第7話 生きる理由のない朝
目を覚ました瞬間、最初に感じたのは体温だった。
背中側から、熱い腕が回っている。逃げ道を塞ぐように、けれど痛くない力で抱き締められている。
セレナは息を止めた。
寝台はひとつ。昨夜、レオンハルトが当然のように外側へ横になり、そのまま“鍵”になった。あの言葉を思い出して、頬が勝手に熱くなる。
(……冗談に聞こえなかった)
自分が生きていることが、まだ不思議だった。
森で目を閉じたときは、ここで終わるつもりだったのに。
「起きたか」
耳元で低い声がした。
レオンハルトの声は朝でもぶっきらぼうで、けれど眠気が少し混じっていて、妙に近い。
「……おはよう」
挨拶なんて、いつぶりだろう。
セレナがそう言うと、レオンハルトは少しだけ沈黙した。
「……ああ」
短い返事。だが、拒絶はない。
その事実が、胸の奥に小さな温度を残す。
レオンハルトは腕を緩めずに、上体だけを起こした。
窓から差し込む薄い光が、彼の灰銀の髪を淡く照らす。夜の獣みたいだった目が、朝の光で少しだけ人間に見えた。
「外を確認する」
「わたしも――」
「駄目だ」
即答。
セレナは眉を寄せる。
「歩けるって言ったでしょう」
「歩けるかどうかではない。外に出れば、また寄ってくる」
「影喰い?」
「それだけではない」
レオンハルトの視線が、セレナの指先に落ちる。昨夜ほどいた結び目の痕が、まだ疼く。
彼はその痕を見るたびに、怒っているような、怖がっているような顔をする。
レオンハルトが寝台から降りようとした瞬間、セレナは咄嗟に彼の袖を掴んだ。
引き止めたかったわけじゃない。
ただ――彼が離れると、部屋の空気が少し冷える気がした。
レオンハルトは動きを止め、振り向く。
「どうした」
「……いえ、なんでも」
「なんでもではない」
鋼の青が、逃がしてくれない。
セレナは言葉を探す。探して、見つからない。
生きる理由がない。
昨夜もそうだった。今朝もそうだ。
それなのに、この人の腕の中にいると、死にたい理由だけが薄れていく。代わりに、理由のない“居心地”が残る。それが怖い。
「……わたし、どうしたらいいの」
ぽろりと落ちた。自分でも驚くほど、弱い声だった。
レオンハルトの表情が、わずかに変わる。困惑、そして――決意。
「ここにいろ」
「それが答え?」
「今は、それでいい」
あまりにも簡単な答え。
でも、今のセレナにはそれが一番難しい。“ここにいる”という選択は、ただ生き続けることと同じだから。
「……わたし、役に立たないわ」
「役に立つかどうかで人を置かない」
昨日も聞いた言葉。
価値の話をしない。役に立つかで判断しない。
それがどれだけ救いになるか、セレナはまだうまく受け取れなかった。
レオンハルトはセレナの手を取り、昨夜の傷を親指でそっと撫でた。
「痛むなら、今日はほどくな」
「でも、あなたの呪いは――」
「俺の呪いより、お前が優先だ」
さらりと。
当然のように言う。
胸がぎゅっとなる。
優先されることに慣れていない。優先されると、怖い。
失ったときの痛みが想像できてしまうから。
レオンハルトは立ち上がり、小屋の隅に積んであった木箱を引き寄せた。中から古い手袋を取り出し、セレナの膝の上に置く。
「これを使え。次に触れるときは必ず」
「……準備、してたの?」
「昨夜決めた」
決めた。
この人は、決めたら動く。迷わない。
それが頼もしくて、恐ろしい。
レオンハルトは壁の隙間に仮の板を当て、外の音に耳を澄ませた。
やがて、小屋の周囲を一周して戻ってくる。戻ってきた瞬間、セレナは気づいた。
彼の背に絡む黒い鎖が、昨夜よりざわついている。
そして赤い糸が、さらに増えている。
「……外、何かいた?」
「痕跡がある。お前のほどきに反応して、周囲の呪いが集まっている」
「わたしのせい……」
「違う。お前がほどいたから、動きが見えるようになった」
レオンハルトはセレナの頬に指を添え、こちらを見下ろした。
その視線が、昨夜よりも重い。
「セレナ。お前は、俺にとって危険だ」
「わたしが?」
「そうだ。お前がいれば、俺は人に戻れる。……だから危険だ」
意味が分からなくて、セレナは瞬きをする。
人に戻れる。
それは救いの言葉のはずなのに、レオンハルトの言い方は、まるで破滅の予告みたいだった。
彼の指が、顎を軽く持ち上げる。
近い。逃げられない近さ。
「……怖がるな」
「怖がってない」
「嘘だ。震えている」
セレナは自分の手が震えているのに気づき、唇を噛んだ。
怖いのは、呪いでも魔獣でもない。
この人の真っ直ぐすぎる執着が、怖い。
優しさの形をして、逃げ道を塞いでくるから。
「セレナ」
「……なに」
「生きる理由がないなら、俺が理由になればいい」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
重い。甘い。危ない。
でも、拒めない。
セレナはかすかに笑った。
「……それ、ずるいわ」
「ずるくていい。お前が生きるなら」
その瞬間、外で枝が折れた。
レオンハルトの目が、鋼に戻る。
彼はセレナを抱き上げた。昨日と同じように。今度は、より自然に。
「今日、王都へ向かう」
「……王都?」
「呪いの起点を探す。お前の力が必要だ」
必要。
その言葉に、セレナの胸が小さく鳴る。
生きる理由のない朝に、初めて差し込んだ、細い糸みたいな言葉だった。
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