第10話 宿の鍵と、近づいてくる過去
宿屋は王都の外縁にあった。中心街の喧騒から少し外れ、通りも狭い。人目を避けたい旅人が選ぶ場所――そして、レオンハルトが好む場所だ。
「……宿の選び方が物騒」
セレナが小声で言うと、レオンハルトは真顔で頷いた。
「物騒だからだ」
宿の主人は、灰銀の髪と大剣を見た瞬間、顔を引きつらせた。噂は王都でも生きている。
セレナは外套の影で顔を隠す。自分もまた噂の中心にいた人間だから、視線の針がどんなふうに刺さるか知っている。
「一室。二人」
レオンハルトが告げると、主人の目が泳いだ。
「べ、別室のほうが――」
「一室でいい」
即答だった。主人は金貨を受け取ると、鍵を差し出すしかなくなる。
二階の奥の部屋。扉を閉めたレオンハルトが、鍵をかける。
カチリ、と乾いた音がした。
「……鍵、つけるのね」
「宿の鍵だ」
「でも、“囲う”ってそういうこと?」
「そうだ」
認めるのか、とセレナは言葉を失う。
レオンハルトは窓へ向かい、カーテンの隙間から外の通りを確認する。逃走経路、死角、人の流れ。戦場の斥候みたいな目だ。
「囚われてるみたい」
「囚われている」
「えっ」
「お前が外に出れば危険だ。だから囚う」
守る、ではなく囚う。
その理屈の乱暴さに、セレナの胸がざわつく。けれど不思議と、拒絶だけは湧かなかった。彼の言葉には、捨てる選択肢が最初から存在しない。
セレナはベッドの端に腰を下ろし、外套の紐をほどいた。レオンハルトの匂いが薄れていくのが、少しだけ寂しい。
「……王都、嫌だ」
ぽつりと零すと、レオンハルトが窓辺から振り向いた。
「理由は」
「わたしの家、没落した。婚約破棄も……噂になった。顔を知ってる人もいる」
喉が締まる。舞踏会の光、笑い声、見下す視線。思い出すだけで胃が冷えた。
レオンハルトはゆっくり近づき、セレナの前に片膝をついた。騎士が跪く姿は本来、敬意の形なのに――彼の場合、距離を詰めるための動作にしか見えない。
「見られたくないなら、見せない」
「どうやって」
「俺の後ろに隠れろ」
「子どもみたい」
「子どもでもいい」
言い切られて、セレナは笑いそうになって、笑えなかった。
こんなふうに“いていい”と言われるのが、怖い。
扉の外で桶の音がした。主人が湯を運ばせたのだろう。
「お湯を――」
「そこに置け」
レオンハルトは扉を開けない。人を入れない。徹底している。足音が遠ざかり、部屋に静けさが戻る。
その静けさの中で、セレナは気づいた。
レオンハルトの背に絡む黒い鎖が、ざわりと揺れている。鎖の一部が、王都の深いほうへ引っ張られている。まるで誰かが糸の端を握っているみたいに。
「……来る」
レオンハルトが低く言った。剣に手が伸びる。
「何が?」
「お前の過去か、俺の呪いの起点か。……どちらにせよ、近い」
セレナの心臓が跳ねる。
王都に戻っただけで糸が動く。逃げても追ってくる。なら、向き合うしかないのかもしれない。
レオンハルトはセレナの手を取った。指を絡め、確かめるように握る。
「もう一度言う。離れるな」
「……分かってる」
鍵のかかった宿の一室。
外では王都が今日も賑わっている。
その喧騒の向こうから、セレナの過去と、レオンハルトの呪いが、同じ足音で近づいてくる気がした。




