調子に乗るなよ。早く英検二級を取ろう。薔薇のような紅の朝焼けだろうと密のほうがずっと美しい。でも確かに、一緒に見たかった。朝焼けに照らされた密の顔は綺麗だろうな。それを見る為なら僕は頑張って早起きしてみせる。密。僕も君がいなくて寂しい。君のことがとても恋しいよ。密。密。密。密。………こうしてる間にも、密に手を出そうとする男がいたらどうしてくれよう。密は天使で女神で可愛くて綺麗過ぎるからな。そんな男は絶対に許せないぞ。天誅を加えてやる)
手紙の内容に対して喜怒哀楽の感情をフル活用して、渓は時が経つのも忘れた。
白銀色の髪を持つ正体不明の少年の訴えを受け流して、荒太は自宅に駆け込んだ。
(暑くなってくると変な奴が増える。あんなのにかかずらってる場合じゃない)
ことは妻の一大事だ。
「真白さん―――――――?」
廊下を進みながら呼びかけるが、返事は無い。
茜色に染まるリビングのテーブルの上を見て、荒太は固まった。
そこには、真白が常に薬指に嵌めているタンザナイトの指輪を始めとして、これまでに荒太が妻に贈った装飾品、衣類、香水などの品々が並んで置かれていた。
艶やかな漆黒の櫛もある。
螺鈿細工の竜胆が咲く漆塗りの櫛は、荒太が婚約指輪の代わりに真白に捧げた物だ。
丁寧に置かれた品々の意味するところは明らかだ。
(…腕時計が無い。婚姻届を出した日に贈ったワンピースも)
まだ、彼女との繋がりは切れていない。
荒太は真白にプレゼントした物は一つ残らず記憶している。
真白の部屋からは、彼女が普段使いしているショルダーバッグが消えていた。
彼女の愛猫、胡春の姿も無いところを見ると、主人の傍にいるか跡を追っているのだろう。妖の猫は神出鬼没だ。
剣護らの家を訪ねた荒太は、玄関の三和土に散らかる靴の数を見て訝しく思った。
(ああ…。そう言えば水臣が居候して来るとか言ってたか)
今はそれに関してどうこう考える余裕が無かった。
荒太を出迎えた怜は、無表情だった。いつものことだ。
事態が深刻な時程、自分の感情を抑えて人より冷静であろうとするのが怜だ。
「真白さんがいない。こっちに来てないよな」
無表情が僅かに動いた。
「―――――来ていない」
「一体、何があった」
「…俺の口からは言えない」
言葉少なに拒否する秀麗な顔に対して、苛立ちが湧く。
「お前が俺に帰れと言ったんだろうが」
怜は揺らがない目で答えた。
「そうだ。真白が消えたと言うなら、お前があの子を探し出して見つけろ、成瀬。諸々の理由は、それから真白本人に訊けば良い。けれどそれがあの子にとって耐え難い苦痛であるようなら、太郎兄がお前に説明するだろう。夫ならそこは見極めろ」
「………剣護先輩が?」
ちらりと廊下の向こうのリビングに視線を投げる。彼の姿までは見えない。
「ああ」
荒太に呼び寄せられた兵庫は、電話の横に残されたメモを見た。
(広島県三次市)
ソファに座り込んで考えに耽る荒太に目を遣る。
「これ、荒太様の次のお仕事先ですか」
「多分な。編集部からの伝言だろう」
「…腕時計、ワンピースにバッグは真白様が身に着けてらっしゃるんでしょう。白いワンピースは日が落ちると目立つ。捜す手がかりにはなりますね」
「腕時計は、俺が真白さんにあげた時、これだけは夫婦喧嘩しても離ればなれになっても身に着けておくように言ったんだ。換金すれば当座は不自由しない」
兵庫が目を眇める。
「飢え死に寸前になっても真白様は手放さないでしょうよ」
「………嵐下七忍の全てに捜させろ。早急にだ。俺も出る。胡春がいれば滅多なことにはならないだろうが。丈夫でない身体で動き回って、どこかで行き倒れでもしてたら洒落にならない」
「承知」
短く答えて玄関に向かおうとした忍びの男に、荒太は問いかけた。
「兵庫。お前、メモの地名に心当たりはあるか?」
兵庫の足が止まる。うなじにかかる茶髪の向こう側、男の表情は見えない。振り返らないまま兵庫は答えた。
「……真白様を見つけたあとにでも、上の兄上様に尋ねてごらんなさい。真白様には訊いちゃいけませんよ」
兵庫の口振りから、彼が何かを知っていることを荒太は察した。
「…なぜだ」
「――――――酷だからです」
誰かの泣く声を聴いた気がして、密は髪を洗っていた手を止めた。
琥珀色の髪は白い泡に覆われている。湯気に覆われた浴室を、ついキョロキョロと見回す。頭を動かしたはずみで、シャンプーの液が目に入り沁みた。
(…姉上様。のような、気がしたけれど)
シャワーで髪を洗い流し、湯に浸かる。
ピンクの入浴剤に染まった薔薇の香りのする風呂を見ても、石鹸置きがウサギさんの顔の形をしていても、タオル掛けがハート形であっても、密の父は何も言わない。愛娘のすることには何でも眉尻を下げてニコニコするのが彼の常であった。密の母もまた、夫に劣らず娘を溺愛している。そのような環境下、密が高飛車極まりない性格にもならず、そこそこの我が儘振りに落ち着いて育ったのはある意味奇跡と言えた。
いちごミルクのような色の湯から少し出た左胸の上あたりには、まだ少年の刻んだ印が残っている。
ひとひらの赤。
忘れるなと言わんばかりに、その痣はいつまでも消えない。
〝決意して遠くに行こうとする男を引き留めてはいけないよ。その行動が愛する人の為なら猶更だ〟
渓が一人で転校を決め、離れ行くことを嘆く密に父親は言った。
〝どうして?パパ〟
〝男にはそうしなきゃいけない時もある。試練を超えるべき時が〟
〝……女の人にも?〟
〝そうかも知れない。でもパパは、密にはそんな思いをして欲しくはないな〟
澄んだ瞳で尋ねた娘に答える父は、少し悲しそうな眼差しで笑った。
洗髪した頭に巻いたタオルからは、幾筋かの琥珀色がこぼれ落ちている。
胸に散る、赤い花びらに右手をそっと当てて密は考える。
この痣がずっと消えなければ良いのにと思いながら。
(私には、離れない為の努力なら出来るわ。きっと、幾らでも。でも、その逆は考えられない。それともそう思うのは、私がまだ経験不足だからかしら。色々なステップを踏めば、その内そんな選択肢に突き当たることもあるのかしら)
天之御中主が強引に自分を迎えに来た時のことを思い出す。
渓を殺されるくらいなら、天之御中主の求めに応じようと一瞬、考えた。
(その道を選ばずに済んだのは、とても幸運なことだったんだわ……)
「封筒と便箋は無いか。出来ればウサギさんの柄が良い!シールは赤いハートが良い!」
客間から出て来た渓がそう言った時、剣護と怜はリビングのソファに腰掛けそれぞれ物思いに沈んでいた。脚の低い乳白色のテーブルの上には焼酎の瓶と氷の入ったグラスが二つ置かれているが、余り口をつけた気配は無い。氷が溶け、焼酎が水っぽくなるのを待つかのような悠長さで、二人は思い出したようにグラスに手を伸ばしていた。
剣護が顔を上げる。
「清々しいくらいに空気を読まないな、お前は」
「褒めるのはあとにしろ。早く兎柄のレターセットを出せ」
「ねえよ、んなもん。幾ら俺が物書きでもな。真白が帰って来たら訊いてみろ」
渓が何かを推し量る顔つきになった。
「――――雪の御方様は御不在か。何事か起きたのか」
「……ちっとな。お前には関係ねえ」
剣護がカラン、とグラスを揺らす。
「そうか。私に出来ることがあれば声をかけろ。当分は姫様への文章の推敲に忙しいが――――――何だ、その顔は」
渓の思いもかけない言葉に、剣護は驚いていた。てっきり無関心を貫き通すとばかり思っていたのだ。
「びっくりしてんだよ。お前にそんな協力精神があったとはな」
渓が渋い顔になる。
「不本意だが雪の御方様には恩義も借りもある。それに、あの方に何かあると密が悲しむ」
「……納得した」
盾に取られているのはお互い様らしい、と剣護は思った。
二人の遣り取りの傍で怜は沈黙を通した。
麻素材の白いワンピースにショルダーバッグ、薄い青のショールを掛けて真白は夜の街の中を歩いていた。何人かの男性に声をかけられたが、それらを断るのにだいぶ消耗した。元々、人混みは苦手なのだ。
それを知っているから荒太は、真白と出かける時には自然の空気が感じられる場所をなるべく選び、街中を歩く際は頃合いを見計らって落ち着いたカフェに入ってくれた。
(荒太君自身は、喧噪も街中も好きなのに)
水を得た魚のようになることを、真白は知っている。
夫に無理をさせているのではないかと思ったことは一度や二度ではない。
(私と一緒にいることが重要なんだと言うけど……)
所在無い思いで、真白は気付けば先程から左手首の腕時計を撫でていた。
〝護身道具と思って、これを着けて歩いて。いざと言う時には、迷わず売っ払うんだよ。それまでは綺麗なアクセサリーだとでも考えれば良い〟
実利的な荒太は、どうすれば真白の身の安全を確保出来るかを心得ている。
(――――――荒太君も剣護も、いつまで私を守ろうとするんだろう)
そうまでしてもらう価値が自分にあるとは思えない。
考えていると何だか頭が熱く、グラグラとして来た。髪の毛が汗ばんだ首にまとわりついて不快だ。
「真白様!」
呼ばれた方向に虚ろな目を遣ると、爽やかな黄緑のスーツに身を包んだ女性が歩み寄って来る。長いワンレングスの髪を、今はアップにしている。
「…斑鳩…」
艶麗な美女は真白の腕を柔らかく取り、無駄の無い動きで歩道の端に身を寄せる。
「お捜し致しました。荒太様が心配なさっておいでです。…真白様。御気分が、優れないのでは」
真白はそれには答えず、眉根を寄せた。
「―――――七忍全員が動いたの?皆、仕事があるのに……あなただって、今は警部でしょう」
「我らの本分はこちらです、真白様。真白様と、荒太様の意に沿って動くことです」
斑鳩は淀みなく言い切った。
横を通る男たちの、好奇の目から真白を庇うように立ち、斑鳩は続ける。
「…荒太様とお会いし辛いのであれば、拙宅にお連れします」
「斑鳩――――――」
「出過ぎた真似をするな、斑鳩」
ピシャリと鋭く女性たちの会話に割って入ったのは、荒太の声だった。
斑鳩は怯む表情を見せたが、すぐに立ち位置を譲ろうとはしなかった。
藍色の半袖シャツにジーンズというシンプルな格好をした夫は、肩で息をしながら真白たちを見ていた。真白を捜し回ったあとであることが見て取れた。
彼の目には斑鳩や真白への怒りより、真白を強く案じる色があった。
大勢の人々が行き交う雑踏の中で、荒太の姿だけが眩しく浮き上がって見える。
(荒太君。逢いたかった。逢いたくなかった。―――――逢いたかった)
真白を追って来たのは太陽ではなく、風だった。
猛る風だった。
そうなるであろうことは、始めから解っていた。
真白は無意識に手を伸ばしていた。腕時計の楕円ケースがきらりと光る。
白く細く、伸びた腕を荒太が掴む。
まだ速く脈打っている胸に身を預け、真白は気を失った。