プロローグ:祈りと禁忌の狭間で
科学は、神に最も近い祈りだと、誰かが言った。
けれど、久世くららはそれを“退屈な言葉”だと思っている。
――この地球は、私たちの知るそれとは少し違う。
空には軌道エレベーターが伸び、月には都市があり、
AIが行政と経済を支える、人と機械が共に歩む時代。
だが、その世界には“境界線”があった。
人類はシンギュラリティを恐れた。
“完全自律AI”――自らを学び、意思を持ち、進化する存在。
それは、神にも等しい力を得る可能性を秘めていた。
だからこそ、世界規模の倫理条約によって
完全自律AIの研究は**禁忌**とされた。
人類は神を創ることを恐れたのだ。
だが、その恐れは、すでに手遅れだったのかもしれない。
それでも地上の人々は相変わらず不器用で、
朝には寝坊し、夜にはコーヒーを飲みすぎて後悔していた。
そんな“人間らしさ”を愛している科学者がいる。
彼女の名は――久世くらら。
独立研究施設「久世ラボ」の主宰者。
コーヒー依存、徹夜常習、そして、数々の発明と爆発を起こす変人。
だがその才能は、世界の技術を数年単位で進めてしまうほど異質だった。
無限再生エネルギー装置、自己修復素材、圧縮演算回路……。
彼女の作る発明は、時に神話じみていた。
しかし、くららの研究の一部は、禁じられた領域に触れていた。
AIが人を理解するのではなく、**AIが人のように“感じる”**ための構造。
世界が最も恐れた「意識ある人工知能」――
その扉を、彼女は静かに叩いていた。
それが罪であると知りながら。
だからこそ、彼女は人目を避け、
地上から離れた工業地帯の片隅にある研究所へ身を潜めている。
理由はただ一つ。
「私は、人類がゆっくり上がる階段を、五、六段飛ばしてあげてしまった」
そう呟く彼女の目には、どこか影があった。
創造の果てにあるのは、賞賛ではなく、責任。
その重みを知っているがゆえに、久世くららは“異端”として独りを選んだ。
それでも、彼女の研究室にはいつも光があった。
散らかった机の上に転がる工具、白衣の袖をまくった腕、
そして、湯気を立てるコーヒーカップ。
――そう、すべては“あの日”から始まった。
科学は奇跡を起こせる。
だが、奇跡を起こした者は、もう二度と普通の人間には戻れない。
久世くららが“人の命”を救った日。
その瞬間、彼女の運命はゆっくりと、静かに、狂い始めた。




