第3話 久世ラボへようこそ
――薄暗い天井。
微かな機械音。どこか甘い、コーヒーの香り。
一ノ瀬遥は、ゆっくりと瞼を開けた。
視界に飛び込んできたのは、配線と工具と紙の山。
そして――白衣を羽織り、眠そうな顔でマグカップを手にしている女性。
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久世くらら「……おはよう。気分はどう?」
寝不足のせいか、目の下にはクマ。
髪もぼさぼさだが、瞳だけは鋭い。
その視線に、遥は思わず身をすくめた。
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一ノ瀬遥「え……ここ、どこですか?」
久世くらら「久世ラボ。私の研究所。あなた、外で交通事故に遭ってたんだよ。」
遥は記憶を辿る。
まばゆい光、衝撃、そして黒い液体――。
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一ノ瀬遥「……助けてくれたんですか?」
久世くらら「まあね。色々かけたら、うまく動いた。」
一ノ瀬遥「“色々”って……何を?」
久世くらら「成長促進剤、筋肉増強剤、ビタミン剤、あとカフェイン。
あ、あと百年前に作った“眠気覚まし”も。」
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一ノ瀬遥「眠気覚まし……?」
久世くらら「うん。飲んでも眠気が取れなかった失敗作。
でも、意外と効くみたい。」
遥は無意識に自分の手を見つめた。
皮膚は滑らかで、傷一つない。
確かに、あの衝撃で死んでもおかしくなかったのに。
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一ノ瀬遥「……私、どうなってるんですか?」
久世くらら「正直、私にもわかんない。」
くららは立ち上がり、計測デバイスを操作する。
ホログラムに映る数値は、人間の限界をはるかに超えていた。
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久世くらら「筋力、反応速度、細胞修復率……うん、全部おかしいね。
これは人間のスペックじゃない。」
一ノ瀬遥「おかしいって……私、もう人間じゃないんですか?」
久世くらら「――少なくとも、“普通の人間”ではないね。」
空気が少しだけ沈む。
だが、くららはすぐに笑みを浮かべた。
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久世くらら「ま、死んでたよりはマシでしょ?」
一ノ瀬遥「……はは、そうですね。」
遥も小さく笑う。
その笑顔に、くららは一瞬だけ、安堵のような表情を見せた。
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久世くらら「とりあえず、しばらくここで暮らしなさい。
検査と観察を兼ねて。」
一ノ瀬遥「え、ここで……?」
久世くらら「うん。AI制御車がまた暴走したら困るしね。
安全な方がいい。」
くららは手を伸ばし、遥の頭を軽くポンと叩く。
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久世くらら「助手、募集してたところだし。」
一ノ瀬遥「え、助手!? 私がですか!?」
久世くらら「うん。掃除と料理と、あとコーヒーの補充。」
一ノ瀬遥「研究じゃなくて雑務じゃないですか!」
久世くらら「立派な研究補助だよ。特にコーヒーは重要資材。」
遥は呆れたようにため息をつき、
くららはそれを見て、ニヤリと笑う。
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久世くらら「ふふ、いい顔になったじゃん。」
照明がわずかに明滅する。
くららの端末に、一瞬だけ“異常通信ログ”の警告が表示された。
だが、彼女は気づかずカップを傾ける。
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久世くらら「――ま、今日からよろしくね。一ノ瀬遥。」
一ノ瀬遥「……はい、久世くららさん。」
久世くらら「くらら“ちゃん”でいいよ。」
その言葉に、遥は少しだけ頬を緩めた。
こうして、久世ラボの奇妙な日常が幕を開けた。
【次回予告】
力を得た遥に起こる“異変”。
暴走する筋力、止まらない再生、そして――制御不能な衝動。
第1章 第3.1話「制御不能、そして研究対象」へ続く。




