第4.7話「遥の内緒の外出と、50年前の香り」
朝の久世ラボ。
静かに響くのは、試験管の揺れる音と、くららがカップを触る微かな金属音だけだった。
くららはテーブルに肘をつきながら、コーヒーを一口飲んで――眉を寄せた。
久世くらら「……うーん、違う」
一ノ瀬遥「あ、また違ったんだ?」
くらら「味が……なにか欠けてるんだよね。バランスは悪くないんだけど、“あの感じ”にならない」
遥「“あの感じ”ってどんな感じ?」
くらら「言葉にできないんだよ……でも、わかるの。再現できてないって」
くららはそう言って、ため息を小さく吐いた。
横顔は、ほんの少しだけ寂しげだった。
遥(内心)「……これ、放っておけないな」
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■遥、静かに準備を始める
くららが別室で計算実験を始めると、遥はそっと立ち上がった。
遥(小声)「カズ、くららちゃん見といてね」
カズ「主任の監視は私の得意分野です。……どこへ?」
遥「ちょっと、内緒」
カズ「主任に秘密行動……了解。記録は残しません」
遥「おぉ、カズ、空気読むね!」
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■遥、街へ
遥は春巻きの袋と炭酸飲料が詰まったリュックを背負い、軽い足取りで街へ向かった。
目的は一つ。
遥「コーヒー豆。……くららちゃんが一回だけ“おいしい”って言った味、探す」
スーパーのコーヒー棚。
遥は真剣な顔で並んだ袋を一つずつ匂い、触り、裏の説明を読む。
遥「……これかな。いやこっち? 香り強め……苦味控えめ……んー」
30分後。
遥「……よし。私センスあるかも」
遥はひと袋の豆を選んだ。
高級品ではない。市販のごく普通の豆。
でも――だからこそ意味がある。
遥「高いとか有名とかじゃなくて、“くららちゃんが好きな味”を探したかっただけだから」
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■帰還、そして“奇跡の一杯”
ラボに戻ると、くららは机に突っ伏していた。
くらら「むにゃ……計算……終わらない……」
遥「お疲れ〜。はい、これ」
くらら「ん……? コーヒー豆……?」
遥「ちょっと、ね。試してみてよ」
くららは眠たそうな目をこすりながら、ミルに豆を入れた。
――カリカリ……カリカリ……
挽いた瞬間、ふわっと柔らかな香りが立ちのぼる。
くららの指が、ほんの一瞬止まった。
くらら「……なんか、懐かしい香り……」
お湯を注ぎ、香りが膨らむ。
カップに落ちてゆく黒い液体。
くららはそれを一口、そっと飲んだ。
くらら「…………」
遥「ど、どう……?」
くららは、目を細くして微笑んだ。
くらら「……うん。これだ。ほんとに……これ、だよ」
遥「っ!」
くらら「全部じゃない。でも、ね……“足りなかったもの”がちょっとだけある」
遥「そっか……よかった」
くららはカップを胸に抱え、嬉しそうに笑った。
くらら「ありがと、遥」
遥「ううん。私、できること少ないから……こういうのくらいしかできないし」
くらら「そういうのが一番嬉しいんだよ?」
遥は耳の先まで赤くなる。
遥「……もう。そういうこと言うのズルいってば」
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■夜、二人はそれぞれの時間へ
くららはコーヒーのデータをまとめ、遥はジャージ姿で腕立て伏せを始めた。
くらら「何してるの?」
遥「明日ね……ちょっと、作ってみたい料理があるの」
くらら「料理? 春巻き?」
遥「違うよ!」
くらら「えぇ〜……」
遥「たまには私の好きなものも食べてよ!」
くらら「遥の好きなもの……ハンバーガーだっけ?」
遥「そう。それ。自分で作ってみたくて」
くらら「へぇ〜……遥の手料理、楽しみかも」
遥「そ、そういうの軽く言わないで!!」
ラボに、また笑い声が広がっていく。
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■その夜のこと
くららは寝る前にコーヒーをもう一口飲んだ。
くらら「……本当に、懐かしい。もう戻らないと思ってたのになぁ」
遥の選んだ豆は、奇跡を完全に再現したわけではない。
でも――
“今日という日が好きだと思える味”になっていた。
■ 次回予告
第4.8話「遥のハンバーガー研究と、研究者の味覚」
遥が久しぶりに“料理で本気”を出す日。
選んだテーマは――彼女が昔から好きだった、あの料理。
ハンバーガー。
焼き加減、肉の温度、脂の配分。
遥はそれを「戦いより難しい」と言いながらも、真剣に向き合っていく。
くららは香ばしい匂いに鼻をくすぐられながら、
研究者らしくメモを取り出し、
くらら「ふふ……楽しみだなぁ。遥が作る料理なんて、滅多に無いんだから」
遥「変な期待しないでよ!? 普通のなんだからね!?」
久世ラボに肉の香りが満ちる、穏やかな一日。
次回、久世ラボ“料理研究”編。




