第5話 扉の向こうの来訪者
レオンハルトの身体が硬くなった。さっきまでの熱が、一瞬で刃の温度に変わる。
セレナは彼の腕の中で息を呑んだ。扉の向こうから、風とは違う“気配”がじっとこちらを窺っている。
「誰かいるの……?」
「人、とは限らない」
低い声。言葉の端に、確信がある。
レオンハルトはセレナを抱えたまま一歩下がり、壁際に置かれた長剣へ視線を投げた。けれど手は伸ばさない。腕の中のセレナを決して床に降ろさない。
その不自然さに、セレナの胸が妙にざわつく。
(……離したくないの? それとも、離せない?)
扉が、ぎしりと鳴った。
誰かがノックしたわけではない。外側から、爪で木を撫でるような、湿った音。
暖炉の火が、ぱち、と弾ける。影が濃く伸び、黒い糸がざわりと揺れた。
セレナの目には、それが“糸”として見える。
扉の隙間から、黒い糸が一本、するりと入り込み、床を這うように伸びてきていた。糸は細いのに、近づくほど息苦しい。
呪いの匂い。結び目の匂い。
「……これ、あなたの鎖と同じ」
「だから言った。俺の周りには、不幸が寄ってくる」
レオンハルトは淡々と言った。けれど、その瞳の奥に苛立ちが燃えている。
“またか”という疲労と、セレナを巻き込みたくない焦り。
セレナは胸の奥で、小さく舌打ちした。
死にたいと思っていた自分が、今は「巻き込まれたくない」と思っている。変だ。
でも――この人の前で、無責任に終わってはいけない気がしてしまう。
「開けないの?」
「開ければ入ってくる」
「開けなくても入ってきそう」
その瞬間、扉の下から影が滲んだ。木の隙間を溶かすように、黒い靄がじわりと侵食してくる。
レオンハルトが舌打ちし、ついに長剣へ手を伸ばした。
「……来る」
彼はセレナを片腕で抱えたまま、もう片方で剣を抜く。
普通なら不可能な動作なのに、剣が引き抜かれる音に一切の無理がない。最強と呼ばれるのは伊達ではない、とセレナは変なところで納得した。
扉が、内側へ倒れた。
破壊ではない。鍵が外れたわけでもない。まるで木が“折れるべきだ”と決められたかのように、自然に倒れた。
そこにいたのは――犬、だった。
いや、犬の形をしているだけだ。毛並みは黒い影で、目だけが赤く光っている。四肢は細く、肋骨が浮き、口の端から垂れる涎が床に落ちると、じゅ、と音を立てて染みを作った。
「……影喰い」
レオンハルトが低く呟く。
魔獣の名だ。噂で聞いたことがある。人の不安や呪いに寄ってきて、それを喰らって増える。
そして、呪いの濃い場所に現れる。
影喰いが、赤い目をセレナに向けた。
次の瞬間、獣の口が裂ける。吠え声ではなく、嗤い声のような音が出た。
レオンハルトが即座に踏み込む。
剣閃が一度走り、影喰いの首が――落ちない。
刃が通ったはずなのに、影が裂けただけで、獣は形を保ったまま、ぐにゃりと戻った。
「物理が効かない……?」
「呪いでできている。核を断つ」
レオンハルトの剣が二撃、三撃と走る。切り裂くたび、影は散っては戻る。
そのたびに、黒い糸が小屋の中へ増えていく。
セレナの胸が冷える。これ、増えている。戦えば戦うほど。
(核……結び目の中心……)
セレナは視線を凝らした。
影喰いの身体の奥、胸のあたりに、結び目が見える。黒い糸が固まってできた小さな塊。
そして、その塊から伸びる糸は――レオンハルトの背の鎖と、同じ方向へ伸びていた。
「……あなたの呪いに引っ張られてる」
セレナが呟くと、レオンハルトの動きが一瞬だけ鈍る。
「セレナ、喋るな。見ているな」
「見てる。だから分かる。あれ、あなたの鎖と繋がってる」
影喰いが跳ぶ。
赤い目がセレナへ一直線に来る。
レオンハルトが抱えた腕をさらに締め、身を翻して剣で受けた。衝撃が空気を震わせ、小屋の壁がきしむ。
「……っ」
セレナの背中に冷や汗が走る。
あの獣は、セレナを狙っているというより――“ほどき”の匂いを嗅ぎつけている。
レオンハルトの鎖が緩んだ。呪いが揺れた。そこに現れた。
つまり、これは続く。今夜だけじゃない。
セレナはレオンハルトの胸当てを掴んだ。
強い鎧の上からでも分かる。彼の心臓が速い。
戦っているからだけじゃない。怒っている。怖がっている。――セレナのために。
「……核、わたしがほどく」
「駄目だ!」
「あなたの剣じゃ切れないなら、わたしが結び目をほどくしかない!」
レオンハルトの腕が、拒むように強くなる。けれど、セレナは首を振った。
「ねえ、レオンハルト。あなたは最強なんでしょ? なら、わたしを守りながら、ほどかせて」
一瞬、鋼の青が揺れた。
そして、レオンハルトは低く言う。
「……一歩も離れるな。俺の腕の中でやれ」
「分かった」
影喰いが、もう一度跳ぶ。
その瞬間、セレナは震える指を伸ばした。狙うのは獣の胸に見える結び目。
黒い糸の塊へ、指先が触れる——
ひやり、とした冷気が肌を噛んだ。
けれど同時に、確かな“端”が見える。
「……解けなさい」
セレナが意志を込めた瞬間、影喰いの身体が悲鳴みたいに歪んだ。
黒い糸が一本、切れる。
影が崩れ、今度こそ獣は元に戻らない。
床に落ちた影が、じゅ、と消えていく。
小屋の空気が、少しだけ軽くなった。
レオンハルトの腕が、セレナを抱き締め直す。
今まで以上に、逃がさない強さで。
「……見ろ。お前が触れた」
声が低い。怒りではない。
ぞっとするほど静かな、何かの確信。
「今夜、お前を失う可能性を、俺は理解した」
セレナは息を呑む。
影喰いが消えたのに、レオンハルトの周囲の赤い糸が、さっきより濃く絡みついていくのが見えた。
「……だから」
彼はセレナの耳元へ口を寄せる。
「明日からは、もっと厳重に囲う」




