眠気と奇跡の方程式(約110年前)
これは久世くららがまだ「異端の研究者」と呼ばれる前――
一人の少女の命を救う“奇跡の方程式”が誕生する、少し前の物語。
後に“眠気覚まし試作No.4”と呼ばれる禁忌の薬が生まれた夜。
それは、人間を越えた科学の最初の一歩だった。
夜は、またしても明けなかった。
まだ「久世ラボ」と呼ばれる前の、小さな実験室。
照明は二本の蛍光灯と、青白く光るモニターだけ。
白衣を着た――久世くららは、机の上でうつ伏せ。
いや、寝落ちしかけていた。
「……ねむ……だめ、まだ……計算が……」
目の下のクマは常設装備。
コーヒーは冷め、カップの底には沈殿物。
モニターには《眠気覚まし試作No.3》の結果。
副作用:胃痛、幻聴、嘔吐。成功率:0%。
「……コーヒー、もう効かない。カフェインも限界……」
くららは机の上の薬品瓶を見回した。
体内代謝を活性化する栄養液、神経刺激剤、ナノ調整用溶媒。
指先が震え、理性が霞む。
「なら……混ぜちゃえばいいか……!」
徹夜続きで理性はすでに溶けていた。
ビーカーに薬品を注ぎ、色の変化に目を輝かせる。
理論も倫理も無視。
天才と狂気の境界は、いつだって紙一重。
液体は紫から琥珀、やがて金色へ。
ビーカーの中で泡が弾け、細やかな光が舞う。
「いいね……きれい……」
くららはそれをカップに移した。
《眠気覚まし試作No.4》。
匂いは甘く、しかしどこか焦げ臭い。
「眠気なんて吹っ飛ばしてやる……私が、人類の夜を明かすんだ……!」
一息に飲み干す。
全身に電流が走り、心臓が暴れる。
視界が白く弾け、次の瞬間――痛みも疲労も、すべてが消えた。
「……あれ? 頭、すっきりした?」
眠気は、残っていた。
だが、体は限界を感じない。呼吸も脈も安定。
むしろ、生命そのものが“再構築”されたかのようだった。
「……眠気は取れないのか。失敗、だね。」
そう笑った。
だがこの瞬間こそが、人類初の“不死の誕生”だった。
彼女はそれに気づくはずもなく、また静かにノートを開く。
⸻
十年後。
くららは鏡の前で手を止めた。
「……老化が止まってる?」
記録上は三十八歳。
だが、鏡に映るのは二十代のままの自分。
細胞再生率、免疫応答、代謝速度――どれも異常な値。
そして導き出された結論は、ひとつ。
「私、死なないのか……」
⸻
それからの時が、永遠の孤独を運んできた。
友人も家族も、誰一人残らない。
気づけば、彼女の研究だけが存在理由になっていた。
だが――それでも、くららは不思議と笑っていた。
「不死なんて、呪いじゃない。
神様が私に“観測者”の役をくれただけ。」
⸻
そして百十年後。
彼女は今も、同じ白衣で、同じクマを抱え、
同じようにコーヒーを片手に研究を続けている。
その日、偶然が“奇跡”へと変わる瞬間を、
まだ誰も知らなかった。
→ 第1章 第2話「資材調達と、ひとつの偶然」へ続く。
この夜の失敗が、110年後に“奇跡”として再現される。
「眠気覚ましNo.4」――それは生命を救うと同時に、彼女を永遠の時に縛りつける薬だった。
科学は奇跡を起こす。
だが、奇跡を起こした者は、もう二度と普通の人間には戻れない。




