第3話 結び目に刻まれた誓い
指先が胸当てに触れた瞬間、金属の冷たさではなく、燃えるような熱が走った。
セレナの視界から、部屋の輪郭が薄れる。代わりに見えるのは、黒い糸――いや、鎖に近いそれが、レオンハルトの身体を何重にも縛り上げている光景だった。
「……っ」
息を呑む。
鎖は彼の肩から胸、腕、喉へと食い込み、さらに周囲へ伸びて、見えないものを乱暴に引っかいている。運の流れ、人の縁、偶然の糸。
だから不幸が起こる。彼が歩けば、世界が傷つく。
「やめろ!」
レオンハルトの声が頭上から落ちてきた。けれどセレナの指は離れない。
怖いのは当然だった。なのに、怖さより先に――結び目の“形”が、手のひらの内側に伝わってくる。
呪いには、結び方の癖がある。恨みは尖り、嫉妬は絡み、祈りはやわらかい。
この鎖は——硬い。冷たい。けれど、どこか“祈り”に似ている。
「これ……呪いじゃない……?」
セレナが呟いた瞬間、黒い糸がびくりと跳ねた。
中心に、文字のようなものが浮かぶ。血の匂いがする言葉。
――愛されるな。近づくな。孤独であれ。さもなくば、すべてを失う。
セレナの喉が鳴った。
呪いではない。誰かが彼に刻み込んだ“誓約”。彼自身の意思で結んだのか、誰かに強いられたのかは分からない。けれど、これは「不幸を撒く魔術」ではなく、「そう生きろ」と命じる鎖だ。
「……あなた」
呼びかけると、レオンハルトの体がわずかに強張った。彼の瞳が、怯えに似た色を帯びる。最強と呼ばれる男の目に、そんな色が宿ることが信じられなかった。
「それに触れるな、セレナ。……それは、俺の中だ」
「中……?」
「俺が抑えているものを、起こすな」
起こす。
まるで、眠らせている獣がいるみたいな言い方だった。
けれどセレナは、結び目の“端”を見つけてしまった。
ほどける。ほどけるのに、このまま引き返したら、この人はまた鎖ごと生きていく。
セレナは小さく息を吸い、指先に意志を込めた。祈りではない。魔法でもない。
ただ、「ほどく」と決めるだけ。
「……解けなさい」
次の瞬間、痛みが走った。
針で指先を何十回も刺されるような鋭い痛み。黒い糸が棘になって拒む。セレナは思わず歯を食いしばり、唇の端が切れた。
「やめろ!」
レオンハルトが腕を伸ばし、セレナの手首を掴む。力は強いのに、引き剥がす動きがない。
――怖いのだ。彼自身が。
「大丈夫……!」
大丈夫じゃない。
でも、ここで止めたらもっと駄目だと分かっている。
セレナの指先から血が滲み、胸当ての隙間に落ちた。
血が結び目に触れた瞬間、糸が一瞬だけ、弱くなった。
「……今だ」
セレナは“端”を掴む。
ひとつ、結び目を持ち上げる。
ほどく。ほどく。ほどく。
ぷつん。
黒い糸が一本、はっきりと切れた。
空気が、軽くなる。
暖炉の火がふっと明るく揺れて、部屋に本来の温度が戻ってきた。
そして、レオンハルトの喉から、押し殺したような息が漏れる。
「……っ」
膝が落ちる音がした。
最強の騎士が、床に片膝をついたのだ。
セレナはふらりとよろめき、視界の端が白く滲む。
ほどけたのは、たった一本。
それなのに、レオンハルトの周囲の糸が――黒だけではなく、別の色に震え始めている。
深い赤。
絡みつくような、熱。
レオンハルトが顔を上げ、セレナを見た。
鋼の青が、さっきより近い。息が、さっきより重い。
「……セレナ」
名前の呼び方が、変わっていた。




