第4話 鎖が緩んだ男の視線
レオンハルトがセレナの名を呼んだ。
ただそれだけなのに、空気の質が変わる。冷えた鉄が熱を帯び、影が静かに息をし始めたみたいに。
「……セレナ」
声が低い。けれどさっきまでの“距離を置く低さ”ではない。
近い。触れられる距離の声だ。
セレナは自分の指先を見た。血が滲んでいる。結び目をほどく代償なのか、痛みが遅れてじわじわ広がってきた。視界の端が白く滲む。
「だい、じょうぶ……」
言い終わる前に膝が抜けた。
床に倒れる――と思った瞬間、硬い腕が腰を掴み、すくい上げる。
「倒れるな」
命令口調。なのに、乱暴じゃない。
レオンハルトはセレナを抱きかかえると、椅子ではなく自分の膝の上に座らせた。距離が近すぎて、鎧の冷たさと体温が同時に伝わる。
「……ちょ、ちょっと」
「動くな」
遮られ、反射的に固まる。
彼の視線が、セレナの指先に落ちた。血を見た瞬間、鋼の青が鋭く濃くなる。
「血が出ている」
「少しだけよ。たいしたこと――」
「たいしたことだ」
言い切られて、言葉が途切れた。
“命を軽く扱うな”と叱られているようで、胸がきゅっと痛む。
レオンハルトは布を取り、水で湿らせ、セレナの指を丁寧に拭った。手つきは不器用なのに、触れ方だけは妙に慎重だった。壊れ物に触れるみたいに。
「……あなた、さっきまで触れるなって」
「触れるなと言ったのは、お前に危険が及ぶからだ」
「今さら?」
「今さらだからだ」
レオンハルトの指が、拭った指先を離さない。
温度が移ってくる。熱が、じわじわと。
「セレナ。お前は、俺の鎖に触れた」
「触れたわ。ほどいたわ。一本だけ」
「一本で十分だ」
その言い方が、怖いほど真面目だった。
セレナは喉の奥が乾くのを感じながら、問う。
「……何が、十分なの」
レオンハルトは答えない。代わりに、セレナの手を取ったまま、自分の胸当てに押し当てた。
心臓の鼓動が、鎧越しに伝わる。速い。荒い。
「俺は、ずっと抑えていた」
「何を……?」
「欲しいと思うことを」
言葉が落ちた瞬間、部屋の影が揺れた。黒い糸がざわりと動き、そこに絡みつくような赤い糸が増えていく。
赤は、熱。執着。独占。……愛に似たもの。
セレナは息を呑んだ。
一本ほどいただけで、こんなに。
「お前が触れて、鎖が緩んだ。……なら、俺はもう、戻れない」
「戻れないって、何よ」
「お前を遠ざける理性に、戻れない」
レオンハルトは淡々と言った。淡々としているからこそ、逃げ場がない。
セレナの背中に回った腕が、ぎゅっと抱き寄せる。痛くない。けれど離れられない強さ。
「……やっぱり、あなた、怖い」
「そうだ。だから最初に言った」
「言ったくせに拾ったのはあなたよ」
「拾った。捨てる気はない」
その言葉が、胸に刺さる。
捨てない。
たったそれだけの約束が、今のセレナには重すぎるほど温かい。
セレナは視線を落とし、小さく笑ってごまかした。
「……そんなに抱きしめたら、ほどけないわ」
「ほどかなくていい」
「だめ。ほどくの。あなたが、ひとりにならないように」
言った瞬間、レオンハルトの腕がわずかに強くなった。
「ひとりにしない、だと?」
「そうよ」
「……それは、約束か」
問われて、セレナは一瞬だけ言葉に詰まった。
約束なんて、守れる自信はない。自分の明日すら信じられないのに。
けれど、鋼の青が真っ直ぐすぎて、嘘を吐けなかった。
「……できる範囲で。逃げないように、努力する」
レオンハルトは、ほんの少しだけ目を細めた。笑ってはいない。けれど、満足に近いものが表情に滲む。
「努力では足りない。逃げるなら追う」
「……やっぱり」
「安心しろ。足は折らない」
「そこ、安心要素じゃないわ」
セレナが小さく抗議すると、レオンハルトは短く息を吐いた。笑いかけて、途中で堪えたような音。
そして、セレナの額に、自分の額をそっと当てる。距離がゼロになる。
「セレナ。死ぬな」
その言葉に、心臓が跳ねた。
怒鳴りでも説教でもなく、祈りみたいに言われたから。
「……わたしの自由は?」
「死ぬ自由は、俺が奪う」
さらりと言い切る。優しさの形をした、危険な宣言。
セレナが何か言い返す前に、外で“ばきん”と乾いた音がした。
小屋の外。木が折れるような音。
続いて、何かが地面に落ちる重い音。
レオンハルトの顔が一瞬で戦場のそれに戻る。
彼はセレナを抱えたまま立ち上がり、扉の方を見た。
「……来たな」
「なにが?」
「俺の“不幸”が、また動き出した」
扉の隙間から、冷たい風が吹き込む。
影の糸がざわめき、赤い糸がさらに濃く絡む。
レオンハルトはセレナを離さないまま、低く言った。
「今夜は、俺のそばから一歩も離れるな」




