第9話 王都の門と、逃げられない手
王都への道は、人の匂いが濃かった。
森の湿った冷気が薄れ、代わりに土と馬と汗と、焼き菓子の甘い匂いが混じってくる。街道には荷馬車が行き交い、旅人が笑い、行商人が声を張り上げている。
――生きている世界だ。
セレナはそれが眩しくて、外套の襟を少しだけ立てた。
「息が浅い」
隣から低い声。
レオンハルトは周囲を警戒しながらも、セレナの呼吸の乱れだけは見逃さない。いつからそんなに目敏くなったのか、と呆れる。
「……大丈夫」
「大丈夫ではない」
即答。
そして、彼は当然のようにセレナの手を取った。指が絡む。昨夜、結ぶようにと言ったとおりの握り方だ。
人通りのある街道で手を繋ぐなんて、普通の令嬢なら赤面する場面なのに、セレナの胸に湧くのは別の感情だった。
(逃げ道、塞がれてる)
守られている。
でも同時に、捕まっている。
王都の城壁が見えた。白い石の巨大な壁が空を切り取り、門の前には行列ができている。
セレナは思わず足を止めた。ここは自分が生まれ育った場所。没落してからは、恐ろしくて近づけなかった場所。
レオンハルトの手が強くなる。
「止まるな」
「……王都、嫌い」
「嫌いでも通る」
「あなたも嫌いでしょ。人がいるところ」
「嫌いだ」
さらっと肯定され、セレナは逆に肩の力が抜けた。
嫌いでも行く。そういう男だ。迷いがない。
列に並ぶと、周囲の視線がちらちら刺さった。
灰銀の髪、傷だらけの外套、背に大剣。近寄りがたい空気。――そして、噂。
「……あれ、呪われ騎士じゃない?」
「やめとけ、不幸が移るぞ」
「隣の女は誰だ……?」
囁きが、針のように刺さる。
セレナは外套の影に顔を隠すように俯いた。昔なら耐えられた。令嬢として微笑み、無視することができた。
でも今の自分は、空っぽだ。刺さるものを弾く力がない。
そのとき、レオンハルトが一歩前に出た。
視線を集めるように、堂々と。
「見物か」
低い声が門前の空気を裂いた。
行列の囁きがすっと引く。人々が距離を取る。
レオンハルトの周りに黒い糸が揺れ、赤い糸が絡む。怒りの色ではない。――“触れるな”という宣言の色だ。
セレナはその背中を見て、胸が少し痛んだ。
自分を守ってくれている。
でも同時に、彼はこうやって何度も人を遠ざけてきたのだろう。孤独に慣れるしかなかったのだろう。
やがて門番の番が来た。
鎧の騎士が、レオンハルトを見て一瞬だけ顔色を変える。
「……レオンハルト卿。王都へ戻られるのですか」
「通る」
「通行証は?」
レオンハルトは懐から古い金属札を投げた。
門番が受け取り、確認し、喉を鳴らす。
「……失礼しました。ですが、そちらの女性は……?」
門番の視線がセレナに向いた瞬間、セレナの胃が冷たくなった。
名を告げれば、アルフォードの没落が思い出される。婚約破棄の噂が絡む。憐れみと好奇の視線が、また刺さる。
口が開かない。
息が浅くなる。
その前に、レオンハルトが答えた。
「俺の同行者だ」
それだけ。家名も身分も言わない。
門番が戸惑う。
「……ご関係は?」
次の瞬間、レオンハルトの手がセレナの腰へ回った。
抱き寄せられ、肩が彼の胸に当たる。人前で。門番の前で。行列の視線の中で。
「関係を知る必要があるのか」
門番は言葉を詰まらせた。
レオンハルトの鋼の青が、真っ直ぐすぎて反論を許さない。
「い、いえ……通行は問題ありません」
門が開く。
王都の石畳が、目の前に広がった。
セレナは足がすくみそうになり、レオンハルトの外套を掴む。
すると彼は、囁くように言った。
「怖いなら、もっと掴め」
「……恥ずかしい」
「恥ずかしがるな。恥ずかしいのは俺だ」
「え?」
レオンハルトがほんの少しだけ眉を寄せる。
「本来なら、俺はここに来るべきではない。
だが、お前が必要だ。……だから来た」
必要。
その言葉が、石畳の冷たさに小さな熱を落とす。
王都の中は騒がしかった。商人の呼び声、子どもの笑い、馬車の軋む音。
その喧騒の中で、レオンハルトの周囲だけが妙に静かだ。人が避ける。空間が空く。
セレナはその空白に、自分も閉じ込められている気がした。
「まず宿を取る」
「……お金、あるの?」
「ある」
「あなた、森に住んでたのに」
「森に住んでいても、金は要る」
淡々としたやり取りの間にも、レオンハルトの手はセレナの指を離さない。
握りしめる力が、少しずつ強くなっているのが分かる。
(……王都は、あなたにとっても怖い場所なの?)
セレナがそう思ったとき、背中の鎖がざわりと揺れた。
黒い糸が一瞬濃くなり、その中心に、昨夜見た誓約の文字がちらりと浮かぶ。
――愛されるな。近づくな。孤独であれ。
王都の喧騒の中で、その言葉はやけに鮮明だった。
セレナは、握られた手を見下ろす。
逃げられないように結ばれているのに、なぜか安心してしまう自分がいる。
「……レオンハルト」
「なんだ」
「王都で、わたしが倒れそうになったら」
自分でも意味の分からない問いだった。
でも、口から出た。
「そのときは……ちゃんと、拾ってね」
レオンハルトは一瞬だけ足を止めた。
そして、鋼の青を柔らかく細める。
「拾う。二度でも三度でも。お前が諦めるまで」
諦めるまで。
それは死を諦めるまで、という意味にも聞こえて、セレナは小さく息を吐いた。
王都の門は背後に遠ざかる。
セレナの過去は、これから目の前に近づいてくる。
それでも、手は離れない。
逃げ道は、もう塞がれている。




