第1話 没落令嬢は森で眠る
森は音が少なかった。冬でもないのに空気が白く、吐く息だけが自分の生を主張してくる。
セレナ・アルフォードは、泥に沈むドレスの裾を気にすることもなく、木の根元に腰を落とした。ここなら誰にも見つからない。迷惑もかけない。――そう思った。
半年前。舞踏会の真ん中で、婚約者は笑って言った。
「破談だ、セレナ。愛しているのは別の女だ」
返す言葉を探すより早く、周囲の視線が刃になった。翌日には父の不正の噂と借金が雪崩れ込み、名門だった家は簡単に折れた。母は寝込み、父は責任を取るように姿を消し、使用人たちは散った。
残ったのは、空っぽの屋敷と、空っぽの自分。
“没落令嬢”という呼び名だけが、世間の優しさみたいに貼り付いていた。
「……ここなら、誰にも迷惑をかけないわ」
背を木に預け、目を閉じる。冷たい地面の感触がじわじわと広がって、体温だけを奪っていく。死ぬのは案外むずかしい。崖から落ちるにも意志がいるし、刃を握るにも覚悟がいる。
でも、眠るのならできる。眠って、起きなければいい。
――そう思ったのに。
足音がした。
鎧が落ち葉を踏む、硬い音。一定のリズムで、迷いがない。誰かが近づく気配に、セレナは面倒くささだけを抱いて瞼を上げた。
そこにいたのは騎士だった。
黒に近い鉄色の鎧。傷だらけの外套。背には大剣。兜は外していて、灰銀の髪が額にかかる。鋼の青い目がこちらを射抜き、整った顔立ちが冷たく見えるのは、その周囲の空気が一段暗いからだ。
「ここは危険だ。帰れ」
声は低く、淡々としている。命令でもないのに、拒絶の線だけがはっきり引かれていた。
セレナは乾いた笑いを漏らす。
「帰る家はありません」
騎士の眉が、わずかに動く。嫌悪でも怒りでもない。困惑に近い。
「俺を知っているなら、近づくな」
「……あなたが誰か、噂で聞いたことはあります」
最強。呪われ。近づく者に不幸が降りかかる。共に行軍した部隊が飢え、護衛した馬車が転覆し、宿に泊まれば火事が起きる。
呪われ騎士、レオンハルト。
その名を胸の中でなぞるだけで、背筋が冷えた。
「なら分かるだろう。俺のそばにいても、いいことはない」
「いいことなんて、もう要りません」
言ってしまってから、少しだけ喉が痛んだ。
彼の瞳が一瞬だけ揺れる。けれどすぐに硬い色に戻り、騎士は短く息を吐いた。
「……馬鹿だ」
次の瞬間、体が浮いた。
驚いて声を上げるより早く、鎧の腕がセレナを抱き上げていた。
「ちょ、ちょっと……!」
「軽すぎる。食べていないのか」
「放っておけばいいのに」
「放っておけば、お前は死ぬ」
真実を淡々と告げられる。セレナは視線を逸らし、唇を噛んだ。
「それが望みです」
騎士の歩みが止まる。森の冷たい空気の中で、彼の息だけが白く濃く見えた。
レオンハルトは、抱えたままセレナを見下ろし、低く言った。
「望みでも、許可はしない」
胸の奥が、ひゅっと鳴った。
許可なんて、いらないはずなのに。
誰に許されなくても、終わる自由くらいあると思っていたのに。
レオンハルトは再び歩き出す。森の奥ではなく、森を抜ける方向へ。まるでそれが当然だとでも言うように。
「……どこへ連れていくの」
「俺の小屋だ。近くにある」
「わたし、あなたに拾われる価値なんて」
「価値の話をしていない」
それ以上、言葉が続かなかった。鎧の匂い――鉄と乾いた草の匂いが鼻を掠める。抱えられた腕は硬く、でも妙に揺れが少なくて、落とされる恐怖がない。
その安定が、逆に怖かった。
呪われ騎士に拾われるなんて、最悪の偶然だ。
そう思うのに、セレナの胸の奥で、消えかけていた何かが小さく火花を散らした。
――この人は、わたしを捨てないのだろうか。




