第4.0話 「ラボの外は風がうまい ― 支度編」
久世ラボの朝は、相変わらず静かだった。
だがそれは“平和”というより、“音の届かない地下施設特有の密閉感”に近い。
昨日、温水プールで久しぶりに身体を洗い、すっきりしたくららは、珍しく軽い足取りでキッチンに向かっていた。コーヒーの香りが漂わない朝は珍しい。今日は何か落ち着いた空気がある――そう思った矢先だった。
冷蔵庫の扉を開けたくららの声が、静寂を破る。
久世くらら「……春巻きが、ない」
一ノ瀬遥はコップの水を飲んでいた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
遥「やっぱり言うと思ったよ……」
くらら「いや、ほんとにないんだって。冷凍庫の角! あの角が! 空!」
遥「昨日の夜、あれだけ食べてたからね……」
くらら「だっておいしかったんだもん。科学の勝利だもん」
遥「勝利しすぎなんだよ!!」
くららは白衣を引っ張り、しょんぼりと肩を落とす。
くらら「春巻きがないと研究の回転が落ちるんだよ……」
遥「燃料扱いするのやめよ!?」
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■電子音が告げる現実
ラボの奥の筐体が低く唸り、丸いアイライトが点灯する。
カズ「主任。食糧備蓄データの再計算を完了しました。
春巻き、ゼロです」
くらら「知ってる……知ってるけど……改めて言われるとつらい……」
遥「カズ、ほんとに言わなくていい時だけ正確だよね!」
カズ「私は常に正確です。主任の嗜好が統計外なだけです」
遥「なるほど、つまりくららちゃんが悪いってことだね」
くらら「なんでそこで私に来るの!?」
カズ「主任が一晩で予定量の三倍を消費したのが原因です」
くらら「バラすなぁぁ!」
くららは床にひざをつき、天を仰いだ。
遥「そんな落ち込む!?」
くらら「研究者はね、燃料切れに弱いんだよ……春巻きの断ち切れは命取り……」
遥「食べ物なんだよね?」
くらら「研究燃料なんだよ」
遥「違うよ!」
⸻
■外出の決定
くらら「よし、買い出しに行きましょう!」
遥「突然の復活!?」
くらら「研究者はね、目的があるとすぐ元気になる」
遥「春巻きが目的って言うのやめよ?」
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■支度、そして遥の成長
くららは黒のパンツに履き替え、白衣をふわっと羽織る。
遥はジャージの袖を整え、軽く腕を振った。
遥「ん……」
“ギィッ”と金属棚が揺れた。
遥「うわ、また力入りすぎた……最近ちょっとだけ扱い慣れてきたと思ったのに」
くらら「いい傾向だよ。微妙な加減を感じ取れてるってことだから」
遥「褒められてるのか、戦闘生物として育てられてるのか……」
くらら「どっちも?」
遥「やめて!?」
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■カズの判断と、ラボの役割
カズ「主任。外出時、私が同行するのが安全性として最適です」
遥「ほんと!? 一緒に来るの?」
カズ「……でしたが、ラボ内部の“重要システム監視”を優先すべきため、私は残留します」
くらら「よし! いい判断!」
遥「初めてまともだよ……」
カズ「主任が外で爆発した場合は、ログを参照して後処理を行います」
くらら「だから爆発を前提にするなぁ!」
遥「爆発要因がこの人なのは事実だよね……」
カズ「それは否定できません」
くらら「否定してよ!!」
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■外の空気は驚くほど“軽い”
ラボのシャッターが上がると、冷たい朝の風が流れ込んだ。
遥「……外、めっちゃ気持ちいい……!」
くらら「地下暮らしだからね。外気に触れると脳みそが喜ぶ」
遥「わかる……ラボって空気……なんか濃いよね?」
くらら「コーヒーと失敗の匂いが混ざってるからね」
遥「どんな職場環境!?」
遥は深く息を吸い込み、軽くジャンプしてみた。
遥「……体が軽い。昨日より安定してる感じする」
くらら「でしょ? 筋繊維の反応と動きの同期が進んでる証拠」
遥「専門用語で誤魔化さないで!」
くらら「つまり、調子がいいってことだよ。よし、歩こうか」
遥「春巻きのために?」
くらら「研究のため!」
遥「一緒だよ!」
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■“ゆらぎ”は静かに忍び寄る
その時――
微かに電子的な、耳に残るような音が鳴った。
カズ「……主任。外部環境にごく小さな“ゆらぎ”を検知しました。
誤差レベルですが」
くらら「この辺りは昔からゆらいでるからね〜」
遥「“ゆらいでる”って何!? 地質の話?」
くらら「気分の話かも」
遥「もっとわからないよ!!」
カズのアイライトが一瞬だけ明滅したが、誰も気づかなかった。
その“ゆらぎ”が、
ほんの少しだけ――ほんの少しだけ、
久世ラボの日常に影を落としていることに。
■次回予告
第4.1話「久世くらら、買い出しに行く」
春巻き求め、くららと遥が外の世界へ。
道は静かで、風は心地よく、久世ラボでは味わえない伸びやかさが広がる。
しかし、二人は知らない。
その柔らかな風に“かすかな予兆”が混じっていることを――。
次回、ほのぼの日常回。
バカ二人+AI一体、買い出しへ出発。




