第3.7話 春巻きは科学
久世ラボのキッチンは、夜になると別の顔を見せる。
白い蛍光灯の代わりに、少し色温度の低い天井灯。
ステンレスの作業台と、年季の入ったコンロ。
そして――コンロの上には、たっぷり油を満たした深めの鍋。
時計は二十二時を少し回ったところ。
ラボ案内とカズとの初対面を終えた一ノ瀬遥は、エプロン姿の久世くららの隣に立っていた。
⸻
一ノ瀬遥「……本当に、これから春巻き揚げるんですね。」
久世くらら「うん。夜に揚げる春巻きはね、“研究後のご褒美”なんだよ。」
一ノ瀬遥「さっきまで実験で爆発してましたけど……さらに揚げ物って。」
久世くらら「爆発と揚げ物は別腹。」
一ノ瀬遥「そんなジャンル分けあるんですか……?」
⸻
くららは冷凍庫を開け、ごそごそと袋を取り出した。
中にはずらりと並ぶ春巻き。小ぶりのものから、少しずんぐりしたものまで形もさまざまだ。
久世くらら「ふふふ……見たまえ、遥。この春巻きたちを。」
一ノ瀬遥「なんでちょっとドヤ顔なんですか。」
久世くらら「実はね、全部中身が違うのだよ。」
一ノ瀬遥「えっ?」
久世くらら「まずは王道、ノーマル春巻き。
それから――エビチリ春巻き、野菜春巻き、肉春巻き、八宝菜春巻き、変わり種のバナナ春巻き。」
一ノ瀬遥「バナナ!? 最後だけ方向性がデザート。」
久世くらら「そして極めつけは――」
くららは一本、他のものより色の濃い春巻きを取り出した。
衣の端が、ほんのり黒みを帯びている。
久世くらら「地獄の激辛春巻き。赤を超えて、もはや黒。」
一ノ瀬遥「黒って何ですか黒って!? 食品の表現じゃないですよね!?」
久世くらら「安心して。ちゃんと食べ物だから。」
一ノ瀬遥「“ちゃんと”の基準がおかしいんですよ、くららちゃんは!」
⸻
■久世式・揚げ理論
鍋の油が、じりじりと音を立て始める。
温度計はない。かわりに、くららは油面をじっと見つめ、耳を澄ませていた。
一ノ瀬遥「……温度計、使わないんですか?」
久世くらら「ふむ、遥くん。いい質問だね。」
一ノ瀬遥「その“くん”付けはギャグモードって合図ですよね?」
久世くらら「春巻きはね、“音で揚がり具合を測る”んだよ。」
一ノ瀬遥「音……?」
久世くらら「そう。最初は“ボコボコ”。これは水分が逃げてる音。
途中から“パチパチ”に変わる。泡が小さくなって、衣が締まってきた合図。
最後に“シュン……”って、音が落ち着いた瞬間――それが、勝利のタイミング。」
一ノ瀬遥「勝利……。」
久世くらら「そう。“サクッと上がった瞬間”ってね、実はかなり狭い。
温度と時間だけじゃなくて、“音”“泡”“匂い”の変化をトータルで読むのが、真の春巻きマスター。」
一ノ瀬遥「なんか急に講義始まった……!」
久世くらら「揚げ物は科学だから。」
一ノ瀬遥「出た、名言みたいなやつ!」
⸻
くららは春巻きを数本、油の中に滑らせる。
投入の瞬間も、無駄がない。油跳ねを最低限に抑える角度で、するりと沈めていく。
一ノ瀬遥「入れ方まで綺麗……。」
久世くらら「ほら、今はまだ“ボコボコ”でしょ。」
一ノ瀬遥「……本当だ。さっきより音が大きい。」
久世くらら「ここで触ると衣が剥がれるから、我慢。じっと待つ。」
一ノ瀬遥は、気づけば真剣な顔で鍋を見つめていた。
さっきまで戦車より強い踏み込みテストをしていたのが嘘みたいだ。
⸻
■観察ノートと助手の仕事
一ノ瀬遥「……くららちゃん、ノート取ってもいいですか?」
久世くらら「春巻きの?」
一ノ瀬遥「春巻きの。」
久世くらら「いいね。助手らしくなってきたじゃん。」
一ノ瀬遥は、近くにあったメモ帳を引き寄せる。
一ノ瀬遥「ええと……『投入から二十秒:音“ボコボコ”・泡大』……」
久世くらら「真面目だなぁ。」
一ノ瀬遥「だって、くららちゃんの揚げ物、めちゃくちゃ美味しいじゃないですか。
あれ、再現できるようになりたいです。」
久世くらら「ふふ、それは嬉しいこと言うね。」
⸻
■揚げ上がり
油の音が、さっきより軽くなってきた。
久世くらら「――ほら。今、“パチパチ”に変わったでしょ。」
一ノ瀬遥「……本当だ。さっきより高い音?」
久世くらら「ここからが勝負。色と泡の大きさと、音のバランス。」
くららの表情が、いつになく真剣になる。
研究データを見るときと似た、集中した目。
久世くらら「……はい、今。」
カシャン、と音を立てて春巻きが油からすくい上げられる。
キッチンペーパーの上に並べられたそれは、きつね色に輝き、油の照りが食欲をそそった。
一ノ瀬遥「……美術品ですか、これ。」
久世くらら「科学の勝利だよ。」
一ノ瀬遥「出たぁぁ……!」
⸻
■実食タイム
テーブルに並んだ春巻きの山。
湯気が立ちのぼり、パリパリの衣が照明を反射している。
久世くらら「さ、遥。冷めないうちにどうぞ。」
一ノ瀬遥「どれが何味なんですか?」
久世くらら「それはね――食べてからのお楽しみ。」
一ノ瀬遥「やっぱりそう来た!!」
⸻
一ノ瀬遥は、普通そうな形の一本を慎重に選んだ。
一ノ瀬遥「……では、いただきます。」
カプッ。
――サクッ!!
一瞬、音が空気を切り裂いたように響いた。
中から、熱々のあんがとろりとこぼれ出る。
一ノ瀬遥「……っ、あっつ……でも……」
咀嚼しているうちに、表情がふにゃりと緩んだ。
一ノ瀬遥「おいしい……!」
久世くらら「それがノーマル春巻き。
野菜と肉と春雨の黄金比率。カリッとじゅわっと、永遠に食べられる系。」
一ノ瀬遥「危険なやつ……!」
⸻
次に、少しだけ丸っこい春巻きに手を伸ばす。
一ノ瀬遥「これは……エビ……チリ……? ピリッとしてて、でも辛すぎない……!」
久世くらら「エビチリ春巻き。ご飯にも合うけど、今日は単品で。」
一ノ瀬遥「レストランですかここ……。」
気づけば、皿の上の春巻きはみるみるうちになくなっていく。
遥の箸は止まらず、くららも負けじと次々に口へ運んだ。
久世くらら「春巻きはね、悲しい時も楽しい時もおいしい。
揚げればだいたい正解。」
一ノ瀬遥「名言っぽいような、雑なような……でも、わかる気がします。」
⸻
■黒い一本
皿の端に、一本だけ取り残された春巻きがあった。
他よりわずかに色が濃く、衣の隅が黒っぽい。
一ノ瀬遥「……くららちゃん。」
久世くらら「ん?」
一ノ瀬遥「これ、例の“地獄の激辛”ですよね。」
久世くらら「さて、どうかな?」
一ノ瀬遥「絶対そうですよね?」
久世くらら「科学者はね、仮説を立てたら検証しないといけないんだよ、遥。」
一ノ瀬遥「こんな時だけ科学振りかざさないでください!!」
⸻
一ノ瀬遥「……じゃあ、半分こしません?」
久世くらら「お、いいね。フェアだ。」
一ノ瀬遥は黒い春巻きを慎重に割る。
中から立ちのぼる湯気――その香りは、鼻にツンと来る刺激を含んでいた。
一ノ瀬遥「……これ絶対やばいですよね?」
久世くらら「“たぶん”くらいかな。」
一ノ瀬遥「その曖昧さが一番怖い!!」
⸻
二人は顔を見合わせ、小さく息を吸い込んだ。
久世くらら「せーの、でいこっか。」
一ノ瀬遥「……はい。」
久世くらら・一ノ瀬遥「「せーのっ!」」
カプッ。
――数秒の沈黙。
一ノ瀬遥「…………」
久世くらら「…………」
一ノ瀬遥の目に、じわりと涙が浮かんだ。
一ノ瀬遥「かっっっら!!!」
久世くらら「舌が、しびれるっ……!!」
一ノ瀬遥は慌てて炭酸飲料の缶を開け、ごくごくと流し込む。
一ノ瀬遥「ひぃぃ……でも、なんかクセになる……!」
久世くらら「これぞ、“地獄の扉の前でコーヒーを飲んでる味”だね……。」
一ノ瀬遥「表現が独特すぎますよ!!」
その言葉とは裏腹に、二人とも笑っていた。
⸻
■心に落ちる、ほんの少しの“なにか”
辛さが落ち着いた頃、くららはふいにマグカップを見つめた。
久世くらら「……こうやって誰かと一緒に食べるの、久しぶりだな。」
一ノ瀬遥「え?」
久世くらら「コーヒーと春巻きってさ、ひとりでも十分おいしいんだけど。
“誰かと一緒”だと、ちょっと味が変わる気がする。」
一ノ瀬遥「……それは、科学で説明できますか?」
久世くらら「できないから、たぶん“心”の領域なんだろうね。」
一ノ瀬遥は、少しだけ目を丸くした。
そして、小さく笑う。
一ノ瀬遥「じゃあ、これからもいっぱい実験しなきゃですね。」
久世くらら「うん。“一緒に食べるとおいしいもの”の研究、始めよっか。」
コーヒーの香りと、油の余韻と、ほんの少しの唐辛子。
久世ラボの深夜は、今日も静かに、でも確実に賑やかになっていく。
■次回予告
第1章 第3.8話「カズ、悪ノリを覚える」
春巻きの匂いがまだ残る久世ラボの朝。
ログを解析したカズが、なぜか“冗談”の精度を上げ始める。
皮肉屋サポートAIと、新米助手の距離が、少しだけ近づく――かもしれない。




