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薄藍のファインダー

作者: 鳩人間
掲載日:2026/02/18

 紺色のブレザー、グレーの細かなチェックのプリーツスカート、真っ白なシャツに赤いリボンをスナップボタンでつけて、中学生としての自分が鏡の前に現れる。これが両親の望む姿なんだ。私はため息をついた。小さく、でもしっかりと。側から見ればただの呼吸にしか見えないだろうけど。世の中には我慢しないといけないことがある。1年前、私はこの翠嶺大学附属中学校に入った。どちらかと言えば中堅校といった立ち位置だが、進路サポートが手厚かったり部活動で活躍する生徒が多いという特徴がある共学のマンモス校だ。それを抜きにしても、大学附属で進路が保障されていることや、地域の中でもそれなりに歴史がある学校ということで人気は高い。でも、私はここには入りたくはなかった。他に行きたいところがあった。女子校だった。ブレザーじゃなくて、セーラー服で。スナップボタンでつけるリボンじゃなくて、絹のスカーフを結んで。ただそれだけと思われるかもしれないけれど、物語の中でしか見ないような乙女の園としての憧れがあった。「きっともっと良いところだってある」とそう思う人もいそうだが、私にとってはそこが絶対的な楽園のように思えた。薔薇の咲く中庭、軽やかな笑い声、瀟洒な学舎。そんな生活を望んでいたのに。私はもはや叶わない美しい日々を思い描きながら、鞄を持って階段を降りた。あまり行く気力が起きないのも手伝って一段一段のろのろと降りていく。正直に言うと今の学校生活はつまらないわけではない。友人はいる。先生との関係も良好。成績も普通。でも、これでいいのかと心の底からもやもやとしたものが湧いてくる。だって、自分の意思を親に無視され半ば強引に連れて行かれたところだから。「過ぎた話だろう」と言うだろう。「今が楽しければそれでいいだろう」とも。しかし、納得はできない。もやもやと引っかかりを覚えながらも、今日も学校へ行く。


 私には百合亞という1年前からの親友がいる。人形のように美しく、強気で誇り高いお嬢様。普通の中学生とはオーラが全く違う。白百合の高潔さにたとえてもいいが、それよりも赤い薔薇のような気高さがある。もちろん、そんな人なので入学した時からみんな彼女に注目していた。どこかの社長令嬢だとか有名デザイナーの娘だとか、はたまた貴族の子孫だとか。どこまで本当か分からない噂を沢山流されていたが、本人は全く気にしていないようだった。私とはたまたま同じクラスで、たまたま私が彼女が好きなブランドのペンポーチを使っていたところに彼女が話しかけてきたのが交友のきっかけだったような気がする。でも、少し不思議なのが百合亞は一発で私だけを見つけてきたような感じがしたのだ。そう、前々から狙っていたような……?でもまぁ、一目惚れとかそんなものの類いだと思う。もしも狙っていたとしたらいつからかというのがあるけれど、私と百合亞はそれ以上前に接点はないと思うし。まぁでも彼女に惚れられているとはあまり思えないけれど。お互いなんだかんだ浮いていて趣味が合うからそれで繋がっただけだろう。

 そんなことを考えながら、校門近くの桜並木を通って中学校校舎に入って行く。百合亞の強烈な印象のせいか、長くいるにつれてずっと彼女のことばかり考えている気がする。校門のそばに何台か高級車が止まっているのを見た。多分、百合亞と似たような家の人たちのお迎えだろう。私を含めた大抵の人間は電車で通い、最寄りから何分もかけて歩いている。しかし、百合亞はお抱えの運転手がいるためかそのようなことは滅多にしない。どこか格差も感じるが、自分もなんだかんだ恵まれているという自覚はあるからこれ以上は文句は言えない。

 私と百合亞は中学2年生になってから同じクラスになった。しかも今回は初っ端から隣の席だ。私が廊下側、百合亞が窓側。しかも教室の最後尾という絶好の場所だ。教室の扉を開ける。人は相変わらず多い。私のクラスでも40人ぐらいはいるのではないだろうか。他のクラスでも大半はそれぐらいらしい。少子化なんていう言葉が幻に思えるほどだ。私が自分の席の近くに行くと、百合亞は既に席に座っていた。黒いストレートの長い髪、猫のような綺麗な形の瞳、制服を自分で少しアレンジしてスカートの下からレースがのぞいている。おそらくペチスカートのようなものを履いているのだろう。「別にペチスカートを禁止する校則なんてないから」という理由で勝手に履いていると1年生の頃に教えてもらった。どうやら校則をガッツリ守る意識は最初からないらしい。

「おはよう百合亞」

私が声をかけると、彼女はこっちをチラッと見る。

「えぇおはよう」

いつもの通りの素っ気なさだ。若干不機嫌な言い方も。百合亞はずっとこの調子なのでクラスメイトからの評価は極端に高いのと極端に低いのとではっきりと分かれる。素っ気なさと気の強さで「かっこいい!」となるタイプと「何あの人、凄く失礼じゃない?」となるタイプで。そのせいで、入学時にあんなに「どうやって百合亞の取り巻きになろうか」と考えていた人間は綺麗にいなくなったのだった。会話を振ってもあまり続かない時もあるので、非常に気長な人間しか無理なところもある。まぁ、そういう感じで気難しいのだ。どう会話しようか考えていると、チャイムがなってしまった。元々けっこうギリギリに教室に着いたのでしょうがない。先生が入ってくるのを見て私は百合亞に向けていた体をホワイトボードに向けた。

 予定通り4限までの授業が過ぎていった。あと2限のみしか残っていないことに心の中でほっとした。7限目まである日もあるから、6限ぐらいだとまだまだ気楽なものだった。昼休みは食堂もあるが、私たちは教室で食べることが多い。移動時間が面倒に思えてしまうのと食堂は人がやたらと多いのであまり好きではないのがある。私が鞄からお弁当を出すと、百合亞も鞄から自分のものを出した。真っ黒のお弁当箱である。意外と普通だが、黒を好んで使っているのは彼女が大好きなゴスロリを意識しているのだろう。私は桜色のお弁当箱である。こう見ると、趣味が結構違うなと思う。どちらも無地のシンプルなものではあるけれど。箱を開けていつもの通りの中身を見ながら食べ始める。しばらくすると、ふと百合亞が顔を上げた。

「ねぇ、華」

「どうしたの?」

百合亞は食事中に話すことが殆どない。だからこのように話しかけてくるのは珍しかった。不思議がって聞き返すと、百合亞は相変わらず不機嫌そうな顔のままこう言った。

「あんた、つまらなくない?ここの学校生活どう思ってるのよ。」

唐突な質問ではあるものの、それに対する私の答えはいつも決まっていた。

「大丈夫だよ。百合亞がいて楽しいし。」

本当は不満に思っていることが多いけど、それはあくまでも私の中で頑張って消化しないといけないものだから……。

「絶対に嘘だ。」

百合亞に思いっきり睨まれた。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ。だったらなんでそんなに生気がないの。私、あんたが本当はそんな諦めた、疲れた、萎んだ顔しない人間って知っているもの!」

私の態度が百合亞の激しい気性にさわったらしい。周囲がなんだなんだとこちらを見始めた。やばい。

「百合亞、私はいつもの通りなんだよ。これでいいんだよ、全て。」

でもこの程度は全然止まらない。

「あぁもう、その『上手く隠しています』っていう仕草をやめてよ!あんたはその心の奥にあるものを、その諦めを、外に流して入れ替えないといけないのに!そうしないと枯れるじゃない!」

「百合亞……。」

「華、あんたは自分の気持ちをよく見て。もし見ているんだったら絶対に無視なんてしないでよ。」

そのまま百合亞はぷいっとそっぽを向いてしまった。もう困惑するしかない。よく分からない。その後、軽い混乱状態のまま午後の授業は過ぎて、帰りも別々になってしまった。ふと空を見上げると、夕焼けが覆っていた。燃えるような空、真っ赤な強烈な色。百合亞とどこか似ている色。普段なら美しいと思えるが、今はまるで自分を責め立てるもののように感じた。私は白い校舎から溢れ出てくる中学生や高校生、そして隣接する大学から帰る人々に流されながら、とぼとぼと帰った。


 家に帰った。いつもより遅くなってしまったような気がする。帰ってくるたびに、凛お姉ちゃんが今年から一人暮らしをし始めたことに改めて気付かされて、どこか寂しい気持ちになる。玄関に並ぶ靴もどこか足りない……。と思ったら、凛に加えて今日はもう1人足りないようだ。いつも鞠が履いているおしゃれなレモンイエローのパンプスがない。どこかに出かけているのだろうか。リビングダイニングに入ると、外から匂っていた夕ご飯の匂いが一段と濃くなった。ハンバーグの良い匂いがする。が、食欲はあまり湧かなかった。百合亞の激昂の原因が気になりすぎて、どうも精神か体力かそれともどちらも消耗しているようだ。

「あら、おかえり。だいぶ疲れているようね。」

「ただいま。ちょっと色々あってね。」

私はそう言いながら、制服姿のままソファに座り込む。普段は帰ったらすぐに2階に行って着替えるのだが、階段を上るのも若干の怠さがある。

「翠嶺に入って勉強頑張っているものねぇ。お姉ちゃん超えもあるかもねぇ。」

それを聞いて思わず苦笑いをする。私はあの姉たちを超えることは殆どできないと思う。凛お姉ちゃんは、中高で成績は校内トップレベル。大学も上位の国公立だ。鞠お姉ちゃんは、絵のコンクールで何度も賞を受賞している……。そんな姉たちを超えるのはほぼほぼ不可能。なんせ私は今いるコース内の学業成績で最高20位ぐらいしか取れたことがないのだから。普段は30〜40位を彷徨うだけ。約100人の中で中の上。夢のまた夢。こうやって母が「お姉ちゃんを超えるかもしれない」と言ったのは、私のやる気をどうにか出させようとおだてているからだろう。あまりにも雑な策ではあるけれど、ここは乗ってあげないと母は不機嫌になるかもしれない。

「うん、頑張るよ。お姉ちゃん超えできるかどうかはわからないけど、全力でもっともっと頑張るから。」

そう私が言うと、母は野菜を盛り付けながら笑顔で私に顔を上げてこう言った。

「本当に華は頑張り屋さんねぇ。嬉しいわ。」

あぁ、良かった。嬉しそうにしてもらえた。力が少し抜ける。ほっとしていると、母は再び口を開き呟いた。

「本当に素晴らしいわ。あの子が中学生の頃よりもずっと……。どれだけ絵を描いてもあの子は頭が弱いから……。」

にこにこと笑いながら小声で優しくそう言う母に一瞬きょとんとした。だが、すぐに私は大事な人を盾にしてしまったことに気がついた。ある意味では将来の同業者であり、後継者となる娘のこと(鞠)のことをそんなふうに言えるのだ。私はなるべく表情を何事もないふうに保った。まるで聞こえていないように。そしてこの場に鞠お姉ちゃんがいなくてよかったと思った。小声であってもこんなことは聞きたくないだろうから……。

 しばらくすると、玄関の方がふいに騒がしくなった。聞き慣れた声がする。どうやら鞠お姉ちゃんが帰ってきたようだ。

「おっかえりー!華、先に帰ってたのー!」

鞠お姉ちゃんが重そうなリュックと画材一式を入れているトートバッグを床に投げ出して、私の目の前にやって来て、ぎゅーっとハグをしてきた。鞠お姉ちゃんは家族の中で1番元気で華やかでちょっと馴れ馴れしい。疎まれたりすることもあるらしいが、私はけっこう好きだ。しばらくハグされるままになっていると、どこか幸せな気分になってくる。でもこうしている時、母は少し複雑な表情をしているように見える。少し前に鞠お姉ちゃん自身から聞いたことがあるが、母は鞠お姉ちゃんにどうやら嫉妬しているらしい。「素晴らしい才能を持っているから」と。昔はそんなことなかったのにな。さっきも鞠お姉ちゃんは母に「おかえり」の挨拶もしていない。さっきから私しか見ていない。どんどん周りは静かになっていって、場違いなテレビの賑やかさだけが残った。すると、2階から誰かが降りてくる音がした。おそらく、父が書斎から出てきたのだろう。

「お、今帰ってきたのか?」

引き戸を開けた父が入ってくる。ソファの前で床に座っていた私たち2人を見て少し微笑んだ。

「全く2人は仲が良いな……。でもまぁ、ご飯ができているし早く席につきなさい。」

ふと見ると、いつのまにか準備が整っていた。母は黙って準備していたのだ。声をかけてくれたらいいのに、変に無表情になって母はいつもの席に座っていた。人形のような感情を抑えた顔。多分、母は不機嫌なのだろう。あぁ、逃げ出したい。早く食べよう。食べて、お風呂に入って、その後に逃げるように自分の部屋に籠ればいいんだ。あぁ、食事とかお風呂とか単なるロスタイムにしか思えなくて仕方がなかった。急ぎ足でどうにかこなしていく。父は不思議そうな、でもどこか分かっているような顔をしている。母は不機嫌なままだ。鞠お姉ちゃんは父と夢中になって話している。なんてアンバランスなんだろう。

 私は早めに「ごちそうさま」と言うしかなかった。そして急いで浴室に向かった。


 忙しい日だった。精神的な面で。逃げるように自分の部屋に行き、そう思った。私の家はやっぱり不均衡なんだと思う。お姉ちゃんたちはみんな優しい。父も母もしっかりと生活を支えている。立派な家で、服も娯楽もなんでも楽しめて……。今着ているパジャマもかわいくて生地も良い。桜色のサテン生地に紺色のパイピングと白の桜の刺繍がアクセントになっている。机は祖父からのお下がりでなかなかのアンティークだ。濃い茶色のライティングデスク。少し小ぶりではあるもののデスクワゴンと一緒に使っているせいかあまり気にならない。並よりも良いことは十分に分かっている。でも、どんどん壁のようなものが押し迫ってくる。家の空気が狭くなって淀んでいく。きっと、どうしようもない深淵で捻れているのだ。ひょっとしたら、私が生まれる何年も前からある暗い遺物が今になって現れてきたのではないか。思考がぐるぐると回る。最近はいつもそうだ。でも、どこに吐き出したらいいのか分からない。そもそも私は吐き出したいのだろうか。

 ふと、昼の百合亞の言葉を思い出す。

「『自分の気持ちをよく見なさい』かぁ……。」

吐き出して形にしないといけない。百合亞は難しいことをよく言う。言っていることはなんとなく分かるけど、実践しようとした時の心理的な高い壁を想定していないような。百合亞はやっぱり表現の天才だからだろうか?前に百合亞の家で見せてもらった素敵なドレスを思い出す。自分で作ったのだと教えてくれたあの漆黒のドレスを。百合亞はゴスロリが好きなのだが、単に買うだけではなく、自分で型紙から洋服を作ってしまう手先の器用さがある。正直に言うと中学生離れした器用さだ。素人目で見てもデザインも裁縫技術も飛び抜けて良い。黒いサテンもベルベットも、ガーネットのように赤いビーズ刺繍も白百合のようなリボン刺繍も、それら全てが繋がって、もはや1つの絵画のような作品を作り出す。それが黒須百合亞なんだ。それに比べて私は地に這いつくばる凡才。あんな高みは到底目指せない。そういや、私の周りには何かを表現するという点でなぜかやたらと優れている人間が多い。親戚も姉も母も百合亞も。私もその人たちに続いて色々やってみようとした。絵画、小説、漫画、作曲…………。どれ1つこれといってぴんときたものはなかった。強いていうなら、姉たちのついでにやらされた華道はそこそこの評価を得た。私は植物が好きなのだ。育てたり生けたり、つまり花や草を扱うこと全般はそれなりに得意なのだ。庭の一角でミントやラベンダーを育ててハーブティーを作る時もある。でも、それらも姉たちがやればもっと上手になるのだろうかと不安になってしょうがない。

「はぁ……どうすればいいのかな」

姉たちに聞く?でも、自慢でもなんでもなく全て「簡単にできるよ」と言われ、それに従ってやったのにできない自分に心が折れそうになるのではないか。それとももう一度華道をするか?そうだ、それが1番良いかもしれない。祖母の知り合いの先生だったはずだ。明日その人に電話しよう。私は安心して布団に入った。ファブリックミストのラベンダーの香りがする。疲れがすっと消えるようなそんな感じがした。


 翌日、私は学校が終わってから電話しようと考えていた。いつものように学校に行った。昨日、謎めいたことを唐突に言った百合亞もいつもの通り不機嫌そうな顔をしながら、頬杖をついて窓の外を見ていた。薄緑のカーテンが風に揺れて桜の花びらがわずかに開いたところから零れ落ちる。もう桜も散って葉桜の季節がやってくるのだ。その様子をちらりと見て、いつもの通り百合亞に挨拶をする。百合亞は少し機嫌よく返した。よく見ると風に吹かれてきた桜の花びらを手で弄んでいる。小さい頃に私もそういうことをしていたことをふと思い出し、どこか懐かしい気分になった。

「ねぇ、華。桜って美しいわね。特にこうやって散る時が。」

うっとりとした顔で百合亞がこっちに顔を向ける。

「ほんとうに綺麗だよね。いつまでも散っているところ見られたらいいのに。」

そう言うと百合亞は珍しく素直に「ええ、そうね。」と呟いた。

「そう考えると写真って凄いわね。絵だって一瞬で写せるけれど、他にも道具がいるわ。写真はカメラだけだもの。なんならスマホだけ。あんたが言ったことも簡単に叶うのよねぇ。」

たしかに言われてみればそうだ。当たり前にあるものほど何故か見逃してしまうものだとふと思った。ぼんやりと2人で窓の外を眺めていると、にわかに人が増えてきた。また今日も騒がしい日々が始まる。

 順調そのものの1日だった。しかも国語の作文を珍しく褒められ、なかなかに有頂天で帰宅することができた。ただ1つ残念だったのは、百合亞が用事があるということで迎えの車で帰ることになってしまったことである。これで2日連続私は1人で帰る羽目になったのだった。家に帰ってまずやることは、華道の先生への電話だった。やると決めたからには早いほうが良い。スマホの充電は殆どゼロに近かったため、家の電話でかけようと決めた。だいぶ前に小さなメモ帳に記した電話番号にかける。母にも確かめたからあっているはずだ。子機を使って電話番号を打っていく。あまり慣れないが、むしろ少しわくわくするものがあった。聞き慣れた保留音がしばらくした後、1人の女性が電話に出た。聞いたことのない声の人だ。新しいお弟子さんだろうか?

「あの、月城です……。◯◯様はいらっしゃいますか?」

自分の苗字を言うと電話の向こう側の女性は、「あ!」と声をあげた。どうやら聞いたことがあるらしい。一気に愛想が良くなった。

「月城……!ってことは◯◯先生の知り合いの!ひょっとしたら、あなたはそのお孫さんかしら?」

「はい、そうです。ご無沙汰しております。以前お世話になっていた先生の教室で学ばせていただきたいと思いまして。」

ちょっと緊張しながら返事をする。これだったら話が上手いこと通せそうだと油断をしたその時だった。

「……あのね、先生は1ヶ月前に亡くなられたのよ……。」

「えっ……。」

思わず身体が固まった。どこかひやりとするような冷たさがゆっくりと背後を伝っていき、遅れてまるで貧血のようにくらくらとしてくる。

「あら……その感じだと知らなかったのね……。でもしょうがないわ。急に亡くなられたもの……。ほんの数日まで忙しかったのもあってうまく情報が回っていなかったのかもしれないわ。急に伝えてしまってごめんなさいね。」

感覚が麻痺していく。

「いえ……。大丈夫です。お気遣いありがとうございます。ご遺族によろしくお伝えください……。じゃあ……。」

どうにか言葉を紡ぐ。かすれた、力のない声をどうにか絞り出して、電話を切った。しばらく受話器を持ったまんまぼんやりとしていたが、ようやく置いて自分の部屋に戻った。

 自分の部屋に入るとベッドに寝転んだ。白い無機質な天井が目に入る。窓の外では車の音がして人の声も聞こえる。いつもの通りの日常だ。でも、私だけがそうではない。時は残酷だ。ほんの数年とはいえ、私にもできることを見つけるきっかけとなった先生を知らないうちに奪い去ってしまった。なんというかさっきまでの気力が萎んでしまった。ぽっかりと穴が空いてしまったようだ。机に朝行く前に久しぶりに開けた華道の道具の一部がある。花鋏だ。片付ける気力もないが、どうにかして動かないといけない。これだけでも視界に入らないところにのけないとどこか落ち着かない。ベッドから起きる。どこか身体も気持ちも重い。たしかウォークインクローゼットの奥の引き出しにかためて置いていたはずだ。そこにしまったらもう1回ベッドまで行って、ぼんやりとしよう。そう思って、ウォークインクローゼットを探し始めた。ふとその時、服や何が入っているか分からない袋が散乱する中で、1つの固い物に手が当たった。なんだろうと袋の山と服のカーテンを潜って見てみると、それはカメラだった。両親か姉か誰かから貰ったデジタルカメラ。水のように澄んだペールブルーだ。いつからあったのだろうか。電源を試しに入れてみようとしたが、つかなかったのでとりあえずカメラと同封されていたケーブルに繋げて充電することにした。しかし、カメラか。今朝、百合亞が言っていたことを思い出す。容易く一瞬を写し取る道具。それがカメラだと。今、私が写し取りたいものはなんだろうか。いつのまにか空は暗くなっている。春の夜空。晴れているから月も見えるだろう。薄藍色のカーテンが風に揺れる。白に塗装された木の枠のベッドと茶色のデスクがどこか調和している。こう見ると、自分の部屋が想像以上に良いものであることに気がついた。この一瞬なのかもしれない。そう思った私は、充電が満タンになるのも待ちきれず、カメラの充電ケーブルを外した。小さい頃にデジタルカメラは1回だけ使ったことがあるような気がする。慣れない手つきだが、たしかに分かっているという動作で操作する。独特な音をたててパシャリと撮った写真は、持っているスマホで撮るよりも当たり前だが、画質は悪かった。だけど、ノスタルジーを感じさせるその質感。それに加えて、どこか現実とは違うような、薄い夜の空気が染み込んだ、青の世界。私が求めていたものが見えたような気がした。


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