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光と水の語り草  作者: 九藤 朋
10/17


 読経の音を聴きながら、荒太の胸にもたれ眠り込んでいた真白は、ハッと目を覚ました。

「…………何てこと。…水臣…」

「――――真白さん?」

 額に手を当て呻いた妻に、荒太が声をかける。

 そろそろ夜明けになるが、読経はまだ続いている。

 しかし、禅僧たちが守らんとする存在は、既に現世にはいない。そのことを真白は知ってしまった。白い面に焦燥が浮かぶ。

「荒太君。この村、タクシーはあるかしら」

「タクシー会社は無いから、最寄の町から宿に呼ぶ必要がある」

「それでは時間がかかるわ………」

 白妙の間にいた人間は、体調を崩していた真白以外、皆、徹夜して『大般若経』転読の様子を窺っていた。一晩中、耿耿(こうこう)とした明かりに照らされながら状況を静観していたのだ。

 剣護が妹の異変に気付き助言する。

「真白。タクシーは無いが、すぐ近くに乗馬クラブはあるぞ。観光客相手に乗馬体験とかやってるとこが」

「荒太君、お願いが」

「うん、何?」

「大至急、馬を飛ばしてちょうだい」

「…体調は?」

「熱は下がったわ。お願い」

 荒太は真白の目を見て、彼女の額に手を当てた。確かに熱は下がったようだ。だが、まだ真白の体調は万全ではない。今の状態で馬に乗せて疾走すればどうなるか――――――――。しかし真白は荒太に切望している。荒太は一度、瞑目した。断っても真白は恐らく自力で馬を飛ばす。この部屋にいる人間の中で最も騎馬の巧者であるのは荒太だが、真白とて馬を乗りこなすことは出来る。それならば自分も同行したほうがまだましだ。

(俺は真白さんには勝てないんだ)

 優しい目で荒太は妻の頼みを請け負った。

「良いよ。冷えないように上着をちゃんと着て。大体見当つくけど、行き先は?」

「流光寺」


 乗馬クラブの人間は、早朝、いきなり押しかけた若い男女に目を丸くした。

 男のほうが厩舎の中を一瞥して、クラブの中で最も駿足の馬を迷うことなく指差し、これを借り受けたいと言い出した時にはもっと驚いた。

 しかし最も驚かされたのは、その男の乗馬技術だった。男は馬に軽く声をかけると、その背に女性を貴人に対するような丁重さで乗せ、自分はその後ろにひらりと飛び乗った。それから勝手知ったる様子で手綱をさばき、短い掛け声と共にこれを全力で走らせた。初めて乗る馬を全力疾走させる技術を彼は有していた。早起きの人間が多い村ではその日、馬に乗って村内を駆け抜ける男女の姿が目撃されて、その後しばらく話題になった。


 荒太は真白の身を包み守るように馬に跨っていた。位置関係を考えれば疾駆ゆえの前方から吹く強風に真白を晒すことになるが、これを馬の頭と自分の体温で挟んだほうが上策と彼は考えた。妻の身を懐に抱くようにして、荒太は手綱を繰った。自分の我が儘に応じてくれる荒太に申し訳なく、真白はつい口を開いた。

「荒太君―――――」

 一心に馬を駆けさせていた夫が、叱るように叫ぶ。

「喋るな、舌を噛む!」

 びゅうびゅうと過ぎてゆく風の中。

「ごめんなさい」

 小さな声が耳をかすめたが、荒太に返事をする余裕は無かった。

 だから心の中で真白に答えた。

(良いんだ)


 誠は怒りで我を忘れそうになっていた。流光寺における禅僧たちの読経は、花守たちの耳にも届いていた。その霊験のあらたかなことに、密を守る祈祷の鉄壁であることに彼らは感心し、安堵していた。肝心の理の姫・密の神気が、忽然と消える時点に至るまでは―――――――――。

 密自身が、守りの場より逃げ出すことを望まざるを得ない状況。その状況を作り出したのが誰であるのか、花守で察しがつかない者はいなかった。その元凶の主の前に最も早く姿を現したのは、不測の事態に備えて流光寺境内に待機していた黒臣・吾妻誠だった。

 彼が持つ黒い鞭は、今にも渓を打とうと構えられていた。

「―――――お前は、自分の仕出かしたことが解っているのか」

 低い声は憤怒の念に震えている。

 渓は答えず、無表情で座していた。しかしその表情は静かな湖面と言うよりは、凍れる湖のようだった。

 誠の後ろから、声がかかる。

「退け、そこの」

 振り向くと、銀髪の少年が鬼気迫る表情で立っていた。息は荒く、輝く銀色の髪は乱れ、上質な衣服のあちこちにはかぎ裂きがある。彼は今、『大般若経』の囲いを強行突破して来たのだ。

「…天之御中主か」

「いかにも。密は私が保護している。私は彼女を追い詰め、傷つけ、泣かせた男を殴りに来たのだ」

 これには誠も、進んで道を開けたい気分になった。

 あれ程警戒していた銀髪の少年より、今は渓をこそ、打ち据えたかった。

 その時、天之御中主とは別に、大きな神気の気配を感じた。

 静かな声が響いた。たおやかな女性の声が、凛として至高神に命じる。

「道を開けなさい」

「誰に向かって物を―――――」

 天之御中主の声が途切れる。銀色の瞳孔が見開かれる。誠も驚いたが、素早く得心した表情になると天之御中主が動くより先に、渓から離れた。

「道を開けなさい、天之御中主」

 真白は再び命じた。

「………雪の、御方様か…。庇われるのか、この男を?あなたの妹君に、狼藉を働こうとした輩だぞ」

「知ってる。だから来たの」

 天之御中主が口を噤んで道を譲ると、真白は渓の目前まで歩みを進め、止まった。

 乾いた音が一つ、室内に響く。

 部屋の入口から妻の様子を見守っていた荒太は目を見張った。

 渓の頬を打った白い手を掲げたまま、真白は怒声を発した。

「何をしているの、あなたは。――――――何をしているのよっ!!」

 渓は変わらず無表情で、一言も、誰にも何も言い返さなかった。


 現世で起きている騒動は知らず、密は宇宙の中で悄然としていた。

「…………」

 先程から、泣いてはやめ、また泣く、という行為を繰り返していた。

 天之御中主の言葉通り、星々の美しさは、その輝きは、ささくれ立った密の心を慰めた。

(待ってくれると思ったのに、渓は乱暴にことを進めようとした。どうして?何が彼をそんなに焦らせるの?それとも、待たせている私のほうが非常識なのかしら。思い遣りが無くて、薄情なのかしら。――――――――渓はあのあとどうしただろう。今頃、途方に暮れているかもしれない。………もう少し気持ちが落ち着いたら、仲直りしに戻ろう)

 思いを巡らせる密に、声がかけられる。

「姫様」

 声のしたほうに顔を向けると、銀灰色の羽織袴に身を包んだ老人が、逆さまになって宙に浮いていた。

「あのう、おじいさん」

「どうぞ、爺とお呼びください」

「…あのね?あなたはどうして逆さまに浮いてるの?」

 密の指摘を受けて、老人はやっとその事実に気付いたようだ。

 クルリ、と身体を上下逆にする。

「やや、これは失礼をば、致しました。何せここは神界の最奥とも呼べる場所ゆえ、存在の在り方に確たる規定も無く、たまにこのような失敗を仕出かしてしまうのでございます。わたくしとしたことが、初めて光の姫様の御前に出ますゆえ緊張してしまったようです。お恥ずかしや」

「……あなたは、銀の?」

「忠実なる臣下でございます、光の姫様。何か、不足はございませぬか?わたくしめは主人より、あなた様のお相手を命じられておりまする。何でも要り様な物はすぐにご用意致します。喉は、乾いておられませぬか?」

 密は考える。かなり泣いたので、喉は乾いている。しかし黄泉戸喫(よもつへぐい)と言う言葉を思い出したのだ。異界の物を口にすると、元いた世界には戻れなくなるという神話は多い。

 古事記然り、ギリシャ神話然り。

「乾いてるけど、あの……」

「ご案じなさいますな。ここで何を口にしたところで、現世に戻れぬということにはなりませぬ。そのようなちゃちな引っかけは、若が厭われるものでございますれば」

 老人の枯れ枝のような手がその身体の前を弧を描くように動くと、色とりどりの飲み物がグラスに入ってズラリと並び、半円を成した。

「わあ、綺麗」

「蜜柑ジュース、林檎ジュース、葡萄ジュース、桃のジュース、他あらゆる果物の果汁の美味なるを揃えております。姫様は未成年でおられまするゆえ、酒の類は控えましてございます。お好きなものをお召し上がりください」

 密はそろそろとグラスに近付くと、鮮やかな色彩に見入った。

 だが。

「―――――水は、無いのかしら?」

「お待ちを。どうぞ、清らかなる甘美の水でございます」

 老人が、手品のように掌の上からグラスを取り出した。

 透明な水。不純物の無い清水。

 密はそれを受け取り、一口飲んだ。なぜだかまた、少し涙が滲んだ。ほんのひと時離れただけで、もう渓が恋しい。迎えに来て欲しいなどという甘いことを考えてしまう。水の流れる響きで謝罪されれば、彼の全ては許してしまえる。

「姫様は、水がお好きでおられまするか」

「うん。…水が、好きなの。大好きなのよ」

 銀灰色が首を傾げる。

「嘆きの種ではございませぬのか?」

 密は困ったように笑った。

「私の水は、嘆きより、もっとたくさんの幸せをくれるから。だから、どうしても離れられないの」

「…左様でございますか」

 老人の羽織の袖が何やらモゾモゾ動いたかと思うと、白い兎が三羽、そこからピョンと飛び出した。

 兎たちは密の足元に、甘えるように駆けて来た。

「可愛い!すごいわ、おじいさん。魔法使いみたい」

 兎の一羽を抱いた密が、笑顔になる。

 それを見た老人の目元が和む。

「恐縮でございます、姫様」



 密が兎を抱いてその背中を撫でていると、天之御中主が現れた。

 和製ローブのような尊い衣はいつもより着崩れて、銀髪も乱れている。

 彼は無念そうな表情だった。

 天之御中主は初めて会ったころに比べて、時が経つにつれ表情が豊かに、人間らしくなっているように密の目には映っていた。

「…どうしたの、銀?」

「――――――君を泣かせた男を殴ってやろうと思ったのだが。先んじられてしまった」

「……誰かが渓を殴ったの?」

「殴ると言うか。頬を叩いただけだ。生温い。君同様、君の姉上はお優しい。僕から言わせれば甘くていらっしゃる」

「姉上様が――――――あの。もしかして、皆、渓を怒ってる?すごく?」

 天之御中主が憤然と答える。

「当然だろう。君を僕から守る祈祷の最中に襲い、他でもない僕のもとに来させたのだぞ?莫迦げた話だ。とんだ愚行だ。密。さすがの君にだって、水臣の弁護の仕様が無いだろう」

「私は、渓が謝ってくれれば許せるわ、平気よ」

 銀髪の青年は信じ難い、と言う顔をした。

「そしてまた、あの獣を傍に置くのか?君は莫迦だ」

「……そうかも」

 天之御中主は悔しそうに言う。

「―――――…そんな君を愛した、僕も大概、莫迦なんだろう」

 密が柔らかく微笑んだ。

 銀色の青年は少女の笑顔に驚き、目が惹きつけられた。

(…初めて笑いかけてくれた。密が。僕に)

 それだけのことで、胸が華やぐように嬉しい。

 宇宙に突然、大輪の花々が咲き乱れたので、密はびっくりした。

 星とはまた異なる鮮やかな、瑞々しい色彩。鼻をくすぐる芳香。

「え、ええ?何これ?」

「あ、しまった、ごめん、すぐに戻す」

 天之御中主が赤面して頭を掻いた。

 宇宙の景色・ヴィジョンが、至高神の心を反映して変化したのだ。

「…戻すの?」

 腕に兎を抱いたまま、密が尋ねる。

「…密はこのままのほうが良いのか?」

「うん。私、星も好きだけど、お花のほうがもっと好きなの」

「―――――――じゃあ当分はこれで良い。たまには模様替えも悪くない」

 人間のような物言いに、密はまた笑った。

 花々は一層香り高く、美しく咲き誇った。兎が密の腕から飛び出して、花園の向こうに駆けて行く。光の少女が笑うたび、花園は豪勢なものになる。現世における春夏秋冬、場所を問わず見目の良い花、芳しい花が密たちの周囲を満たしていく。それは天之御中主の幸福を反映していた。

「銀、ありがとう。私はそろそろ戻るね」

「送ろう。名残惜しいが――――――……」

 言いかけた天之御中主の言葉が途切れる。

 ふと眉を寄せ、密を見て問いかけた。

「密。もしかして君、ここで何か飲むか食べるかしたか?」

 密は無邪気に頷く。

「お水をいただいたわ。銀灰色のおじいさんから。銀、お礼を伝えておいてくれる?」

「………それには及ばない。爺よ」

 天之御中主の顔は険しいものになっていた。

 密と天之御中主の眼前に、平伏する銀灰色があった。

「釈明致せ」

「申し訳ございませぬ、若、光の姫様。爺めは偽りを申し上げました」

「どういうこと?おじいさん―――――、ちゃちな引っかけは、銀は嫌いだって」

「無論、若は至高の君にてその通りでございます。全てはこの、爺一人の企みにてございますれば。光の姫様は実に心清らかな麗しの姫君。爺は是非とも、姫様に若の伴侶となっていただきたかったのです」

 忠実なる老人が、主人である天之御中主の意向に初めて背き、嘘と言う毒を用いたのだ。

 密の顔が青ざめた。

「私、帰れないの?帰れなくなっちゃったの?」

「落ち着いて、密。他には何を口にした?」

「水だけよ」

 天之御中主が息を吐く。

「ならば良い。それならばまだ、ここに少しの間、滞在するだけですむ」

「――――――少しの間って?」

「現世では百年くらいのものだ。…あ、そうか。人は寿命が短かったな。ええと」

 密は目眩がするような思いだった。

(百年、百年ですって?それじゃあもう渓に会えないじゃない)

 少女の目にみるみる満ちる水を見て、至高神は慌てた。

「泣かないで、密。何とか手立てを考えてみるから」



 流光寺の土蔵に渓は手荒く放り込まれた。土蔵の中には古文書や刀、槍などの武具、掛け軸に壺や香炉などの骨董品に加え、多様な仏具が収納され、壊れて使えなくなった掃除機などの家電製品も放置されている。

 流光寺住職は厳めしい顔で息子に告げた。

「ここで自分のしたことを良く考えろ。私は、要請に応じて来てくれたまっちゃんたちにも、私たちを信頼して身を寄せてくれたみっちゃんにも、会わせる顔がない。このままみっちゃんが戻らなければ、お前とは親子の縁を切る」

 渓はずっと、誰の非難に対しても沈黙を貫いていた。

 この時も例外ではなく、無表情に父親の声を聴いていた。

 眉間に皺を寄せ苦渋の面持ちで、父は息子を見下ろした。

「――――なぜあの子をもっと待ってやれなかった?愛すればこそ、男には待たねばならん時がある。お前は自然と花がほころぶのを、優しく見守るべきだった。十年や二十年の話ではあるまいに。今回の事態は全て、みっちゃんを慮れなかったお前が招いたことだ。……こうも愚かな息子だとは思わなかったぞ」

 失望の声と共に土蔵の扉は重々しい音を立てて閉ざされ、外からは鍵がかけられた。

 朝の明るい光が、土蔵の高い位置にある窓から細く差し込む。

 湿り気を帯びた、黴臭い土蔵の床に渓はうずくまった。


 

 民宿『神の憩い』の白妙の間で、剣護は口を開いた。

「水臣さ。莫迦じゃねえの?」

 完全に投げた口調だった。

 手にはガラスの盃。青と緑の色がゆらりと立つ模様がある。途中から顔に、何なんだこの茶番は、と表記した剣護は冷酒を飲み出していた。初め、彼は白い盃を宿の従業員に頼もうとしたのだが、真白を連れて戻った荒太が冷酒はガラスの酒器で飲まなければ美学に反するとうるさく喚き、渋々、ガラスの盃を借り受けた。俺は白い盃が好きなのに、とぶつぶつこぼす剣護を荒太は油断ならない者を見る目で斜視した。

 剣護の発言に、いつもなら兄を窘めることの多い怜も、渓を擁護はしなかった。

 秀麗な顔に憂いが浮かぶ。

「否定し辛いのが苦しい。ロミオも賢明な若者ではなかったけれど」

「若さゆえの過ち?お蔭で坊さんたちの努力も水の泡じゃん。どう思うよ、荒太」

 荒太も白けた顔をしていた。目には冷ややかな怒りがある。久しぶりに馬を走らせた疲労も少々あるが、それは大した問題ではない。渓の愚挙の為に、真白の身体に負担がかかる羽目になってしまったことが業腹だった。

「なんで俺に振るんですか。単に水臣が誰にも庇いようの無い、ド阿呆やったいうことですやろ。底抜けの阿呆。ああ、豆腐屋の前なんか通るんやなかった。このまま理の姫がほんまに戻らんかったら――――――――」

 そこで荒太は言葉を切って、眠る真白の顔を見る。

 病み上がりに、早朝の冷たい空気に身を晒しながら駆ける馬に乗ったのだ。

 再び体調を崩して、今は薬を飲み眠っている。

「真白さんが悲しむやろな……」

「ふざけた話だ」

 剣護が酒を呷りながら渋面になり、怜もまた、形の良い眉を顰めた。



 その日は日曜だった為、流光寺境内に集まった誠も若菜子もエリザベスも、皆私服だった。

 定行は出勤する時よりもくだけた服装で来ていた。

 渓の閉じ込められた土蔵の前で、花守たちは沈黙していた。傍らには大きな楠の大樹がある。薫風が揺らす緑の葉擦れは和やかで、花守の心持ちとは正反対だった。

「今日も良い天気ね。もういっそ、殺してやりたい…」

 ふわふわとした髪の内側、両手で頬杖を突き前後の文章の繋がりが見えない物騒な呟きを落としたのは、しゃがみ込んでいる若菜子だった。誰をかは、言わずと知れている。

「発言に気をつけろ。仮にも我らは花守。神の眷属だ。我らのみだりな発言は、姫様を貶めることにも繋がる。とは言え、木臣の気持ちはとても良く解る」

 楠に寄りかかるようにして立ち、腕組みをしたエリザベスが怒りを堪える顔つきで言ってのけた。碧眼の奥は薄い青にも増して、炎が燃えるようだ。

「姫様が嘆かれるよ。木臣」

 長い年月によって苔むした、石碑らしき岩の上に両手を突いて座り、揃えた両足を前方の地面に放り出した定行が物柔らかな口調で言う。大人びた声音と物言いに反して、石碑に堂々と腰掛ける彼の行為は常識を無視した子供の仕草に等しかったが、この場でそれを咎め立てする者はいなかった。また、定行の言の裏には、密が嘆かなければそういう手もありだと言う穏やかでない意図があった。詰る所、彼も若菜子に心底では同調していた。若菜子がちら、と赤い髪の同胞を見る。

「―――――解ってるわ。言ってみただけよ、明臣」

「天之御中主は、姫様を保護していると言った。姫様の意思を尊重する口振りからして、姫様さえ現世に戻ることを望まれれば、日常は戻る。水臣の処遇はその後に決めれば良いだろう」

 何に寄りかかることもなくすっくと立つ誠に、若菜子が投げた視線は皮肉な色を帯びていた。おっとりとした外見に反し、花守における彼女の過激さと攻撃性は渓と競い合えるものがある。

「随分とお優しいのね、黒臣?姫様はきっと私たちに、水臣を許せと仰るわ。そしてまたあの狼は自由の身。私はそれが我慢ならないのよ。……けど、ものすごく悔しいけど、みっちゃんが泣くよりはそのほうがずうっとましだわ。本当に腹立たしい男!」

「…姫様は今頃、どうしておられるだろうか。きっと御心を傷めておいでだろう」

 エリザベスの案じる言葉に、定行が返す。

「天之御中主がよろしくフォローしてくれれば良いけどね。弱った姫様につけこもうとか、考えられると困るなあ。涙に優しさの仮面を処方すれば格好の惚れ薬になる」

 誠が空を旋回している鳶に目を遣り、少し考える風に口を開いた。

「―――――――そういう心配は要らんようだ。奴は、姫様を傷つけた水臣に心底憤っていた。演技ではなく。『大般若経』を振り切って、自分の痛みも顧みない勢いで水臣を殴ろうとしていた。……俺は少し、見直した。天之御中主の評価があれで多少変化した」

 誠の言葉に、定行がふうん?と首をひねる。真っ直ぐに突き出している脚を緩く組む。

「至高神の初恋って奴かな?姫様を大事にする相手なら、僕は縁組に賛成しないこともないけど」

 若菜子が深い溜息を吐く。

「解ってらっしゃらないわね。水臣よりもましな人格なんて、そこらじゅうにゴロゴロ転がってるわよ、収穫されたじゃがいもみたいに。この村の老若男女、ほとんどがそうなんじゃなくて?でも姫様は、相手がどんなに立派な人格者でも、優しさを覚えた至高神でも、ダメなのよ。水臣が相手でなければ、姫様は真に幸福にはなれないの。私たちは嫌と言う程、それを知っているでしょう?」

 そこで花守たちは揃って、件の人物が収容された土蔵を見つめた。

 ここに琥珀色の髪の少女がいれば、彼女は土蔵の扉に駆け寄って、小さな手で重厚な鍵をこじ開けようとするだろう。手を傷めて爪に血が滲んでも必死になって、ひんやりした鉄の塊に挑むだろう。そして自分ではどうしてもそれを開けるのが難しいと解れば、花守たちを振り向き乞うのだ。

 お願い、渓を助けてちょうだい、と。


 荒太は視線を感じて斜め下を見た。

 真白が焦げ茶色の目を開けてこちらを見上げている。

「…真白さん。大丈夫?気分は?」

 彼女が身を起こすのを手伝いながら尋ねる。

「うん、だいぶ良い。荒太君、光が帰れなくなっちゃってるわ―――――――」

「天之御中主のところから?囚われてるとか?」

 真白が首を横に振る。

「あちらのお水を飲んじゃったみたい」

 怜が俯いて思慮深い声を出す。

「黄泉戸喫か」

「へえ、帰れんの?」 

 剣護の言葉に真白が答える。

 託宣を受けた巫女のように、真白はこの世ならざる神界の様相を語った。

「天之御中主が今、何とかしようとしてる。…彼、本当に光のことが好きなのね」

「至高神でもどうにもならんのか」

「もちろん無理を通すことは出来るでしょうけど。仮にも立場が立場だから。私が出向くしかないかも。でも、すぐに行くつもりはないわ」

 剣護が頭を横に倒す。

「何で?ああ、体力がまだ追いつかんのなら、無茶はやめとけ」

「いえ、水臣よ。彼が変わらなければ、また同じようなことは繰り返されるわ」

 荒太が妻に尋ねる。

「改心するのを待つってこと?」

「うん……まあ、そんなとこ。でも、勝率の低い賭けかも。海の水が塩辛くならなくなるまで待つような」

 剣護が妹の例えに笑った。

「真水になるまで待つってか?あいつもまた、大した信用されてんな」



 琥珀の髪が、緩やかな風に靡く。

 花びらのひとひら、ふたひらを、憂いを含んだ眼差しが追う。

 白い布に、淡い金の揺らめく衣を纏って、密は花園に佇んでいた。


 今宵、一夜の 夢を 恋人よ。


 あの時、自分が渓を受け容れていれば、こんなことにはならなかっただろうか。

 この花園は豪華絢爛だが、渓が用意してくれた笹百合の一輪には敵わない。

 渓は怒っていた。水臣は怒っていた。

 与えない密に苛立ち、憤っていた。

(私が悪いのかしら。愛していると言いながら、まだ愛し合うことは出来ないと拒む)

 口先だけで愛を囁かれていると思い、生殺しの状態で、渓はそんなに苦しかったのだろうか。

 待ちくたびれて、密に牙を剥く程。

(渓はきっと今、孤立無援だわ。私以外では、彼を助けてあげられない。助けようとはしてくれない。多分、花守たちにもすごく怒られてる筈だもの)

 その為にも早く、現世に戻る必要がある。

 考えに沈む密の容姿は、神界に在ることで幾つか年を重ねたものに変化していた。

 辛うじて、少女の片鱗を残し。彼女は現在、ほぼ女神の在り様だった。

 天之御中主は少し離れた場所から、眩しいものを見る目で密を見ていた。

(密は帰りたいのだろうな…。けれど僕は、見れば見る程、知れば知る程、密を帰したくないと思ってしまう。だがそれでは、真実の愛とやらではないのだろう)

 真実の愛。

 天之御中主は嘗て、それを醒めた眼差しで見ていた。銀色に冷え切った双眸で。

 そんなものに価値を見出すのは卑小な愚者だけであると。

 密が銀髪の青年に気付き、微かに笑う。

 花々のかぐわしさが増す。濃く、深く、甘く。

 密の近くに歩み寄り、天之御中主は訊く。

「密…。髪に、触れてはいけないだろうか?」

 密は拒否しようとしたが、青年の懇願する眼差しに胸が痛んだ。それでも声を出す。

「…ダ、ダメ」

 髪に触れて良いのは、手で梳いて良いのは、渓だけだ。

 けれどその渓は――――――――。渓は。

(どうして?)

 考えはまたそこに戻る。

「……良いわ」

 密は泣きそうな顔で許可した。

 天之御中主は壊れ物を扱う慎重さで、琥珀色の髪の、細い一房を掬った。

 得難い宝であるかのようにしばらくそれをじっと見ると、手を放した。

 次は許可を求められなかった。密は柔らかく、包み込むような青年の腕の中にいた。

「銀――――――、」

 琥珀色に銀色が被さる。少女の甘く優しい香りに、天之御中主は目を細めた。

「神界は頭が固い。黄泉戸喫をした君を現世に帰すことに渋っている。律に反すると言って。この際だから君に、このまま摂理の壁を見張る任に戻らせろと言い出す輩までいる。だが密がどうしても帰りたければ、僕は律を曲げてでも君を帰そうと思う」

 その行為は、至高神の立場と体面を傷つける。それは密にも解った。

 プライドの高い天之御中主が、犠牲を払ってでも密の望みを叶えようと考えているのだ。

「……ずるいわ、銀」

 こんな時に、無償の優しさを見せるのは。

 何か無茶な交換条件でもつけて、悪役になってくれたほうがまだ良い。

 そうであれば憎める。嫌な相手だと思うだけですませることが出来るのに。

「どうして?なぜ泣くのだ、密?僕が君を泣かせたのか?」

 密は本気で狼狽えている銀色の青年の胸に顔を押し付けて泣いた。

 嗚咽の合間、途切れ途切れに言う。

「私はあなたが嫌いよ…」

「…うん」

「本当よ」

「構わない」

「大嫌いだわ」

「……そこまで言われるときついな」

 愛情を知って間も無い天之御中主に、自分の声が苦く優しい響きである自覚は無い。

 青年を罵りながら白にたゆたう淡い銀に顔を埋めて、密は涙を落とした。

 渓がこれを知ればきっと傷つく、と思いながら。

 


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