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北天に還る舟 「The last President of the Republic of Ezo」  ~敗れた男が、北の風に再び呼ばれた(榎本武揚)~

【序 章 敗者の空】 


「敗者の空」


明治二年の春、品川沖に吹く風は、どこか潮の匂いよりも鉄の匂いが勝っていた。敗軍の将が嗅ぐべき匂いというものは、えてしてこういうものなのかと、榎本武揚はぼんやり思った。箱館戦争は終わった。蝦夷共和国は夢のまま霧散し、かつて海軍頭と呼ばれた男は、今や囚われの身である。両手を縛られた縄は粗く、皮膚を擦りむいていたが、痛みは不思議と遠かった。

「武揚さんよ、あっしらも運が尽きやしたな」傍らでつぶやいたのは、旧幕臣の若い兵である。まだ頬に幼さを残すその男は、敗北の実感に震えていた。武揚は、ゆっくりと首を振った。「運が尽きたかどうかは、まだ分からんよ。運というものは、尽きたと思ったところからまた湧いてくることもある」

「へえ、そんなもんで?」

「そんなもんだ。わしらはまだ、生きておる」

江戸言葉で軽口を叩きながらも、武揚の胸中には深い影があった。――己は、何を誤ったのか。幕府のために海軍を築き、蝦夷地に新たな国を夢見た。だが、夢は夢のまま終わった。  「国をつくる」という言葉の重さを、武揚は今さらながら噛みしめていた。

護送船の甲板に立つと、空はどこまでも青かった。敗者にとっては残酷なほど澄んだ青である。  

「武揚殿」  

声をかけたのは、旧幕府軍の参謀であった松本十郎だ。  

「これからどうなるのでしょうな」  

「さあな。だが、死罪にはなるまい」  

「根拠は?」  

「わしは運が強い」  

松本は苦笑した。  

「それは、根拠とは申せませぬな」  

「いや、これが案外、根拠になるのだよ」

武揚は、己の運命がまだ終わっていないことを、どこかで確信していた。敗者の烙印を押され、鉄の扉の向こうに閉じ込められようとも、まだ何かが自分を呼んでいる。それが何かは分からない。だが、北の空の下で見たあの広大な大地――蝦夷の風景が、武揚の胸に焼きついて離れなかった。

「武揚さん、あっしら、これからどうなるんで?」  

若い兵が震える声で問う。武揚は、空を見上げたまま答えた。  

「どうにもならんよ。だが、どうにかするのが人間だ」  

「へえ……」  

「泣くな。泣くと潮風がしょっぱくなる」  

「そりゃ、潮風はもとからしょっぱいでしょうよ」  

「そうか。では、わしの涙かもしれん」  

若い兵は、思わず吹き出した。敗者であっても、笑うことはできる。笑いがある限り、人はまだ終わらない。武揚はそう信じた。やがて船は江戸に着き、武揚は投獄される。だが、この男の運命は、まだ底を打ってはいなかった。むしろ、ここからが始まりである。北の大地が、再び彼を呼ぶ日が来るのだから。


「鉄の扉の向こう」


投獄といっても、武揚が押し込められたのは、江戸の町外れにある質素な牢であった。石造りでもなければ、地下深くに沈むような陰鬱さもない。だが、敗者にとってはどんな牢も、心を締めつけるには十分だった。

「へえ、あんたが榎本武揚ってぇお人で?」  

牢番の老人が、まるで珍しい魚でも見るような目つきで覗き込んだ。  

「そう名乗るほかあるまい」  

武揚は苦笑した。  

「いやはや、あの蝦夷の戦を仕切ったってぇから、さぞや恐ろしいお侍かと思いやしたが……ずいぶんと穏やかな顔つきで」  

「穏やかに見えるのは、疲れておるからだよ」  

「そりゃそうでしょうなあ。負け戦のあとじゃ、誰だって疲れますわい」

牢番は、どこか憎めない江戸っ子の調子で笑った。武揚は、縄で擦れた手首をさすりながら、ふと自分がまだ「人間扱い」されていることに気づく。――敗者とはいえ、まだ生きている。その事実が、妙に胸に沁みた。

牢の中は薄暗く、湿り気を帯びていた。だが、武揚はその暗がりの中で、静かに目を閉じた。思い浮かぶのは、蝦夷の空である。あの広大な大地に、もう一度立つことは叶わぬのか。  いや、叶わぬと決めつけるには早い。運命というものは、時に敗者を拾い上げることがある。  武揚は、そう信じたかった。

「武揚殿」  

隣の牢から声がした。松本十郎である。  

「どうやら、我らの処遇はまだ決まらぬようですな」  

「決まらぬうちは、生きておるということだ」  

「楽観的で」  

「悲観しても牢は広くならん」  

松本は、くぐもった笑い声を漏らした。  

「まったく、あなたという人は……。この状況で笑いを忘れぬとは」  

「笑いは、武器になる。ときに剣より強い」

武揚の言葉は、虚勢ではなかった。彼の胸の奥には、まだ消えぬ火があった。蝦夷共和国という夢は潰えたが、夢を見た男の心までは折れていない。

その夜、牢の外から、遠く江戸のざわめきが聞こえた。新政府の世になっても、町人たちの暮らしは続いている。笑い声、喧嘩の声、三味線の音。敗者の耳にも、それらは不思議と心地よく響いた。

「武揚さんよ」  

牢番が、夜食の粥を差し入れながら言った。  

「人間、どん底まで落ちたと思ったときが、案外、運の変わり目ってぇもんで」  

「ほう。牢番が運を語るか」  

「ええ、長いこと人を見てりゃ分かりますよ。あんたさん、まだ運が尽きちゃいねえ」  武揚は、思わず粥の湯気の向こうで目を細めた。  

「そうか。ならば、信じてみるかの」  

「信じなせえ。運ってのは、信じた奴にだけ微笑むもんで」

牢番の言葉は、江戸っ子の軽口にしては妙に胸に残った。運命は、まだ武揚を見捨てていない。そう思えるだけで、粥の味は少しだけ温かかった。

この夜、武揚は久しぶりに深い眠りについた。鉄の扉の向こうに、まだ見ぬ未来が待っていることを、どこかで感じながら。


「赦しの影」


投獄から数日が過ぎた。牢の中の時間は、外の世界とは別の速度で流れる。朝が来ても光は薄く、夜になっても闇は深まらない。ただ、湿った空気だけが、季節の移ろいを知らせていた。

武揚は、壁にもたれながら静かに息をついた。――人間、こうして何もできぬと、かえって頭が冴えるものだな。蝦夷での戦い、共和国の夢、仲間の顔。それらが、まるで幻灯機のように脳裏を巡る。

「武揚殿、起きておられますか」  

松本十郎の声が、隣の牢から聞こえた。  

「起きておるとも。寝てばかりでは、夢ばかり見てしまう」  

「夢を見るのは悪いことではありますまい」  

「悪くはないが、夢ばかりでは腹は膨れん」  

松本はくすりと笑った。  

「あなたは、どんなときでも現実的ですな」  

「現実を見ぬ者は、夢も見られんよ」

そんな会話をしていると、牢の外が急に騒がしくなった。足音、囁き声、そして鉄の鍵が鳴る音。武揚は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「おい、武揚さんよ」  

牢番の老人が、珍しく真面目な顔で現れた。  

「どうやら、お上からのお達しが来たようで」  

「お達しか」  

「ええ。あんたさんの処遇が決まったらしい」  

武揚は、ゆっくりと立ち上がった。  

「死罪か?」  

「そんな物騒な顔すんじゃありませんよ。江戸っ子は縁起でもねえ」  

老人は、わざとらしく肩をすくめた。  

「どうやら……赦されるらしい」  

「赦される?」  

松本が思わず声を上げた。  

「本当ですか」  

「本当も本当。お上の偉いお方が、あんたらの才を惜しんでるとかなんとか」

武揚は、しばし言葉を失った。赦される――その響きは、敗者の耳にはあまりに遠いものだった。だが、胸の奥で何かが静かに動き始める。

「武揚殿、これは……」  

松本が震える声で言う。  

「運が、まだ尽きておらぬということだ」  

武揚は、牢の天井を見上げた。そこには、薄い光が差し込んでいた。  

「運というものは、時に人を見捨てぬ。わしらは、まだ使い道があるらしい」  

「使い道、ですか」  

「そうだ。敗者にも役目がある。世の中というものは、勝者だけで回っておるわけではない」

牢番が鍵を開ける音が響いた。鉄の扉が、ゆっくりと、重々しく開く。その向こうには、まだ見ぬ未来が広がっていた。

「さあ、武揚さん。出なせえ」  

老人は、どこか誇らしげに言った。  

「運の変わり目ってやつでさあ」  

武揚は、深く一礼した。  

「恩に着る」  

「へっ、礼なんざいりませんよ。あんたさんがまた世の中で暴れてくれりゃ、それで十分で」

武揚は、牢を出た。外の空気は、驚くほど澄んでいた。敗者の身に、こんなにも清々しい風が吹くとは。――運命は、まだ終わらせてくれぬらしい。武揚は、胸の奥で静かに呟いた。


「北へ向かう影」


赦免の知らせが届いてから、武揚の周囲は急に慌ただしくなった。牢番の老人は、まるで自分の息子が出世でもしたかのように浮き立ち、松本十郎は落ち着かぬ様子で牢の中を行ったり来たりしていた。だが、当の武揚はといえば、静かに衣服の埃を払っているだけだった。

「武揚殿、ついに自由の身ですな」  

松本が声を弾ませる。  

「自由かどうかは、まだ分からんよ」  

「どういう意味で?」  

「赦されるということは、使われるということだ。わしらの才を惜しむというのは、つまり……」  

武揚は、薄く笑った。  

「働け、ということだ」  

松本は目を丸くした。  

「働く……どこで?」  

「さあな。だが、北の方角が呼んでおる気がする」

その予感は、すぐに現実となった。新政府の役人が牢に現れ、武揚に向かって恭しく頭を下げた。  

「榎本武揚殿。開拓使にて、あなたの力を必要としております」  

「開拓使……北海道か」  

「はい。蝦夷地の資源調査、海運、測量、その他もろもろ。あなたの知識と経験は、ぜひとも新政府にとって必要なのです」

武揚は、しばし沈黙した。蝦夷――敗北の地であり、夢を見た地でもある。その地に、再び立てというのか。

「武揚殿、どうなさる」  

松本が問う。武揚は、ゆっくりと息を吐いた。  

「行くさ」  

「よろしいのですか」  

「よいも悪いもない。運命というものは、時に人を引っ張る。わしは、その綱を握り返すだけだ」

役人は安堵の表情を浮かべた。  

「では、すぐに支度を。あなたには、開拓使長官・黒田清隆殿との面会が待っております」  

「黒田か……」  

武揚は、どこか苦笑した。  

「また厄介な男が相手だな」  

「厄介とは失礼な」  

松本が笑う。  

「黒田殿は、あなたを高く評価していると聞きますぞ」  

「評価されるのは結構だが、あの男は腹の底が読めん」  

「あなたも読めぬでしょうに」  

「読めぬ者同士、うまくいくかもしれん」

牢を出ると、江戸の空は高く晴れていた。武揚は、しばし立ち止まり、深く息を吸い込んだ。自由の空気は、思ったよりも重かった。敗者としての過去、蝦夷での夢、仲間の死。それらすべてを背負ったまま、再び北へ向かうのだ。

「武揚さんよ」  

牢番の老人が、名残惜しそうに声をかけた。  

「達者でな。あんたさんなら、きっとまた世の中をひっくり返すだろうよ」

武揚は、深く頭を下げた。  

「世の中はひっくり返らんよ。だが、わしの人生くらいは、もう一度ひっくり返してみせるさ」  

「へっ、そりゃあ楽しみだ」

江戸の町を抜け、北へ向かう道のりは、敗者の再出発にはふさわしいほど静かだった。  だが、武揚の胸の内には、確かな熱があった。運命は、まだ終わらせてくれぬ。むしろ、ここからが本当の始まりなのだ。

こうして、榎本武揚は再び北へ向かう。敗者ではなく、開拓者として。その歩みが、後に日本の北の大地を形づくることになるとは、この時の武揚はまだ知らなかった。


【第一章 赦免】


「黒田清隆という男」


開拓使本庁舎は、まだ新政府の匂いが濃く残っていた。木の香りと、どこか急ごしらえの埃っぽさが混じり合い、武揚は思わず鼻をひくつかせた。――ここが、わしの新しい戦場か。  牢を出てからわずか数日。敗者の烙印を押された男が、今度は新政府の役人として迎えられるのだから、世の中とはつくづく妙なものだ。

「榎本武揚殿、お待ちしておりました」  

案内役の若い役人が、緊張した面持ちで頭を下げた。  

「長官の黒田清隆殿が、お会いになりたいと」  

「黒田殿が、わしに?」  

「はい。たいへんに……熱心でして」  

若い役人は、どこか怯えたように笑った。武揚は、胸の奥で小さく息をついた。黒田清隆――薩摩の男であり、維新の功労者。その名は、武揚にとって決して軽いものではなかった。案内された部屋の扉が開くと、黒田は机に向かって書類をめくっていた。鋭い目つき、分厚い眉、そしてどこか人を試すような沈黙。武揚は、すぐに悟った。――この男、ただ者ではない。

「榎本武揚殿か」  

黒田は顔を上げ、じろりと武揚を見た。  

「蝦夷での働き、聞き及んでおる」  

「それはどうも」  

「褒めておるのではない」  

黒田は、口の端だけで笑った。  

「おぬしの才は、敵に回すには惜しいということだ」  

「敵に回した覚えはないが」  

「ふん、負け惜しみを」  

黒田の声は、どこか愉快そうだった。武揚は、江戸言葉で軽く返した。  

「へえ、薩摩のお侍さんは、ずいぶんと手厳しいことで」  

「薩摩の男は、遠回しが嫌いでな」  

黒田は机を叩いた。  

「榎本殿、単刀直入に申す。蝦夷地の開拓に、おぬしの力が必要だ」  

「必要、とな」  

「そうだ。海軍の知識、測量の経験、そして……あの地を知る者としての目だ」

武揚は、しばし沈黙した。 蝦夷――敗北の地であり、夢を見た地でもある。その地に、再び立てというのか。運命というものは、時に人を嘲笑うような巡り合わせを見せる。

「榎本殿」  

黒田が身を乗り出した。  

「おぬしは敗者だ。だが、敗者だからこそ見えるものがある」  

「ほう」  

「勝者は、勝った理由しか見ぬ。敗者は、負けた理由を探す。そこに知恵が生まれる」  

武揚は、思わず笑った。  

「黒田殿、あんたさん、案外と情が深い」

「情ではない。計算だ」  

黒田は即座に言い切った。  

「わしは、使えるものは何でも使う。たとえ昨日の敵であろうと」  

「なるほど。そりゃあ、薩摩らしい」

黒田は、ふっと目を細めた。  

「榎本殿。おぬしは、まだ終わっておらぬ」  

「……」  

「運命は、敗者を拾い上げることがある。わしは、その手伝いをしてやるだけだ」

武揚は、胸の奥で何かが静かに動くのを感じた。敗者としての誇り、蝦夷への未練、そして新たな役目。それらが、ひとつの線で結ばれていく。

「黒田殿」  

武揚は、深く頭を下げた。  

「わしを使うがよい。北の大地のためなら、働こう」  

黒田は満足げに頷いた。  

「よかろう。では、すぐに蝦夷へ向かってもらう」  

「へえ、また北へ」  

「おぬしの運命は、どうやら北にあるらしい」

武揚は、思わず笑った。――運命も宿命も、まっぴらごめんだ。 だが、呼ばれるなら応えねばなるまい。北の空の下で、まだやるべきことがあるのだから。


「北へ渡る船の上で」


蝦夷へ向かう船は、かつて武揚が率いた旧幕府艦隊のそれとは比べものにならぬほど小さく、そして頼りなかった。だが、武揚は甲板に立ち、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。  ――この匂いだ。敗者として江戸に戻ったときも、蝦夷で夢を見たときも、いつもこの潮の匂いがあった。

「武揚殿、寒くはありませんか」  

松本十郎が、肩に羽織をかけてくれた。  

「寒いのは慣れとる。蝦夷の冬に比べれば、これしきの風は春の息吹よ」  

「相変わらず強がりを」  

「強がりではない。強がらねば、北の大地は歩けん」

松本は苦笑した。  

「しかし、まさか再び蝦夷へ向かうことになろうとは」  

「運命というものは、時に人をからかう。わしが逃げたと思ったら、また呼び戻す」  

「呼んでいるのは黒田殿でしょう」  

「いや、もっと大きなものだ。あの大地そのものが、わしを呼んでおる」

武揚の声には、敗者の影はなかった。むしろ、かつて蝦夷共和国を夢見た男の熱が、再び胸の奥で灯り始めていた。船が揺れるたび、甲板の板がぎしぎしと鳴った。その音が、どこか懐かしい。武揚は、遠い記憶をたぐり寄せるように目を細めた。

「武揚さんよ」  

船員の一人が、江戸言葉で声をかけてきた。  

「聞きやしたぜ。あんたさん、昔は海軍の偉いお方だったとか」  

「昔の話だ」  

「へえ、でもよ、海を見てるその目つき、ただ者じゃねえ」  

武揚は笑った。  

「ただ者ではないが、偉くもない。今はただの役人だ」  

「役人にしちゃあ、背中がでけえ」  

「背中がでかいのは、荷物が多いからだよ」  

「荷物?」  

「過去という名の荷物さ」  

船員はぽかんとした顔をしたが、すぐに笑い出した。  

「へっ、難しいこと言いやすねえ」

松本が小声で言った。  

「あなたは、時々詩人のようですな」  

「詩人ではない。敗者は、言葉が多くなるだけだ」  

「それは……分かる気がします」

船は北へ向かって進む。空はどこまでも澄み、海は深い青をたたえていた。武揚は、その青の向こうに広がる大地を思い浮かべた。――蝦夷は、まだ終わっておらぬ。 あの地には、未だ形にならぬ未来が眠っている。それを掘り起こすのが、自分の役目なのだ。

「武揚殿」  

松本が、少し真剣な声で言った。

「あなたは、蝦夷で何をなさるおつもりですか」  

武揚は、潮風に髪を揺らしながら答えた。  

「まずは見る。大地を、海を、人を。敗者の目で、もう一度すべてを見直す」  

「それから?」  

「それから……」  

武揚は、北の空を見上げた。  

「運命が何を望んでいるか、確かめる」

松本は、しばし黙っていたが、やがて深く頷いた。  

「あなたはやはり、ただの役人ではありませんな」  

「ただの役人でよいのだ。だが、ただの人間では終わらん」


「開拓使の現実」


蝦夷の大地に足を踏み入れた瞬間、武揚は思わず息を呑んだ。かつて共和国を夢見たときと同じ風が吹いている。だが、その風はどこか違っていた。――これは、敗者ではなく役人として嗅ぐ風だな。同じ大地でも、立場が変われば景色も変わる。武揚はその事実を、北の冷たい空気の中で噛みしめた。

開拓使の役所は、まだ建設途中のような粗削りな建物だった。木材の匂い、土の匂い、そして人の汗の匂いが混じり合い、まるで巨大な工事現場のようである。  

「これが……新政府の最前線か」  

武揚は、思わず苦笑した。

「榎本殿、こちらへ」  

案内役の若い書記が、慌ただしく走り寄ってきた。  

「長官がお待ちです。今日は測量局の者たちとも顔合わせを」  

「顔合わせか。わしは宴会の幹事ではないのだが」  

「い、いえ、そういう意味では……」  

書記は慌てふためき、武揚は思わず吹き出した。  

「冗談だ。江戸言葉は、時に人を困らせる」  

「ええ、ええ、まったくで……」

案内された部屋には、すでに数名の役人が集まっていた。その中には、武揚が以前から名を聞いていた人物もいる。測量の鬼と呼ばれる男、資源調査の専門家、そして海運に詳しい者たち。だが、彼らの表情はどこか曇っていた。

「榎本武揚殿とお見受けする」  

ひとりの壮年の役人が、深々と頭を下げた。  

「我ら、あなたの来訪を心待ちにしておりました」  

「それはどうも。だが、顔があまり嬉しそうではないな」  

「……実は」  

役人は、周囲を見回し、声を潜めた。  

「開拓使は、思った以上に混乱しております」  

「混乱?」  

「はい。予算は足りず、人手も足りず、計画は二転三転。黒田長官は辣腕ですが、辣腕すぎて……」  

「辣腕すぎて?」  

「敵も多いのです」

武揚は、思わず鼻を鳴らした。  

「なるほど。薩摩の男は、どこへ行っても敵をつくる」  

「ええ、まったくで……」  

役人たちは、どこか疲れ切った顔で頷いた。そこへ、黒田清隆がずかずかと入ってきた。  「おお、榎本殿。来ておったか」  

「黒田殿。どうやら、わしの出番は多そうだ」  

「多いとも。山ほどある。海も山も川も、全部おぬしに見てもらう」  

「それはまた、ずいぶんと大雑把な」  

「大雑把でよい。蝦夷は広い。細かいことを言っておれば日が暮れる」

黒田は、机の上に地図を広げた。そこには、まだ白紙の部分が多く残っている。  

「見よ。これが蝦夷の現実だ」  

「白紙だな」  

「そうだ。白紙だからこそ、おぬしの目が必要なのだ」

武揚は、地図の白い部分に指を置いた。――ここに、未来が眠っている。敗者としての過去を抱えたままでも、未来を描くことはできる。むしろ、敗者だからこそ描ける未来がある。

「黒田殿」  

武揚は、静かに言った。  

「わしは、この白紙を埋めよう。蝦夷のために、そして日本のために」  

黒田は満足げに頷いた。  

「よかろう。では、すぐに動いてもらうぞ。蝦夷は待ってはくれん」  

「承知した」

こうして、榎本武揚の新たな戦いが始まった。敗者ではなく、開拓者として。北の大地は、再び彼を受け入れようとしていた。


「白い大地に立つ」


蝦夷の春は、春とは名ばかりであった。雪解けの泥が地面を覆い、風はまだ冬の牙を残している。だが、その厳しさこそが、この大地の本性であり、魅力でもあった。

武揚は、開拓使の役人たちとともに野外調査へ出た。黒田清隆の命である。  

「机の上で地図を眺めておっても、蝦夷は分からん。まずは歩け」  

黒田はそう言い放ち、武揚を半ば強引に送り出したのだ。

「榎本殿、足元にお気をつけくだされ」  

案内役の測量士が声をかける。  

「ぬかるみが深いところは、馬でも沈みますゆえ」  

「沈むなら沈むで、わしも一緒に沈むだけだ」  

武揚は笑ったが、足元は確かに危うい。雪解けの泥は、まるで大地が人間を試しているかのように重く、粘りついた。

「武揚殿、こちらをご覧くだされ」  

測量士が指さした先には、広大な平野が広がっていた。まだ雪が残り、白と茶色がまだらに混じる荒涼とした景色。だが、その奥には確かな可能性が眠っている。

「ここが……未来の町になるのか」  

武揚は、思わず呟いた。  

「はい。黒田長官は、この一帯を開拓の中心地にと考えておられます」  

「中心地、とな」  

「ええ。港を整備し、道路を通し、移民を呼び込む。蝦夷を日本の北の柱にするのだと」

武揚は、冷たい風に顔を向けた。――北の柱か。かつて共和国を夢見たときとは違う。  今度は、日本という国の未来を支える柱として、この大地を見つめるのだ。

「榎本殿」  

松本十郎が、馬上から声をかけた。  

「あなたは、蝦夷をどうご覧になりますか」  

武揚は、しばし沈黙した。そして、ゆっくりと答えた。  

「荒れておる。厳しい。人を拒むような顔をしておる」  

「……」  

「だが、それがよい。人を拒む大地は、人を鍛える。鍛えられた者だけが、ここに根を張れる」

松本は深く頷いた。  

「あなたは、やはり蝦夷に縁があるのですな」  

「縁か、宿命か……」  

武揚は、遠くの山並みに目を細めた。  

「どちらにせよ、わしはここに戻ってきた。ならば、やるべきことをやるだけだ」

そのとき、突然、馬が大きく嘶いた。  

「おっと、危ない!」  

松本が慌てて手綱を引く。馬はぬかるみに足を取られ、前のめりに倒れかけていた。  「松本殿、しっかりせい!」  

武揚は泥に足を取られながらも駆け寄り、馬の首を押さえた。  

「こいつぁ、江戸の馬とは勝手が違うぞ」  

「は、はは……蝦夷の洗礼というやつですな」  

松本は泥だらけになりながら笑った。武揚も、思わず吹き出した。  

「まったく、蝦夷は容赦がない」  

「ええ。しかし、あなたは楽しそうに見えますぞ」  

「楽しそうに見えるか?」  

「ええ。まるで……帰ってきたような顔をしておられる」

武揚は、ふと空を見上げた。灰色の雲の隙間から、わずかに光が差している。その光は、まるで彼を歓迎しているかのようだった。――帰ってきた、か。敗者としてではなく、開拓者として。この大地に、もう一度立つことができた。武揚は、胸の奥で静かに呟いた。  

「蝦夷よ。今度こそ、おぬしと正面から向き合おう」


【第二章 北の大地】


「黒田清隆の影と光」


開拓使での仕事が本格的に始まると、武揚はすぐに気づいた。――黒田清隆という男は、やはり一筋縄ではいかぬ。辣腕、剛腕、強引、豪胆。 そのどれもが黒田を表すが、どれも足りない。彼は、まるで北の大地そのもののように、荒々しく、そして底知れぬ深さを持っていた。

「榎本殿、これを見てくれ」  

黒田が机に叩きつけたのは、蝦夷地の資源調査報告書だった。  

「鉄、石炭、木材、海産物……宝の山だ。だが、宝の山は掘らねば宝にならん」  

「掘るには人がいる。人を呼ぶには道がいる」  

武揚が言うと、黒田は満足げに頷いた。  

「そうだ。だからこそ、おぬしの目が必要なのだ」

黒田は、武揚を信頼しているようでいて、同時に試してもいた。その視線は、まるで「敗者に何ができる」と問いかけているようでもあった。

「黒田殿、わしは敗者だが、無能ではないぞ」  

武揚が江戸言葉で軽口を叩くと、黒田は鼻で笑った。  

「敗者だからこそ使うのだ。勝者は慢心する。敗者は学ぶ」  

「なるほど、薩摩の理屈だ」  

「薩摩の理屈は、時に正しい」

黒田の言葉は、武揚の胸に妙に響いた。敗者であることを恥じる必要はない。敗者だからこそ見える景色がある。その景色を、この大地に生かせばよい。

「榎本殿、明日からは現地視察だ。山を越え、川を渡り、海を見ろ」  

黒田は、まるで戦場へ送り出すような口調で言った。  

「机の上で考えるな。蝦夷は歩いてこそ分かる」  

「歩くのは構わんが、わしはもう若くはないぞ」  

「若くなくとも歩け。年寄りの知恵は、若者の脚力に勝る」  

「へえ、うまいこと言いやがる」

黒田は、ふっと笑った。その笑みは、敵にも味方にも見える、不思議な笑みだった。

「榎本殿。おぬしは蝦夷を知っている。だが、今の蝦夷はおぬしの知る蝦夷ではない」  「どういう意味だ」  

「敗者の夢が消えたあとに残るのは、現実だ。現実は、夢よりも厳しい」  

武揚は、静かに頷いた。  

「厳しい現実なら、なおさら見てやろう。夢を見た者の責任としてな」

黒田は、満足げに目を細めた。  

「よかろう。では、蝦夷を歩け。見て、考え、そして決めろ。おぬしが何をすべきかを」  「わしが、何をすべきか……」  

武揚は、窓の外に広がる北の空を見つめた。その空は、どこまでも高く、どこまでも冷たかった。 だが、その冷たさの奥に、確かな光があった。――敗者としてではなく、開拓者として。この大地に、わしの道を刻むのだ。武揚は、胸の奥で静かに決意を固めた。黒田清隆という男の影と光、その両方を背負いながら、北の大地を歩き始めるのである。


「山を越え、川を渡り」


翌朝、武揚はまだ薄暗い時間に宿舎を出た。蝦夷の朝は、江戸のそれとはまるで違う。  空気は刃物のように鋭く、肺に吸い込むたびに胸の奥がきしむ。だが、その冷たさが、武揚にはむしろ心地よかった。

「榎本殿、こちらでございます」  

案内役の測量士が、馬の手綱を引きながら声をかけた。  

「今日は山越えでございますゆえ、覚悟を」  

「覚悟なら、蝦夷に来た時点で決めておる」  

武揚は、江戸言葉で軽く返した。松本十郎も馬にまたがり、苦笑した。  

「あなたは本当に、こういう時だけは若者のようですな」  

「若者ではない。だが、年寄りでもない。ちょうどよい年頃だ」  

「便利な言い方ですな」  

「便利でよいのだ。蝦夷では、便利な考え方が生き残る」

山道は険しかった。雪解けの水が小川となって道を横切り、馬の足元を濡らす。木々はまだ芽吹かず、黒々とした枝を空に伸ばしている。その姿は、まるで大地が冬の名残を手放すのをためらっているかのようだった。

「榎本殿、こちらをご覧くだされ」  

測量士が指さした先には、深い谷が広がっていた。 谷底には、雪解け水が勢いよく流れ、白い泡を立てている。  

「この川を渡らねば、次の村へは行けませぬ」  

「橋は?」

「ありません」  

「舟は?」  

「ありません」  

「では、どうする」  

「渡るのです」  

「……なるほど、蝦夷らしい」

武揚は、思わず苦笑した。江戸であれば橋があり、舟があり、人がいる。だが蝦夷では、何もない。何もないからこそ、何でもできる。その自由さが、武揚にはたまらなく魅力的だった。

「松本殿、先に行け」  

「えっ、わ、私がですか」  

「わしは年寄りだ。若者が先に行くべきだろう」  

「さっき若者ではないと……」  

「状況によって変わるのだよ」  

松本は、泥だらけになりながらも川へと馬を進めた。  

「ひ、冷たいっ……!」  

「蝦夷の水は、心まで洗うぞ」  

「洗われすぎて凍えます!」

武揚は、松本の情けない声に思わず吹き出した。  

「まったく、蝦夷は人を鍛える」  

「鍛えすぎです!」  

「鍛えられた者だけが、ここに残るのだ」

武揚も馬を進め、冷たい川の中へ入った。水は膝まで達し、流れは強い。だが、武揚の目は輝いていた。――これだ。この厳しさ、この不便さ、この荒々しさ。これこそが、蝦夷の本当の姿だ。

川を渡りきると、武揚は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に満ち、身体の芯まで染み渡る。  

「よし、行くぞ。まだ先は長い」  

「長すぎます……」  

松本が肩を落とすと、武揚は笑った。  

「弱音を吐くな。蝦夷は、弱音を笑う大地だ」  

「笑われたくはありませんな」  

「ならば歩け。歩けば、道は開ける」

こうして武揚は、山を越え、川を渡り、蝦夷の大地を自らの足で確かめていった。 敗者としてではなく、開拓者として。 その歩みは、やがて蝦夷の未来を形づくる礎となるのだった。


「村人たちの眼差し」


山を越え、川を渡り、泥に足を取られながら進むこと数日。武揚たちは、ようやく小さな開拓村にたどり着いた。村といっても、粗末な木造小屋が十数軒、煙突から細い煙が上がっているだけの、まるで大地にしがみつくような集落である。

「ここが……開拓村か」  

武揚は、しばし言葉を失った。江戸の町とは比べるべくもない。だが、ここには江戸にはない強さがあった。生きるために、ただ生きるために、必死に根を張る人々の気配が漂っていた。

「おお、役人さんかい」  

最初に声をかけてきたのは、頬に深い皺を刻んだ老人だった。  

「黒田長官から聞いとるよ。偉いお侍さんが来るってな」  

「偉いかどうかは知らんが、榎本武揚だ」  

武揚が名乗ると、老人は目を丸くした。  

「榎本……あの蝦夷で戦った……?」  

「そうだ」  

老人はしばし黙り、やがて深く頭を下げた。  

「よう戻ってきてくれた。あんたさんのこと、悪く言う者もおるが、わしらは違う。蝦夷を見捨てなかった男だと、そう思っとる」

武揚は、胸の奥が熱くなるのを感じた。敗者としての烙印は、江戸では重かった。だが、この大地では違う。敗者であろうと、夢を見た者を笑わぬ人々がいる。

「榎本殿、こちらをご覧くだされ」  

松本十郎が、村の奥を指さした。そこには、雪解けの泥にまみれながら畑を耕す若者たちの姿があった。鍬を振るう腕は細く、顔は疲れ切っている。だが、その眼だけは死んでいなかった。

「彼らは移民です」  

案内役の測量士が説明した。  

「本州から来た者たちで、土地を求めてここへ。だが、冬は厳しく、食糧も乏しい。病で倒れる者も多いのです」  

「それでも、ここに残るのか」  

「ええ。ここで生きると決めた者たちです」

武揚は、若者たちの姿をじっと見つめた。――この大地に根を張ろうとする者たちがいる。  ならば、自分もまた、この大地に何かを残さねばならぬ。

「お侍さん!」  

突然、子どもが駆け寄ってきた。泥だらけの顔で、無邪気に笑っている。  

「お侍さん、江戸から来たの?」  

「そうだ」  

「江戸って、どんなとこ?」  

武揚は、思わず笑った。  

「人が多くて、うるさくて、狭いところだ」  

「ふーん。ここは広いよ」  

子どもは胸を張った。  

「広いし、風が気持ちいいし、魚もいっぱいとれるんだ!」  

「そうか。いいところだな」  

「うん!だから、お侍さんもここに住めばいいのに」  

武揚は、胸の奥がじんとした。――住めばいい、か。敗者として追われた大地に、今度は迎えられている。

松本が小声で言った。  

「あなたは、やはり蝦夷に縁がありますな」  

「縁ではない。宿命だ」  

武揚は、北の空を見上げた。  

「この大地は、わしを離してくれん」

村人たちの眼差しは、厳しくも温かかった。その眼差しを受け止めながら、武揚は静かに決意した。――この大地のために働こう。敗者の名を背負ったままでも、未来を築くことはできる。こうして武揚は、蝦夷の現実と向き合い始めた。それは、彼の人生における第二の戦いの始まりであった。


「北の海が語るもの」


村を後にし、さらに北へ向かう道すがら、武揚はふと潮の匂いを感じた。山を越え、森を抜け、視界が開けた先に広がっていたのは、どこまでも続く灰青色の海だった。荒々しく波が打ち寄せ、風は容赦なく頬を叩く。だが、その冷たさは、武揚の胸に奇妙な懐かしさを呼び起こした。

「榎本殿、ここが漁場でございます」  

案内役の測量士が、海岸を指し示した。  

「このあたりはニシンがよく獲れます。だが、近年は不漁続きで……」  

「不漁か」  

「ええ。村人たちは困っております。冬を越すのもやっとで」

武揚は、波打ち際に歩み寄った。海は、かつて彼が艦隊を率いて戦った舞台でもある。  敗北の記憶が胸を刺すが、それ以上に、この海は彼に語りかけてくるようだった。――お前はまだ終わっていない。――この大地も、この海も、お前を必要としている。そんな声が、波の音に混じって聞こえる気がした。

「武揚殿」  

松本十郎が、海を見つめながら言った。  

「あなたは、海を見るときだけは、まるで別人のようですな」  

「別人か」  

「ええ。敗者でも役人でもなく……ただの海の男のように見える」  

武揚は、ふっと笑った。  

「海は嘘をつかん。勝ち負けも、身分も、関係ない。生きるか死ぬか、それだけだ」  

「厳しいものですな」 「厳しいからこそ、正しい」

そのとき、漁師らしき男が近づいてきた。髭を蓄え、風に焼けた顔は皺だらけだが、目は鋭く光っている。

「お侍さん、あんたが榎本武揚かい」  

「そうだ」  

「やっぱりな。噂は聞いとるよ。蝦夷を見捨てなかった侍だってな」  

武揚は、少し驚いた。  

「わしは敗者だぞ。見捨てるも何も、負けて戻っただけだ」  

「負けても戻ってきた。それが大事なんだ」  

漁師は、海を指さした。  

「この海はな、勝った奴より、戻ってきた奴を信じるんだよ」

武揚は、胸の奥が熱くなるのを感じた。敗者としての過去が、ここでは違う意味を持つ。敗れたからこそ見える景色があり、敗れたからこそ寄り添える人々がいる。

「漁は厳しいか」  

武揚が問うと、漁師は苦笑した。  

「厳しいなんてもんじゃねえ。海は気まぐれで、魚は逃げる。冬は命がけだ」  

「それでも、ここに残るのか」  

「残るさ。ここが俺たちの海だからな」  

漁師は胸を張った。  

「だからよ、お侍さん。あんたも、この海を見捨てるんじゃねえぞ」  

武揚は、静かに頷いた。  

「見捨てんよ。わしは、この海に育てられたようなものだ」

松本が小声で言った。  

「あなたは、やはり蝦夷に呼ばれているのですな」  

「呼ばれているのではない。引きずられておるのだ」  

武揚は、波を見つめながら呟いた。  

「この海に、まだ返していないものがある」

北の海は、冷たく、荒々しく、そしてどこまでも深かった。その海を前にして、武揚は改めて決意した。――この大地の未来をつくるために、わしはここに戻ってきたのだ。こうして、武揚の心は、再び蝦夷の海と結びついていく。敗者ではなく、開拓者として。北の大地は、確かに彼を必要としていた。


【第三章 外交の海】


「ロシアの影、国境の風」


明治八年、武揚は再び海を渡ることになった。行き先はロシア帝国。開拓使での働きが評価され、ついに政府から「樺太・千島の国境交渉」という重責を任されたのである。――敗者が、今度は国を背負って海を渡るか。武揚は、船の甲板に立ちながら、胸の奥で静かに笑った。人生とは、まことに妙なものだ。

「武揚殿、緊張しておられますか」  

松本十郎が、厚手の外套を揺らしながら近づいてきた。  

「緊張? わしが?」  

武揚は江戸言葉で軽く返した。  

「緊張する暇があったら、海の機嫌でも伺うわ」  

「海の機嫌は……悪そうですな」  

松本が空を見上げると、灰色の雲が重く垂れ込めていた。ロシアとの交渉は、蝦夷の未来を左右する大事である。樺太は、アイヌの人々が古くから暮らす土地であり、幕末以来、日露の緊張が続いてきた場所だ。その国境をどう定めるか――それは、敗者であった武揚にとって、まるで運命が与えた試練のようでもあった。

「榎本殿」  

船員が駆け寄ってきた。  

「まもなくロシア領事館の船が見えるとのことです」  

「ほう、向こうから迎えが来るとは、ずいぶん丁寧なことだ」  

「ええ、しかし……」  

船員は少し困った顔をした。  

「ロシアの船は、やたらと大きくてして」  

「大きい?」  

「ええ、まるで海の城でさあ」  

武揚は、思わず吹き出した。  

「海の城か。そりゃあ、わしらの船が小舟に見えるわけだ」

やがて霧の向こうから、巨大な黒い船影が現れた。ロシア帝国の軍艦である。その威容は、まるで海を割って進む怪物のようだった。

「……でけえな」  

松本が呆然と呟く。  

「でかいだけだ。でかい船が偉いなら、鯨が一番偉いことになる」  

武揚は、平然とした顔で言った。  

「外交は、船の大きさで決まるものではない。腹の太さで決まる」  

「腹の太さ?」  

「そうだ。腹が据わっておれば、相手がどれだけ大きくても揺らがん」

ロシア側の使節が乗り込んでくると、武揚は堂々と迎えた。その姿は、かつて蝦夷共和国の総裁として立ったときと同じ、いや、それ以上の風格があった。

「エノモト・タケアキ殿、ロシア帝国はあなたを歓迎いたします」

通訳を介して伝えられた言葉に、武揚は静かに頷いた。  

「こちらこそ、国境の未来を語る場をいただき、感謝いたす」  

その声には、敗者の影は微塵もなかった。

松本が小声で言った。  

「あなたは……本当に変わりましたな」  

「変わったのではない。戻ったのだ」  

武揚は、北の海を見つめながら答えた。  

「わしは、海の上でこそ本来の自分になる」

ロシアとの交渉は、これから始まる。樺太をどうするか、千島をどうするか。その決断は、日本の未来を左右する。だが武揚は、恐れなかった。敗者としての過去を背負いながらも、今は国を背負って立つ。その覚悟が、彼の背筋をまっすぐに伸ばしていた。――運命よ、来るなら来い。北の海は、今日も荒れている。だが、その荒波こそが、武揚の進むべき道を照らしていた。


「凍てつく交渉の間で」


ロシア・ペテルブルクの冬は、蝦夷の寒さとは質が違った。蝦夷の冷気が大地から吹き上がるものだとすれば、ここロシアの寒気は空そのものが凍りついて落ちてくるようだった。  武揚は、厚手の外套を着込んでいても、骨の芯まで冷え込むのを感じた。

「榎本殿、こちらが交渉の会場でございます」  

案内役のロシア人通訳が、重厚な扉を押し開けた。中には巨大なシャンデリアが吊られ、壁には金色の装飾が施されている。まるで氷の宮殿のような空間だった。

「ずいぶんと派手な場所だな」  

武揚が江戸言葉で呟くと、松本十郎が苦笑した。  

「ロシアは見栄を張る国ですからな。寒さを忘れさせるためかもしれません」  

「寒さは忘れんよ。忘れたら死ぬ」  

「ええ、まったくで」

交渉の席には、ロシア側の代表であるゴルチャコフ伯爵が座っていた。白い髭を蓄え、鋭い目つきで武揚を見つめている。その視線は、まるで「敗者が何をしに来た」と言わんばかりだった。――よい。そう来るなら、こちらも腹を据えるだけだ。武揚は、静かに席についた。

「エノモト殿、日本は樺太をどう扱うつもりか」  

通訳を介して伯爵が問う。その声は冷たく、氷の刃のようだった。

武揚は、少しも怯まず答えた。  

「樺太は、アイヌの人々が古くから暮らす土地。日本もロシアも、勝手に奪い合うべきではない」  

伯爵の眉がわずかに動いた。  

「では、日本は樺太を放棄するのか」  

「放棄とは申さぬ。だが、争いを続けるのは愚かだ」  

武揚は、ゆっくりと地図を広げた。  

「樺太は分けられぬ。ならば、千島をどうするかを考えるべきだ」

伯爵は、しばし沈黙した。その沈黙は、重く、冷たく、長かった。松本が不安そうに武揚を見たが、武揚は微動だにしなかった。――外交とは、沈黙の中で勝負が決まることもある。  海軍時代に学んだ「待つ力」が、ここで生きる。

やがて伯爵は、低く唸るように言った。  

「……日本は、千島を望むのか」  

「望むのではない。必要なのだ」  

武揚は、まっすぐ伯爵を見返した。  

「日本は北の海を守らねばならぬ。千島は、そのための鍵だ」

伯爵は、鋭い目を細めた。  

「敗者の将が、ずいぶんと強気だな」  

武揚は、微笑んだ。  

「敗れたからこそ、強気になれるのだよ。失うものは、もうない」  

松本が思わず吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。

伯爵は、しばし武揚を見つめ、やがてふっと笑った。  

「……気に入った。日本の榎本殿、あなたは面白い男だ」  

「面白いだけでは困る。交渉を進めねばならん」  

「そうだな。では、続けよう」

その瞬間、場の空気がわずかに変わった。氷のように冷たかった空間に、ほんの少しだけ温度が戻ったようだった。

松本が小声で言った。  

「あなたは……本当に外交向きですな」  

「外交向きではない。海向きだ」  

武揚は、北の海を思い浮かべながら答えた。  

「海の男は、相手の腹を読むのが得意なのだよ」

こうして、凍てつくロシアの地で、武揚の交渉は静かに動き始めた。敗者としてではなく、日本の未来を背負う外交官として。その姿は、まさに北の海を渡る船のように、揺らぎながらも確かに前へ進んでいた。


「千島の霧、樺太の影」


ロシアとの交渉は、まるで凍てつく海の上で綱渡りをしているようだった。一歩間違えれば、国益は氷の底へ沈む。だが、武揚は怯まなかった。海軍時代に培った胆力が、ここで生きていた。

交渉三日目。窓の外では雪が舞い、風が宮殿の壁を叩いている。その音は、まるで北の海が「急ぐな、焦るな」と囁いているようだった。

「エノモト殿、日本は本当に樺太を手放す覚悟があるのか」  

ゴルチャコフ伯爵が、鋭い目で問いかけた。その声は、氷の刃のように冷たかった。武揚は、ゆっくりと茶を口に含んだ。ロシアの茶は濃く、香りが強い。だが、その苦味が、むしろ彼の思考を冴えさせた。

「覚悟はある。だが、代わりが必要だ」  

「代わり?」  

「千島列島だ」  

武揚は、地図の上に指を滑らせた。  

「日本は北の海を守らねばならぬ。千島は、そのための道であり、盾であり、未来だ」

伯爵は、鼻を鳴らした。  

「樺太は広大だ。千島のような細長い島々と交換する価値があると思うか」  

「価値は広さではない。必要かどうかだ」  

武揚は、伯爵の目をまっすぐに見返した。  

「ロシアは樺太を欲しがっている。日本は千島を必要としている。ならば、互いに得をする道を選ぶべきだ」

伯爵は、しばし沈黙した。その沈黙は、昨日よりも短かった。武揚の言葉が、確かに彼の胸に届いている証拠だった。

松本十郎が、小声で囁いた。  

「あなたは……本当に腹が据わっておりますな」  

「腹が据わっておらねば、外交など務まらん」  

武揚は、茶碗を置きながら答えた。  

「それに、わしはもう敗者ではない。国を背負っておる」

伯爵が、ゆっくりと口を開いた。  

「……エノモト殿。あなたの言うことは理にかなっている」  

「ならば、話を進めよう」  

「だが」  

伯爵は、わずかに口元を歪めた。  

「ロシアは簡単には譲らぬ。あなたの覚悟を、もう少し見せてもらおう」

武揚は、微笑んだ。  

「覚悟なら、いくらでも見せよう。わしは海の男だ。荒波には慣れておる」

伯爵は、思わず吹き出した。  

「……あなたは本当に面白い男だ、エノモト殿」  

「面白いだけでは困る。交渉をまとめねばならん」  

「そうだな。では、次の条件を提示しよう」

交渉は、再び動き始めた。だが、その空気は初日とは違っていた。氷のように冷たかった場が、わずかに温度を帯びている。――霧が晴れ始めた。武揚は、そう感じた。

千島の霧、樺太の影。その狭間で揺れる国境の未来を、武揚は確かな手で掴もうとしていた。敗者としてではなく、日本の海を知る者として。そして、北の大地に未来を描く者として。


「国境を決めるということ」


交渉が始まってから十日。ロシアの冬は相変わらず厳しく、窓の外では吹雪が舞っていた。  だが、交渉の場には、少しずつだが確かな温度が生まれつつあった。武揚とゴルチャコフ伯爵の間に、奇妙な信頼とも呼べるものが芽生え始めていたのだ。

「エノモト殿、日本は本当に千島を望むのだな」  

伯爵が、深い皺を刻んだ額を指で押さえながら言った。  

「望むのではない。必要なのだ」  

武揚は、静かに答えた。  

「日本は北の海を守らねばならぬ。千島はそのための道であり、盾であり、未来だ」

伯爵は、しばし沈黙した。その沈黙は、もはや敵意ではなく、熟考のそれだった。

松本十郎が、そっと武揚の袖を引いた。  

「榎本殿……あなたは、まるで海そのものですな」  

「海?」  

「ええ。深くて、読めなくて、時に荒れる」  

武揚は、思わず吹き出した。  

「褒めておるのか、けなしておるのか分からんぞ」  

「褒めておりますとも」

そのやり取りを聞いていた伯爵が、ふっと笑った。  

「あなた方は面白い。日本の侍は、もっと堅苦しいものだと思っていた」  

「堅苦しい侍もおりますが、わしは江戸っ子でしてな」  

武揚は肩をすくめた。  

「江戸っ子は、腹の中を隠すのが苦手でして」  

「それは外交官としては致命的ではないか」  

「いえ、逆です」  

武揚は、伯爵をまっすぐに見た。  

「腹の中を隠さぬ者の言葉は、嘘がない。嘘がないから、相手に届く」

伯爵は、しばし武揚を見つめ、やがて深く頷いた。  

「……なるほど。あなたの言葉は、確かに届く」

その瞬間、交渉の流れが変わった。伯爵は地図を広げ、指で樺太と千島をなぞった。  

「エノモト殿。ロシアは樺太を欲する。日本は千島を必要とする」  

「その通りだ」  

「ならば――交換するのが理であろう」

松本が息を呑んだ。武揚は、静かに目を閉じた。――ついに、この瞬間が来たか。

伯爵は続けた。  

「樺太全島をロシア領とし、千島列島を日本に譲る。これが我々の提案だ」  

「……」  

武揚は、ゆっくりと目を開けた。  

「その条件、受けよう」

伯爵は、満足げに頷いた。  

「あなたは、敗者ではないな、エノモト殿」  

武揚は、静かに笑った。  

「敗者かどうかは、歴史が決めることだ。わしはただ、日本の未来を選んだだけだ」

松本が、感極まったように言った。  

「榎本殿……あなたは、本当に国を背負っておられる」  

「背負っているのは国だけではない」  

武揚は、窓の外の吹雪を見つめた。  

「蝦夷の大地も、北の海も、あの村の人々も……全部だ」

吹雪の向こうに、武揚は確かに見た。北の海が、静かに微笑んでいるのを。

こうして、樺太・千島交換条約は大きく前進した。敗者としてではなく、外交官として。  武揚は、国境という名の未来を、自らの手で切り開こうとしていた。


【第四章 還るべき大地】


「条約の影、祖国の光」


樺太・千島交換条約が締結され、日本政府から正式に承認されたのは、武揚がロシアを発ってしばらく経った頃だった。その知らせを受けたとき、武揚は船の甲板に立ち、静かに北の海を見つめていた。――これで、ひとつの国境が定まった。だが、国境とは線を引くだけの話ではない。そこに暮らす人々の未来を決めるということだ。

松本十郎が、冷たい風に外套を押さえながら近づいてきた。  

「榎本殿、条約の件……本当におめでとうございます」  

「めでたいかどうかは、まだ分からんよ」  

武揚は、海を見たまま答えた。  

「国境を決めるというのは、誰かの土地を奪い、誰かの未来を変えるということだ。喜ぶだけでは済まぬ」  

松本は、しばし黙った。  

「……それでも、あなたがいなければ、もっと悪い形になっていたでしょう」  

「そうかもしれん。だが、わしは英雄ではない。敗者が、ようやく国の役に立てただけだ」

その言葉には、誇りと悔しさが入り混じっていた。敗者としての烙印は、武揚の胸に今も残っている。だが、その烙印こそが、彼を強くした。

船が日本の港へ近づくと、冷たい潮風の中に、どこか懐かしい匂いが混じり始めた。武揚は、深く息を吸い込んだ。――帰ってきた。敗者としてではなく、外交官として。そして、北の大地の未来を担う者として。

港には、開拓使の役人たちが並んでいた。その中には、黒田清隆の姿もあった。黒田は腕を組み、いつもの鋭い目つきで武揚を見つめている。

「榎本殿、よくやった」  

黒田は、短く言った。その声には、珍しく温かみがあった。  

「おぬしの働きで、日本の北の境が定まった。これは大きい」  

「黒田殿、わしはただ……」  

「謙遜するな」  

黒田は、武揚の肩を力強く叩いた。  

「敗者だろうが何だろうが、国のために働いた者は誇ってよい」

武揚は、思わず目を伏せた。黒田の言葉は、胸の奥に深く染み込んだ。

「榎本殿」  

黒田が続けた。  

「これからが本番だぞ」  

「本番?」  

「そうだ。千島を得た以上、北の海を守り、蝦夷を育てねばならん。おぬしの出番は、まだまだこれからだ」

武揚は、ゆっくりと顔を上げた。北の空は、どこまでも高く澄んでいた。その空の下で、自分にはまだやるべきことがある。――蝦夷の未来をつくる。そのために、わしは戻ってきたのだ。

武揚は、静かに頷いた。  

「黒田殿。わしは、北へ戻る。あの大地が呼んでおる」  

黒田は、満足げに笑った。  

「よかろう。蝦夷は広い。おぬしのような男が必要だ」

こうして、榎本武揚は再び北の大地へ向かう。敗者ではなく、外交官でもなく――今度は、未来を築く開拓者として。


「北へ戻る理由」


条約締結の報せが日本中を駆け巡る頃、武揚はすでに蝦夷へ戻る準備を整えていた。  外交官としての務めを果たした今、彼の心は再び北の大地へ向いていた。――あの大地には、まだやるべきことがある。その思いが、武揚を突き動かしていた。

「榎本殿、本当に蝦夷へ戻られるのですか」  

松本十郎が、少し寂しげな顔で尋ねた。  

「戻るとも。わしの居場所は、今やあそこだ」  

武揚は、迷いのない声で答えた。  

「外交は終わった。だが、開拓はこれからだ」  

「しかし……あなたほどの人物なら、中央で高い地位に就くこともできましょう」  

「中央か」  

武揚は、ふっと笑った。  

「わしは、机の上で国を動かすような器ではない。泥に足を取られ、風に吹かれ、海に叩かれてこそ力が出る」  

松本は、しばし黙り、やがて深く頷いた。  

「……確かに、あなたはそういう方ですな」

開拓使本庁に戻ると、黒田清隆が待っていた。腕を組み、いつもの鋭い目つきで武揚を見据えている。  

「榎本殿。ロシアとの交渉、見事であった」  

「黒田殿のおかげで、腹が据わった」  

「腹が据わったのは、おぬし自身だ」  

黒田は、珍しく柔らかい声で言った。  

「だが――ここからが本番だぞ」  

「本番?」  

「そうだ。千島を得た以上、北の海を守り、蝦夷を育てねばならん。おぬしの働きは、外交だけでは終わらん」

武揚は、静かに息を吸い込んだ。北の風の匂いが、胸の奥に染み込んでいく。  

「黒田殿。わしは蝦夷へ戻る。あの大地が、わしを呼んでおる」  

「呼んでいるのは大地だけではないぞ」  

黒田は、机の上の書類を指さした。  

「開拓使の者たちも、おぬしを待っている。蝦夷の村々も、漁師も、移民たちもだ」  

武揚は、思わず目を伏せた。――あの村の老人、泥だらけの子ども、海を見つめる漁師。  彼らの顔が、次々と脳裏に浮かぶ。

「榎本殿」  

黒田が、低い声で続けた。  

「おぬしは敗者ではない。敗れたからこそ、北の大地を知り、海を知り、人を知った。だからこそ、蝦夷を任せられる」  

武揚は、胸の奥が熱くなるのを感じた。敗者としての過去が、今は力になっている。その事実が、彼の背中を押した。

「黒田殿。わしは、蝦夷の未来をつくるために戻る」  

「よかろう。ならば、すぐに出立せよ。北は待ってはくれん」  

「承知した」

武揚は、窓の外に広がる北の空を見上げた。その空は、どこまでも澄み、どこまでも冷たかった。だが、その冷たさの奥に、確かな光があった。――わしは、帰るのだ。敗者としてではなく、外交官としてでもなく。北の未来を築く者として。

こうして榎本武揚は、再び蝦夷へ向かう。その歩みは、北の大地の歴史を大きく動かすことになるのだった。


「再び踏む、北の土」


蝦夷へ戻る船が函館湾へ入ったとき、武揚は甲板に立ち、しばし言葉を失った。 かつて共和国を夢見て戦ったこの港は、敗北の記憶とともに胸に深く刻まれている。だが、今の武揚の胸にあるのは、敗者の痛みではなく、開拓者としての静かな決意だった。

「榎本殿、見えてきましたな」  

松本十郎が、潮風に目を細めながら言った。  

「ええ……変わらぬようで、変わった。そんな顔をしておる」  

武揚は、港に並ぶ建物を見つめた。木造の倉庫が増え、港には新しい船が停泊している。  開拓使の手が、確かにこの地を変えつつあった。船が桟橋に着くと、開拓使の役人たちが一斉に頭を下げた。その中には、以前村で出会った若者の姿もあった。泥だらけで畑を耕していた彼が、今は立派な役人の装束を着ている。

「榎本様、お帰りなさいませ!」  

若者は、誇らしげに胸を張った。  

「あなたが交渉をまとめてくださったおかげで、北の海が守られました。村の者たちも、皆喜んでおります」  

武揚は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。  

「わしは、ただ道をつけただけだ。歩くのは、おぬしらだ」  

「いえ、あなたが戻ってきてくださったことが、何よりの励みです」

その言葉に、武揚は静かに頷いた。――この大地は、わしを必要としている。その実感が、確かな重みとなって胸に宿った。

黒田清隆が、馬にまたがって現れた。相変わらずの鋭い目つきだが、どこか嬉しそうでもある。  

「榎本殿、遅かったではないか」  

「遅いとは失礼な。海はわしの都合に合わせてはくれん」  

「ふん、相変わらず口が減らん」  

黒田は、鼻で笑った。  

「だが、戻ってきてくれて助かる。蝦夷は広い。わし一人では手が回らん」  

「わしも一人では無理だ。だが、皆でやれば道は開ける」  

「その通りだ」

黒田は、馬上から地図を広げた。そこには、まだ白紙の部分が多く残っている。  

「見よ、榎本殿。ここからが本当の開拓だ。千島を得た今、北の海路を整え、移民を増やし、産業を育てねばならん」  

「やることが山ほどあるな」

「山ほどあるから、おぬしを呼んだのだ」

武揚は、地図の白い部分に指を置いた。――ここに、未来を描くのだ。敗者としてではなく、開拓者として。

「黒田殿。わしは、この大地に骨を埋める覚悟で戻ってきた」  

「よかろう。ならば、まずは北の港を見てくれ。新しい計画がある」  

「また厄介な仕事を押しつける気だな」  

「厄介だからこそ、おぬしに任せるのだ」

武揚は、思わず笑った。――この男とは、どうにも縁が切れぬ。だが、その縁こそが、北の未来を動かす力になる。

港を離れ、北の風を胸に受けながら、武揚は静かに歩き出した。敗者としてではなく、外交官としてでもなく。この大地の未来を築く者として。北の空は、どこまでも高く澄んでいた。その下で、榎本武揚の新たな戦いが、再び始まろうとしていた。


「北の港に灯る火」


函館からさらに北へ向かい、武揚は開拓使が新たに整備を進めている港町へと足を運んだ。そこは、かつては小さな漁村にすぎなかったが、今では港の形が整い、木材を積んだ荷馬車が行き交い、移民たちの声が響く活気ある場所へと変わりつつあった。

「榎本様、お待ちしておりました!」  

迎えに出てきたのは、若い技師の男だった。頬は風に焼け、手はひび割れているが、その目は強い光を宿している。  

「黒田長官から伺っております。港の視察をお願いしたいと」  

「視察というより、わしが学ばせてもらうのだ」  

武揚は笑いながら答えた。  

「この地を変えているのは、おぬしらの手だ」

技師は照れくさそうに頭をかいた。  

「いえ、まだまだです。冬になれば海は荒れ、岸壁は壊れ、船は寄れなくなる。改良すべきところばかりで……」  

「だからこそ、やりがいがある」  

武揚は、港に並ぶ木杭を見つめた。潮風に晒され、まだ頼りないが、確かに未来の形をつくり始めている。港の奥では、移民たちが荷を運び、漁師たちが網を修繕していた。その中に、武揚が以前出会った漁師の姿があった。  

「お侍さん!」  

漁師は、嬉しそうに駆け寄ってきた。  

「戻ってきたんだな!」  

「戻ってきたとも。海はどうだ」  

「相変わらず気まぐれだが……悪くねえ。千島が日本のものになったって聞いて、皆ほっとしてる」  

漁師は、海を指さした。  

「この海は広いが、守るべき道がある。あんたがその道をつくってくれたんだ」

武揚は、胸の奥が熱くなるのを感じた。外交の場で交わした言葉が、こうして現実の生活を支えている。その実感が、彼の背中を押した。

「榎本殿」  

松本十郎が、港の端に立つ灯台を指さした。  

「見てください。あれは、あなたがロシアにいる間に建てられたものです」  

灯台はまだ小さく、白い壁もどこか粗削りだったが、夕暮れの光を受けて静かに輝いていた。  

「この灯台が、北の海を行く船を導くのです」  

松本は、誇らしげに言った。  

「あなたが切り開いた道を、今度は灯台が照らすのですな」

武揚は、しばし灯台を見つめた。――灯りがある。かつて敗北の闇に沈んだ自分を照らすように、北の海に灯りがともっている。

「松本殿」  

武揚は、静かに言った。  

「わしは、この灯りをもっと増やしたい。港を整え、海路を開き、蝦夷を日本の北の柱にする」  

松本は深く頷いた。  

「あなたなら、できます」  

「わし一人ではできん。だが、この大地には、やる気のある者が多い」  

武揚は、港で働く人々を見渡した。  

「皆でやれば、必ず道は開ける」

そのとき、港の向こうから子どもたちの笑い声が聞こえた。泥だらけの顔で走り回る子どもたちの姿は、かつて村で出会った少年たちと重なる。――この大地に未来がある。その未来を守るために、わしは戻ってきたのだ。

北の風が吹き抜け、灯台の火が揺れた。だが、その灯りは消えなかった。武揚は、その光を胸に刻みながら、静かに歩き出した。こうして、榎本武揚の開拓者としての第二の戦いは、確かな灯りとともに始まったのである。


【第五章 北の未来】


「開拓使の新たな試練」


蝦夷へ戻って数ヶ月。武揚は、開拓使の仕事に再び深く身を投じていた。外交の場で国境を定めた男が、今度は泥に足を取られながら、北の大地の未来を形づくろうとしている。だが、蝦夷の現実は、条約の成功とは裏腹に厳しかった。

「榎本殿、また予算が削られました」  

書記官が、青ざめた顔で書類を差し出した。  

「中央からの指示で……開拓使の支出が多すぎると」  

「多すぎる?」  

武揚は、思わず鼻で笑った。  

「この大地を開くのに、金がかからぬと思っておるのか」  

「しかし……政府は財政難でして」  

「財政難なら、なおさら蝦夷を育てねばならん。ここは未来の柱だ」

武揚の声には怒りよりも、深い焦りが滲んでいた。――このままでは、北の未来が閉ざされる。その危機感が、彼を突き動かしていた。

松本十郎が、心配そうに言った。  

「榎本殿、あまり無理をなさると……」  

「無理をせねば、蝦夷は動かん」  

武揚は、机に広げた地図を指で叩いた。  

「港、道路、移民の住居、学校……どれも途中だ。ここで止めれば、すべてが無駄になる」  「しかし、中央は……」  

「中央は、蝦夷の風を知らん。海の匂いも、雪の重さも、村人の苦労も知らん」

その言葉には、かつて敗者として見捨てられた大地への深い愛情があった。

そのとき、黒田清隆が勢いよく部屋へ入ってきた。  

「榎本殿、聞いたか」  

「予算の件か」  

「そうだ。中央は開拓使を疑っておる。金の使い道が不透明だと」  

「不透明?」  

武揚は、眉をひそめた。  

「わしらは一銭たりとも無駄にしておらんぞ」  

「だが、中央の役人は帳簿しか見ん。現場を見ずに判断する」  

黒田は、机に拳を叩きつけた。  

「このままでは、蝦夷の未来が潰される」

武揚は、静かに立ち上がった。  

「黒田殿。わしが中央へ行こう」  

「おぬしが?」  

「わしが行って、蝦夷の現実を話す。外交の場でロシアを動かしたのだ。中央の役人くらい、どうにかなる」  

黒田は、しばし武揚を見つめ、やがて深く頷いた。  

「……頼む。おぬししかおらん」

松本が驚いた声を上げた。  

「榎本殿、また旅に出られるのですか」

「旅ではない。戦だ」  

武揚は、北の空を見上げた。  

「蝦夷の未来を守るための、もう一つの戦いだ」

窓の外では、冷たい風が吹き抜けていた。だが、その風は武揚の背中を押しているようでもあった。――わしは、まだ終わっておらん。北の大地の未来をつくるために、何度でも立ち上がる。こうして榎本武揚は、再び中央へ向かう決意を固めた。外交官としてではなく、開拓者として。そして、北の大地の声を届ける者として。


「中央との対峙」


東京に戻った武揚を待っていたのは、冷たい風ではなく、もっと冷たい視線だった。開拓使の支出が多すぎる――中央の役人たちは、その一点を執拗に突いてきた。蝦夷の現場を知らぬ者たちが、帳簿の数字だけを見て判断する。武揚にとって、それはロシアの氷よりも厄介な敵だった。

「榎本君、開拓使の支出は度を越している」  

財務省の役人が、鼻にかかった声で言った。  

「道路、港、移民の住居……どれも必要以上に金がかかっているように見える」  

「見える、では困る」  

武揚は、静かに言い返した。  

「蝦夷の冬を知っておるのか。雪は屋根を潰し、風は家を吹き飛ばす。安物の建物では、人が死ぬ」  

「しかし、予算には限りがある」  

「限りがあるからこそ、未来のために使うのだ」

役人たちは顔をしかめた。武揚の言葉は正論だが、彼らには響かない。彼らの目に映るのは、数字と帳簿だけだ。

「榎本殿、感情論では困る」  

別の役人が、冷たく言い放った。  

「蝦夷は重要だが、国全体の財政を圧迫するわけにはいかぬ」  

「感情論ではない」  

武揚は、机に広げられた地図を指で叩いた。  

「蝦夷は日本の北の盾だ。ここを育てねば、国の未来は危うい」  

「未来、未来と……あなたは夢を語りすぎる」  

「夢ではない。現実だ」

その瞬間、部屋の空気が張りつめた。武揚の声には、敗者としての痛みと、開拓者としての覚悟が宿っていた。

沈黙を破ったのは、大隈重信だった。彼は、眼鏡の奥の鋭い目で武揚を見つめながら言った。  

「榎本君。君の言い分は理解できる。だが、中央の財布は一つだ。蝦夷だけを優遇するわけにはいかん」  

「優遇ではない。必要な投資だ」  

武揚は、少しも引かなかった。  

「蝦夷を育てれば、北の海路が開ける。漁業も貿易も伸びる。国の利益になる」  

「……しかし、今は金がない」  

大隈は、深いため息をついた。  

「開拓使の支出は、国会でも問題視されている。世論も厳しい」

武揚は、しばし黙った。――世論か。蝦夷の現実を知らぬ者たちが、数字だけで未来を語る。その理不尽さに、胸の奥が熱くなる。

「大隈殿」  

武揚は、静かに口を開いた。  

「わしは、蝦夷の人々の顔を知っておる。泥にまみれ、寒さに震えながら、それでも未来を信じて働く者たちだ」  

役人たちが、わずかに息を呑んだ。  

「彼らの努力を無にするような決定は、断じて許されぬ」  

「……榎本君」  

大隈は、武揚の目を見つめた。  

「君は本気なのだな」  

「本気だ。蝦夷は、わしの第二の故郷だ」

その言葉には、誰も反論できなかった。

会議が終わり、廊下に出た武揚に松本十郎が駆け寄った。  

「榎本殿、どうでしたか」  

「簡単にはいかん」  

武揚は、疲れたように肩を落とした。  

「だが、まだ終わりではない。中央を動かすには、もっと強い言葉と、もっと確かな証が必要だ」

松本は、静かに頷いた。  

「あなたは、また戦うのですね」  

「戦うとも。蝦夷の未来のためにな」

東京の空は、どこまでも灰色だった。だが、武揚の胸には、北の澄んだ空が確かに広がっていた。


「蝦夷の声を届けるために」


中央との交渉は難航していた。武揚は、東京の会議室で数字と理屈を並べる役人たちと向き合いながら、ふと気づいた。――この者たちは、蝦夷の風を知らぬ。どれほど言葉を尽くしても、北の大地の現実は伝わらない。

その夜、武揚は宿舎の机に向かい、蝦夷で出会った人々の顔を思い浮かべていた。泥だらけで畑を耕す若者、海に挑む漁師、笑顔で走り回る子どもたち。 彼らの未来を守るために、今の自分がいる。

「……言葉だけでは足りぬか」  

武揚は、静かに呟いた。  

「ならば、見せるしかない」

翌朝、武揚は大隈重信のもとを訪れた。 大隈は書類の山に埋もれながらも、武揚を見ると眼鏡を押し上げた。  

「榎本君、また来たのか」  

「大隈殿。蝦夷へ来ていただきたい」  

「……蝦夷へ?」  

大隈は、思わず手を止めた。  

「私は忙しい。中央の仕事が山積みだ」  

「だからこそ、来ていただきたい」  

武揚は、まっすぐに言った。  

「帳簿では分からぬ現実が、蝦夷にはある。数字では測れぬ未来がある」  

「……君は、相変わらず強引だな」  

「強引でなければ、北は動かぬ」

大隈はしばし沈黙し、やがて深いため息をついた。  

「……分かった。行こう」  

「感謝いたす」  

武揚は深く頭を下げた。  

「蝦夷を見れば、必ず理解していただける」

その足で、武揚は他の大臣や議員にも声をかけた。  

「蝦夷を見てくれ。数字ではなく、人を見てくれ」  

彼の熱意に押され、数名の議員が同行を決めた。

松本十郎は驚きの声を上げた。  

「榎本殿、本当に中央の要人を連れて行くのですか」  

「行くとも。蝦夷の未来を決める者たちが、現実を知らぬまま判断するのは許されぬ」  「しかし、彼らは寒さに耐えられますかね」  

「耐えられぬなら、それもまた現実だ」  

武揚は、少し笑った。  

「蝦夷は甘くない。だが、甘くないからこそ価値がある」

出発の日。東京駅には、大隈をはじめとする政府要人たちが集まっていた。彼らの顔には不安と興味が入り混じっている。

「榎本君、本当に行くのだな」  

大隈が言うと、武揚は力強く頷いた。  

「はい。蝦夷の声を、あなた方に届けるために」  

「……よかろう。では、見せてもらおう。君の言う未来というものを」

汽笛が鳴り、列車が動き出した。武揚は窓の外を見つめながら、胸の奥で静かに誓った。――この旅で、蝦夷の未来を変えてみせる。敗者としてではなく、開拓者として。北の大地の声を、必ず中央へ届けるのだ。

列車は、ゆっくりと北へ向かって走り出した。その先には、武揚が守るべき大地と、変えるべき未来が待っていた。


「北の大地が語るもの」


列車が北へ向かうにつれ、東京の喧騒は遠ざかり、窓の外には広大な田畑と雪をいただく山々が姿を現した。同行する大隈重信や議員たちは、最初こそ談笑していたが、次第に言葉を失っていった。――これが、日本の北か。その圧倒的な広さと厳しさが、彼らの胸に静かに迫っていた。

函館に到着すると、冷たい海風が一行を迎えた。大隈は外套を押さえながら、思わず顔をしかめた。  

「……これは、想像以上だな」  

「これでも春先です」  

武揚は、淡々と答えた。  

「冬になれば、風は刃のようになり、雪は家を埋める。だからこそ、強い建物と港が必要なのです」

港では、漁師たちが網を干し、移民たちが荷を運んでいた。その姿を見た議員の一人が、驚いたように言った。  

「こんな寒さの中で……よく働けるものだ」  

「働かねば、生きられません」  

武揚は、漁師の男に声をかけた。  

「調子はどうだ」  「

まあまあだな。だが、港がもっと整えば、冬でも船を出せる。そうすりゃ、もっと稼げるんだが」  

漁師は、議員たちを見て言った。  

「お侍さんたち、頼むよ。ここで生きてる俺たちのこと、忘れないでくれ」

その言葉に、大隈は目を伏せた。帳簿の数字では見えなかった「生活」が、そこにあった。次に訪れたのは、開拓村だった。泥にまみれた畑で、若者たちが鍬を振るっている。その中の一人が、武揚に気づいて駆け寄ってきた。  

「榎本様!また来てくださったんですね!」  

「おぬし、立派になったな」  

「ええ、村も少しずつ良くなってます。でも……冬はやっぱり厳しいです。家が壊れたり、食糧が足りなくなったり」  

若者は、議員たちに向き直った。  

「だから、どうか……開拓を続けてください。ここで生きたいんです」

議員たちは、言葉を失っていた。彼らの目に映るのは、数字ではなく、人の顔だった。その夜、村の集会所で、武揚は大隈と向き合った。薪のはぜる音だけが、静かに響いている。  

「大隈殿。これが蝦夷の現実です」  

武揚は、ゆっくりと言った。  

「ここに生きる者たちは、未来を信じている。だが、その未来を支えるのは、中央の判断だ」  

大隈は、深く息を吐いた。  

「……榎本君。私は、蝦夷を甘く見ていたようだ」  

「甘く見ていたのではない。知らなかっただけです」  

武揚は、穏やかに言った。  

「だから、見に来ていただいた」

大隈は、しばし沈黙し、やがて力強く頷いた。  

「分かった。開拓使の予算は守ろう。いや、必要なら増やすべきだ」  

「大隈殿……」  

「蝦夷は日本の未来だ。ここを育てねば、国は強くならん」

その言葉に、武揚は胸の奥が熱くなるのを感じた。――これで、道が開ける。蝦夷の未来が、確かに動き始めた。

外に出ると、夜空には満天の星が広がっていた。北の空は、どこまでも澄んでいる。武揚は、その星々を見上げながら静かに呟いた。

「わしは、この大地を信じている。だからこそ、未来をつくるのだ」

その声は、冷たい風に乗って、北の大地へと溶けていった。


【終 章 未来へ続く航路】


春の気配がわずかに漂い始めた頃、武揚は再び蝦夷の大地に立っていた。中央の要人たちが視察を終え、開拓使の予算は守られ、むしろ増額される見通しとなった。その知らせを受けた村人たちは、涙を浮かべて武揚の手を握った。

「榎本様……これで、冬を越せます」  

「港も、学校も、続けられます」  

「本当に、ありがとうございます」

武揚は、ただ静かに頷いた。――守れたのだ。この大地に生きる人々の未来を。だが、彼の胸には、達成感よりも別の思いがあった。それは、終わりではなく、始まりだという確信だった。

松本十郎が、隣でしみじみと呟いた。  

「榎本殿……あなたは、本当に蝦夷の人々に愛されていますな」  

「愛されているかどうかは知らんが」  

武揚は、北の空を見上げた。  

「わしは、この大地に育てられた。敗れたときも、迷ったときも、ここがわしを受け入れてくれた」  

「だから、あなたは戻ってきたのですね」  

「そうだ。わしは、この大地に恩を返さねばならん」

港では、灯台の火が夕暮れの中で揺れていた。その灯りは、かつて敗北の闇に沈んだ武揚の心を照らした光でもある。

黒田清隆が、馬にまたがって現れた。  

「榎本殿。中央の件、見事であった」  

「黒田殿のおかげだ」  

「いや、おぬしの熱が動かしたのだ。わしには真似できん」  

黒田は、珍しく柔らかい笑みを浮かべた。  

「蝦夷は、これから本当に変わるぞ。おぬしの描いた未来が、形になる」  

「未来は、皆でつくるものだ」  

武揚は、港で働く人々を見渡した。  

「わし一人では何もできん。だが、この大地には力がある」

そのとき、子どもたちが駆け寄ってきた。泥だらけの顔で、無邪気に笑っている。  

「榎本さん! 港がもっと大きくなるんだって!」  

「船もいっぱい来るんだよ!」  

「おれ、大きくなったら船に乗るんだ!」

武揚は、思わず笑った。――これだ。この笑顔こそが、未来そのものだ。

松本が、静かに言った。  

「榎本殿。あなたは、もう敗者ではありませんな」  

「敗者であったことに変わりはない」  

武揚は、穏やかに答えた。  

「だが、敗れた者にも未来はある。いや、敗れた者だからこそ見える未来もある」  

松本は深く頷いた。  

「あなたの歩みは、きっとこの大地の歴史になります」  

「歴史はどうでもよい」  

武揚は、北の海を見つめた。  

「大事なのは、この大地が生き続けることだ」

夕陽が海を赤く染め、灯台の火がその中で静かに揺れていた。その光は、まるで未来への道を照らすようだった。――わしは、まだ歩き続ける。この大地とともに。

北の空の下で、彼の歩みはこれからも続いていく。未来へ、そしてその先へ。



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