見えざる影と出会い
夜の帳も降り、いつもなら静寂に包まれている頃、今日の此の土の道は幾千もの足音や金属が触れ合う音で溢れ返っている。時々馬の嘶く声も聞こえてくる。
今まさに、白薔薇を記章とする勇敢な兵士達が敵地へ赴くところであった。彼らは万事順調に歩みを進めていた。
ところが、誰かがその予兆を捉えたか否か、突然最前列にいた兵士数名が一斉に倒れた。
「何だ?」
兵士達は立ち止まって口々に呟く。ある者は防具を鳴らして震え、またある者は武器を構えた。辺りを見回しても、敵らしき存在は確認できない。統率などまるで無くなってしまっていた。
「ええい、静まれ。倒れた者の救護は?」
長らしき、一際頑丈そうな鎧を着ている大男が尋ねる。
「早急に救護隊が向かいましたが、外傷は殆ど無いそうです」
側近らしき人物が即座に答える。
「敵の術中に嵌まってどうする。歩みを止めるな。使者は第二隊にこの事を知らせておけ」
大男は怒鳴った。
「既に行かせております」
「そうか。ならば進め」
最後の言葉は全体に向けて発せられたものだった。士気は下がったが損傷は無く、ペースを僅かに落として進軍を再開した。
程無くして、第一隊の数マイル後ろを歩んでいた第二隊のもとに使者が到着した。
「第一隊の兵士数名が、一ヤードほど先で正体不明の敵に襲われました。ですが幸いにも負傷者はおりません。第二隊もお気をつけください」
「そうか。敵はランカスター家かどうかは分からんのか?」
「それどころか、敵の姿すら誰も確認できておりません」
「弓矢では無いのだな」
「襲われた兵士の一人が、撲られたようだと言っていたので恐らく違うかと」
「了解した。こちらは厳戒体勢の上で進むようにする。下がってよいぞ」
使者は短く返事をすると、そのまま第二隊の後方に付いた。無事に通り抜けられたか報告するのだろう。
「ここからは手持ちの武器の者は皆構えていけ。動くものがあったなら、例え小動物だろうと攻撃してよろしい」
すぐさま、あちこちから様々な武器を構える音が聞こえてきた。長身の武器は後方にあるため無いが、敵の人数がそう多くないであろうから弩と斧だけでも十分だろう、と第二隊の司令塔は考えていた。
通常よりも大分遅れたペースで問題の場所へとやってきたが、人の気配などまるで感じられない。
このまま何事もなければ良いのだがと願った時だった。側道の左の脇に生えている雑草が踏まれる音が微かにした。気付けた兵士はすぐさま攻撃を開始するが、射止めたような音はしない。ただ弦がしなる音と、矢が空を切る音が立て続けに聞こえるだけだ。
いつの間にか左側最前列の兵士が地面に仰向けに倒されていた。長の合図で攻撃を止めて暫く経っても襲ってこないので、逃げられたかと思っていた。
ところが、背の高い木の幹から影が見えたかと思うと、次には木の側にいた兵士数人が倒れている。
第一隊の時と同じく、第二隊もパニックに陥った。後方に逃げまとう兵士達が大半で、中には固まって動けない兵士や、やたらと攻撃を繰り返す兵士もいた。司令塔も、どう命令を下すべきか決めあぐねている。
混乱は意外な形で収まることになる。弩を手当たり次第打っていた一人の兵士の矢が、運良く目の前の黒い影を掠めたのだ。影は「うぅぅ」と唸り声をあげて苦しんでいる。その声で、狂っていた兵士達は動きを止め、音のする方を見た。
影は左肩を押さえながら立ち上がり、兵士達の方を睨んでいる。それを見て、兵士達はすぐさま攻撃体勢に入る。
しかしどういうことだろうか、確かに居たはずの人影が、身動きせず忽然と姿を消したのだ。兵士達は敵を見失ったため慌てた。
やっと司令塔が命令を下したので、その場はひとまず落ち着いた。被害を確認してみると、打撲した兵士が二人居るだけで大した怪我では無く、矢も合計で三十本程消費しただけだった。
そして第二隊も再び前進し始めた。
第三隊に被害はなかった。
****************************
ナビリは夜にしか咲かないという花を摘みに、村のはずれに来ていた。群生地は家からは遠いが、数も多く見付けにくい花では無かったので、完全に真っ暗になる前には帰れるだろうと思っていた。それに、図鑑で見て家に飾りたいと思っただけなので今日採れなくても構わなかった。
山の、岩肌の露出している所まで来た。岩の間に生えているそうなので、幾つか小さな岩をどかして探していた。
ところが真っ先にナビリが見つけたのは、花などでは無かった。
石の踏まれる音が少し上方から聞こえてきた。探す手を止めて上を向くと、黒いマントを着た人がうずくまっている。
ナビリは、先程まで誰もいなかった筈なのに、と首を傾げながら近づいてみることにした。
近寄ってみると、その人のマントは左肩の部分が破れていて、血も出ている。
「怪我してるの?」
声を掛けてみると、その人は首だけこちらを向いた。ナビリに気付いたのか、その目は驚きで大きく開かれた。
「……この程度の怪我など、放っておけばいずれ治る」
結構痛がっていたようなのに、とナビリは心配に思った。
「薬草とか持って無いなら、私が治癒を……」
「我輩に構わんでよい。それよりここはどこなのだ?兵士どもはどこへ?」
「どこって村のはずれだけど。兵士さんなんていないよ。あっ、あなたは旅人?」
この村では見慣れない服を着ている。それに、口調も独特だとナビリは思った。黒い人は考え込んでから答えた。
「旅人か……。恐らく間違ってはおらんな」
「そっか、ここ田舎だから知らないのかな。"ナダネス村"って言うんだよ」
「聞いたこともないぞ。どこの国だ?イングランドでは無さそうだが」
「国じゃないよ、ナダネス村。いんぐらんど? 私もそこは聞いたことない。お兄さんはそこから来たの?」
「はは、我輩がお兄さんか」
機嫌を悪くしたのかと思い、ナビリは慌てた。見かけは十八歳くらいに見えたからお兄さんと呼んだのだ。
「お兄さんで構わんぞ。ただ可笑しかっただけで。そうだな、我輩はほんの少々前までイングランドに居たはずだった」
「じゃあお兄さん上級移動魔法とか使えるの?強いんだね」
「我輩は自分の意思でここに来てしまった訳ではないぞ。それとなんだ?メーナランとは」
「魔法だよ、移動魔法。使えるんでしょ」
見せてもらえると思って、ナビリは目を輝かせて期待した。
「いやいや、我輩がいかに強かろうが、流石に魔法は不可能だ」
「ふーん、お兄さんは使えないんだ。私、魔法使えるもんね。そうだ、ちょっと待ってて。肩の怪我、治してあげる」
ナビリは花のことなどすっかり忘れて、家に急いだ。もうすっかり日も暮れている。けれど、母親が心配しているかもしれないとは考えていなかったようだ。
家に着くと、魔法が書かれている分厚い本を棚から取ると、母親の声も聞かずに飛び出した。もしかすると黒い人が消えてしまうと焦っていたのかもしれない。本を小脇に抱えて走っていった。
「良かった。待っててくれたんだ」
息を切らせながら着いた先程の場所には、黒い人が全く同じ位置で座っていた。
「下手に動いて騒がれたら面倒な事になるかもしれんからな。それで、その本に例の魔法が書かれているのか」
「そうだよ。じゃあ掛けるよ。えっと」
『ケルン』
ナビリが文字をなぞりながら唱えると、男の肩の傷口が小さくなった。
「おお、これが魔法とやらの力なのか」
「まだこれしか使えないんだけどね。もっと凄い魔法が使えたら全部治してあげられるんだけど」
「充分だ、ありがとう。しかし、世界広しと言うが、こんな文明もあったのだな」
「そんなに魔法って珍しいものかな。おばあちゃんは少なくとも二百年前からはみんな使ってたって言ってたけど」
ナビリは首を傾げながら言う。魔法は頻繁に使うものでは無いにせよ、当たり前のものだったからだ。
「ふむ、二百年前と言うと……西暦で千二百年くらいか。不思議な……」
「ちょっと! 千二百年って相当な未来じゃない」
ナビリには、千年がどれ程の長さなのか、今一掴めないでいた。お金でさえ百を越すことすら殆ど無いのだから。
「では今は何年だと言うのだ?」
「ナミト暦二百六十三年だけど。お兄さん未来から来たの?」
「いや、どうか分からんな。暦が違うようだ」
「うーん」
ナビリにはさっぱり理解出来なかった。
「考えても分からんな。さて、これほどまで夜も更けたが、帰らんで良いのかね。子供が出歩くには危険な時間だと思うが」
「しまった。お母さん怒ってるかな」
「先程伝えなかったのか、では急いだ方が良かろう。ただ一つ、約束して欲しいことがある」
男は声のトーンを落とした。ナビリも合わせて小声で聞き返す。
「なあに?」
「我輩のことは、決して誰にも言わんで欲しいのだ。例え聞かれたとしても」
ただ、人間というものは駄目と言われると余計言いたくなる。けれど暫くはナビリも言いふらさないだろう。男が鋭い眼光でジロリとナビリを睨んでいたからだ。首を縦に振らざるを得ないような、逆らい難い恐ろしさをナビリは感じていた。
「……うん。約束する」
「よし、ではさらば」
「じゃあね。バイバイ」
「さよならが返ってくるのも久々だな。それにしても、我輩も甘いな」
そう呟いた男の声は、星明かりに照らされながら走って帰るナビリには聞こえていなかったであろう。
朝と夜の九時に投稿しようと思います。