変なおじいさん
アパートのどこかの部屋から笑い声が聞こえてくる。夜8時。きっと、家族団欒のひとときなのだろう。何人家族だろうか。私の部屋と同じ間取りで暮らしているんだな。
「……せま」
呟く自分に嫌気がさした。無意識のうちに一人あたりの専有面積でマウントを取っている。くだらない。いつからそんな惨めな人間に成り下がったんだ、私は。
また言いようのない孤独に苛まれる夜が来るのかと思うとたまらない。私はテレビのリモコンに手を伸ばした。気が紛れれば何でもいい。近頃あまりテレビを見ないので、夜8時、家族揃って楽しく見る番組がどれなのかも分からない。でも──
これしかないな、と思う番組が画面に映しだされていた。何十年も続くお笑いバラエティ番組。誰もが知っていて、愛されてもいるが嫌われてもいる。それでも視聴率が取れるから、こうして終わらずに続いているのだろう。主役はもう、この世にいないというのに……。
あの日、私はいつも通り彼からの返信を待つしかなかった。一人で暮らすには広すぎるアパートのこの部屋で、私は他に何をするでもなく、スマホの画面を見つめたまま固まっていた。送信した写真を見返す。画面の中にいるのは、私──かどうか自分自身でも疑わしいような、あられもない姿の私だった。
彼が喜んでくれるからに他ならない。彼にしか見せない。いや、見てもらえないと言ってもいい。人に喜ばれるような体ではない。それでも、彼はいつも写真を欲しがってくれた。テレビの向こうで、あんなに綺麗な人たちが周りにいるのに、私の体を見たいと言った。私も彼に見てほしかった。
返信は来なかった。そして、もう二度と来ない。最後の写真を見てもらえたのかどうかもわからない。葬儀は近親者のみで執り行われた。ネットニュースはあることないこと勝手に言う。私が知り得る真実は、彼の人生の最後に、裸の写真を送ってくる女がいたということだけだった。
最後の写真を送る1ヶ月くらい前に、
「これ、覚えていますか?」
と送った写真がある。後に何十年も続くあの番組が始まる前、彼がまだコメディアンに憧れるただの若者だった頃に撮った写真。地方のお祭りか何かで変なおじいさんのキャラを演じている。表情こそ素人らしくはにかんでいるものの、日本中を笑顔にするコメディアンとしての才能は既に隠しきれていなくて、抜群に面白かったことを覚えている。
彼が何人と付き合ったとか、どれだけの女の体を知っているとか、私には分からない。それでも──たとえ私だけじゃないとしても──好きだった。ずっと好きだった。人生の苦しかった時期も、彼のおかげで乗り越えられた。私が生きていられるのは彼のおかげだと、本気でそう思う。あの写真には、私の何十年分の人生が映っていた。返信はすぐに来た。
「そんなのはいい。いつもの送って」
と。
後にも先にも、私が昔の写真を送ったのはその一度きりだ。"裸の写真を送る私"も、"何十年も大切にしてきた写真を送る私"も、同じ私。それなのに、いったい私は何を高望みしてしまったのだろう。「私だけじゃない」彼に、私だけの何かを認めさせたかったのだろうか。何のために?綺麗な人たちに囲まれる彼が、お世辞にも綺麗と言えない私の写真を求めてくれる。それが、彼の"愛"でなくて何だと言うのだ。
ぽろりと涙が出た。彼は何も悪くない。悪いのは私だ。惨めな思いをしたくなくて、「どうせ私だけじゃないんでしょ」と心の隅で思うことで自分を守っていた。もし私が、彼の"愛"を信じて覚悟して彼を愛していたら?もし私が、本当の心をすべて彼に差し出していたら?もしかしたら彼は、こんな寂しい最期を迎えなかったかもしれないのに……。
窓の外からまた笑い声が聞こえる。みんな、気づくのが遅い。生きているときに、もっと笑ってやれよ。私は、何十年も前から彼を見て笑っていたよ。私は、ずっと彼だけを見ていたんだよ。私は、彼の孤独もちゃんと知っていたよ。私は──いや、何だこれ。"一人あたりの専有面積マウント"より酷い。私は窓を閉めた。
テレビに映る彼と、一対一で向き合う。"追悼番組"と題されたそれは、彼の作ったコントの名場面を流している。"笑って追悼しましょう"という趣旨なのだろうが、これで笑える神経の持ち主がいったいどれだけいると思っているのだろう。見る価値なしと消そうとした、その時だった。
「これが彼の遺作となります。」
電源ボタンに置いた指が止まる。神妙な面持ちの司会者が続ける。
「彼が残した台本を、ご遺族の許可を得て…」
云々。
「彼に所縁のある芸人が、敬意を込めて演じます。」
待ってくれ…
「熱演の新作コントは、CMのあと!」
待ってくれ!!
「酷いじゃないか…」
声にならないくらいの掠れ声。涙が止まらない。ご遺族の許可だと?彼の許可は?こんな形で世に発表されること、彼は本当に望んでいるのか?心の整理がつかない。しかし、私が見る価値ありかなしかの判断をするのを待たずに、CMは明けてしまった。
私の判断を助けたのは、CM明けのビデオメッセージだった。彼が件の台本について、自ら語っている。驚いたのはその内容だ。彼は最初から、遺作のつもりでこの台本を書いたというのだ。つまり、自身が亡くなった後に、今まさにやっているこのような番組で発表してほしい、という話だ。まさか、本人から許可が出ていたとは。それならば、見る価値なしどころか絶対に見なければならない。私は、食い入るようにテレビを見つめた。
私は、笑っていた。彼は出ていない。それでも、彼の人生がそのコントに詰まっているような気がして、なんと言うか…温かかった。彼の温もりを感じながら、同時に、私は何か懐かしいものを感じた。コントの主役は、変なおじいさんのキャラを演じていて──
「えっ…」
私は気がついた。気がついて、胸が締めつけられた。変なおじいさんのキャラだ!あの、地方のお祭りで彼が演じていた、変なおじいさんのキャラだ!このコントは、新作なんかじゃない。ずっと昔に、彼が作ったものだ。でも、そのことを知っているのはきっと私だけだろう。どうしてこれを…?
コントが終わる。再び彼のビデオメッセージが流れる。
「どうしても言いたいことがあってね…」
はにかんだ表情。昔の写真と同じ。でもそれは、素人だったからというわけではなく、ずっとこれが彼の表情なのだ。
「でも、言えないんだよ。こうでもしなきゃ…」
「こうでもって…」
生前には言えなかったという意味だ。
「私はテレビの世界で売れっ子になれた。でも…」
ここではにかむのをやめ、カメラ目線になる。
「テレビに出る前に笑ってくれた人がいたんです。」
目が合う。息が止まりそうになる。
「その人のおかげで、苦しい時期も頑張れた。」
またカメラから目をそらし、照れながら言う。
「長い間、ありがとうございました。」
テレビの向こうで、彼は深々と頭を下げた。触れない。会えない。それは、ずっと前からそう。これからも、ずっとそう。それでいいと思えた。初めてちゃんと、そう思えた。
何十年も前の大切な写真。送らなければよかったと思っていた。でも彼は、ちゃんと受けとめてくれていたんだ。私の"愛"を。そして、彼は"愛"を胸の内にしまったまま、「そんなのはいい」って言ってくれたんだ、きっと。はにかんだ表情で。
「寂しい人…」
私は呟く。それは、寂しい女にならないためのマウントだ。窓を開けてみる。団欒の時間は終わったらしく、今度は風呂上がりらしい子どものはしゃぎ声が聞こえてくる。もう孤独な夜は来ない。幸せそうな家族の声を聞きながら、私はスマホの中にいる変なおじいさんと微笑みあった。




