四 散り急ぎ華 中
──何故あんな唄を?
部屋に戻る道すがらも、葉山の替え歌について香月は思いを巡らせる。
──これから好き合ったお方の所に行けるというのに、なぜあんな哀しい唄を。あれではまるで……。
柄樽が割られていたから、当然の様に彼女は葉山が酔っているものと思っていたが、それにしては随分と寂しそうだったのも気になる。普通、こういった場合陽気になるのではないだろうか。
尤も、香月は葉山ではないから、正確な心中など推し量れるはずもないが──
──鷹信様なら。
あの明晰なお方なら、こんな時何とおっしゃるだろう──香月は鷹信の穏やかな笑顔を思い浮かべた。冷静だが決して冷酷ではないその言葉仕草。そこにただいるだけで、どんな時でも彼女の不安を消してくれる。
──今日はおいでにならないけど。
鷹信が彼女に渡した予定表の内容は、何度も見てもうすっかり暗記してしまった。それでも毎日欠かさず見ては、日付の下に印がないのを切なく感じる事を繰り返している。
ただでさえ、鷹信の足はここの所寿楽から遠退いていた。香月に飽きたのかというと、どうやらそうではないらしい。その証拠に、毎回予定の日が来ると代理の者が店にやって来て贈り物やら手紙やら、揚げ代を置いていく。
しかもたっぷりと色を付けて置いて行くので、楼主夫婦でさえも最近は呆れ顔だった。金持ちのやる事はよくわからねえ、と逆に零している位だ。
浅尾などは、それだけ香月が思われているのだと羨ましがっていたが、香月自身は複雑な気持ちだった。貧乏性などではなく、普段の鷹信を観察するに、彼には単なる優しさ以外に何か子細がある様な気がして仕方がないのだ。
──私は其方の琴の音を買ったのだ。それで充分だよ。
初めて会った夜、彼はそう言った。あの時はとても有り難い言葉だと思った。それは今でも変わらない。
感謝にほんの少しだけ切なさが加わっただけだ。大切な人だからこそ、不浄の自分を見せる気がして──抱かれるのは恐い。
出会ってから今まで、鷹信は相変わらず指一本触れては来ない。本当に琴の音だけにしか興味がないのか、それとも。
思考の迷路に入り込み、香月はついに立ち止まってしまった。考えても答えなど出るはずもない堂々巡り。角を曲がれば自分の部屋は近くなのに。
──もし、子細が解決して、あの方がおいでにならなくなったら。
涙が零れた。堪える暇もなかった。
「……馬鹿だ。私……」
両手で顔を覆って軽く嗚咽を洩らす。
既に香月にとって鷹信は客ではない。恋の何たるかを知らずに育ったから、この哀しみに付ける名前もわからない。ただ側にいると満たされるのだ──どんな他愛のない会話でも、たとえ会話がなかったとしても。
「……ええ、そうなんです。昨日はまだ少し良かったんですが……食の方は相変わらず進まないご様子で……」
回廊の向こう、ちょうど香月の部屋の方から声がする。鈴を転がす様な、よく聞き覚えのある声。
──祥ちゃん……?
「気鬱の病はそう早く治るとは限らないのが厄介なのだ。会う度私も、もう安心なのだと言って聞かせているのだが……」
──あの声は。
香月はそれまでの物想いを追いやって、静かに壁に身を寄せて角近くににじり寄り、二人の会話に耳をそば立てた。答えたのは男の低い声、独特な調子にすぐさま持ち主は知れた──ほのかに不快さを伴って。
──義方様だ。
衣服がかすかに擦れる気配がする。
「些少だが、これを河西に。薬礼も必要だろうし、何か滋養のあるものを食べさせてやりなさい」
「ありがとうございます……。姐さんが目覚められたら、久我様のお心遣い、必ず申し伝えておきますので」
粒がぶつかり合う様な音と会話から察するに、恐らくは金銭を与えられたのだろう。祥の声は心底感謝の念に満ちている。
「いや、言うには及ばない。私はただ、河西が元の通り明るく笑ってくれればそれで嬉しいのだ」
淡々とした声音に、かすかに優しさが滲んだ。何故だか胸の辺りが息苦しくなって、香月は壁に張りついたまま目を伏せる。
──何だろう、この感じ。
二つの足音は近づいて来る。どうやら義方は帰るのではなく、河西の許へ戻ろうとしているらしい。香月は伏せた目を上げて慌てて引き返そうと身構えた。
「其方は──」
上げた視線がまともに義方のそれとぶつかった。予想以上に彼らは近くにいたらしい。香月のすぐ側に黒に包まれた長身が、佇んでこちらを見ている。
蛇に睨まれた蛙よろしく香月は動けずにいる。辺りに纏わりつく様に漂う、花の香り。
義方は尚も何か言おうとしてか口を開いた。
「あれ、こんな所でどうしたんです? 香月姐さん」
一瞬早く、香月の背後から溌剌とした声が聞こえる。彼女はゆるゆると振り返った。
「浅尾、ちゃん」
河西の許に来た時に持っていた桶をまた手に抱えて、浅尾はきょとんとした顔を先輩遊女に向けた。
「てっきりもう部屋に戻られているとばかり思ってましたよ。どう……あら、義方様?」
隣にいる義方に気付くと彼女は破顔した。
「いらっしゃいませ。生憎姐さん寝てしまいまして」
構わない、と義方もうっすらと笑みを掃く。どうやら二人は随分と打ち解けた仲の様だ。
義方は固まったままの香月をちらりと見やって浅尾に問う。
「この者は? 格子楼で確か見た顔だが」
満面の笑みを崩さず浅尾は答えた。
「香月天神です。河西姐さんがお話ししていたお人ですよ」
「ああ、例の倉嶋侯爵の。なるほど、噂に違わぬ美しさだ」
義方は更に一歩香月に近づいた。頭から爪先まで無機質な視線で一撫でする。かと思うといきなり相好を崩した。
「聞けば河西の為に高価な薬湯を取り寄せてくれたそうだな。私からも礼を言わせてくれ」
「は、はい。恐れ入り……ます」
思いの他優しい言葉を掛けられて、かろうじて香月は笑みを形づくりはしたものの、どうしても顔が強ばるのを止められない。自身でも得心が行かない嫌悪感が、背筋から身体の隅々を満たしていく。
「出来る事なら私もずっと側について看病してやりたいが、仕事が忙しくてそれも叶わぬ話。私が頼むのも差し出口だが、よろしく計らってやってくれ」
真摯そのものとしか思えない口調に表情。どうやら目の前の人間の不可解な態度には気付かないらしかった。
香月はじりじりと足を横にずらしながら答える。
「は、はい勿論でございます。──それでは妾はこれにて」
そう言いながら、既に身体半分義方の脇を擦り抜けようと歩き出す。
「待て」
呼び止められ彼女は立ち止まった。何故か振り返る事が出来ず、視線だけで背後を窺う。
「何で……ございますか」
「あの薬、もしや其方が煎じたのではないかな」
声には面白がっている様な気配があった。それなのに香月の背中に戦慄が走る。彼女は思い切って振り返り、殊更大げさに驚いて見せた。
「まあ、とんでもない。妾ごときがそんな事出来る筈がありません。あれは倉嶋様が下さったのです──」
元より嘘偽りの下手な彼女の精一杯の演技である。わざとらしい程の棒読み口調、案の定義方は不透明な笑みを浮かべたまま、黙って香月を見つめている。むしろ二人の様子に浅尾の方が首を傾げていた。
「義方様、お薬がどうかなさったんですか?」
いや、と彼は笑うと踵を返す。尚も首を傾げる浅尾の横を通り過ぎて、河西がいる部屋の中へと静かに入って行った。
「……どうしたんです? 香月姐さん」
「ううん、何でもないの……」
「そうですか? 随分と顔色が悪いみたいですけど」
香月は意志を総動員させて首を横に振った。着物の背中が汗で湿っていて気持ち悪い。
「……大丈夫」
「そうですか? 何でしたら肩貸しますよ」
「ううん、本当何でもないから」
更に彼女が首を強く振って打ち消した時、葉山の部屋側の廊下奥から女将が姿を表した。三人の姿を認めて険しい顔をする。
「何だいお前達。もうじき昼見世だってのに」
「す、すみません」
代表して謝る香月を尻目に、女将はさっさと部屋の戸口に向かって声を掛ける。さっきとは打って変わった猫撫で声だ。
「太夫。いるんだろ? 王宮からお使者がいらしたよ」
浅尾は冷めた眼差しで女将を一撫ですると「じゃあ妾はこれ置いて来るから」と祥に言って歩きだした。香月もまた、部屋に向かおうと踵を返す。
「──寝てるのかい? 入るよ」
女将の声に早くも苛立ちが滲んだ。相手は国王の使者、待たせては一大事と焦っているのだろう。やや乱暴に襖を引き開ける音を、香月は背中で聞きながら角を曲がった。
耳を突き抜ける絶叫が廊下に谺した。
──何、今の。
香月は振り返り、来た道を戻る。葉山の部屋の前には二人の禿、それに隣から出て来たのか祥もいた。
三人とも一様に蝋の様に顔色を失くして、開け放たれた部屋の中を凝視している。その足元を潜り抜けて床に程近い位置から女将が顔を覗かせた。どうやら腰を抜かした状態で這って来たらしい。
「だ、誰か来とくれー!」
裏返った叫びが、尋常ならざる事態を告げている。
「どうしたんですか──」
香月の問い掛けは、隣から顔を出した義方のそれにかき消された。
「どうした、女将」
「た……た、ゆうが……」
それ以上言葉を発する事が出来ずに、 池の魚さながら女将はただ小刻みに口を開閉させる。
「太夫が……?」
義方は禿達の視線の先を探して葉山の部屋を覗き込んだ。戸口に辿り着いた香月が慌ててそれに倣う。
葉山は畳に仰向けに倒れていた。見開かれたままの両眼は血走って、不自然な形に反った身体や手足といい苦痛の跡がありありと浮かんでいる。鍵爪の形に折れ曲がった右の手の平から零れ落ちたものか、傍らにきらびやかな小さな袋が落ちていた。
義方は静かに部屋に入る。横たわったその身体の、首筋に手を当て目の中をじっと見つめた。
「……死んでる」
戸口で呆然と佇む香月は、彼の言葉の意味がわからず固まったままだった。
──今、何て?
まるでそこだけが時が止まった様に見える。奇妙に静まり返った不自然な空間、皮肉にも義方の黒づくめの異様な姿だけが現実味を帯びている。
動けないままの香月を彼は振り返った。
「楼主と、憲兵を呼んで来てくれ」
香月はそれでも動けない。瞳は彼を捉えている様に見えて、実は手前の空間を凝視していた。否、ここではないどこかを見ていたのかもしれない。
視界が黒く染まっていく。
「──香月!」
耳慣れない、感情に満ちた声。それが義方の驚愕の叫びだと気づく頃には、香月の意識は光の射さない闇の底へと急速に吸い込まれて行った。
※※※※
囁き交わす声が聞こえる。
「自分の部屋でだってさ」
「女将さんが見つけたって。傍には客の一人と天神がいたらしいよ」
「でも何だって自害なんか」
「自害なのかい?」
「それ以外に何があるのさ。国王に買われるからと言っても結局ただの遊女に変わりはないだろ。遊女を殺して何の得があるんだい? 馴染み客の妬みとか?」
「妬みなら他にもあるだろ──」
片割れが少しばかり声を潜めて続けた。
「……にしてもひどいもんだ。女将さんは寝込んじまうし、常盤と川瀬はあの通りだろ」
「親父さんも目に見えてやつれたね。国王様に合わせる顔がないとか言ってさ──それであんた、やっぱり疑っているのかい」
当たり前さ、と片割れが答えた。
「憲兵の旦那も、親父さん達も何にも言いやしない。居合わせた天神だってあの調子じゃね。……なのに表向きは病死って事にするらしいよ。おかしくはないかい?」
「身請けを厭っての自害かもしれないよ」
「それもないね。常盤あたりの話じゃ、話が決まってからの太夫は随分と上機嫌だったらしいし。大体あんた、『あの』楠王陛下を拒める女がこの世にいると思うかい?」
「確かにねえ……じゃあやっぱりこれって──」
囁きは更に調子を落とす。あるかなきかの、擦れた音。辺りを、誰かを憚る様に。
……さん。香月姐さん。
──声が遠い……。
今は一体何時なんだろう。辺りがひどく暗い。目の前がよく見えない程なのに、どうしてこの部屋には灯火が入っていないのだろう。
……しっかり、して下さい。
それともこれは夢か。闇夜ならば、皆とっくにお客様の相手で忙しいはず。
──ああでも。こんな時に、眠ってしまうなんて。
「姐さんっ!!」
肩に鈍い痛みを感じて、香月は顔を上げた。今にも泣きだしそうな表情をした浅尾が食い入る様に自分を覗き込んでいる。肩の痛みは彼女が自分を掴んでいるからだと、それでようやく気付いた。
「浅尾……ちゃん……」
浅尾の表情が泣き笑いのそれへと変わった。
「ここは……?」
香月はゆるりと辺りを見回した。どうやら誰かの部屋らしい。室内はまだ日の光で明るく、闇などどこにも見当たらない。
「覚えてないんですか? 太夫が亡くなって、店中もう大騒ぎだったんですよ。お使者の方も王様に報告すると言ってお帰りになりました。先程まで憲兵の方もお見えだったし」
言って彼女は上座を指し示した。
「憲兵の方がおっしゃるには、亡くなった理由に不審のかどがあるそうです。……お坊様が弔いを済ませたら、その後また来るとかで」
香月の茫漠とした視線が浅尾の指の先を追う。朱い調度に彩られているはずの部屋は今、黒と白に支配されていた。死者を悼む為の黒一色の屏風。それを背後にして畳に敷かれた床も枕も真新しい純白だった。横たわる葉山の首元には、黒玉繋ぎの数珠が掛けられている。
──太夫。
葉山は眠っているかに見えた。うっすらと化粧を施された顔は蒼冷めていたものの美しく、先刻の苦悶の跡はない。
──夢じゃ、なかったんだ。
ではここは葉山の部屋だったのか。そう言えば確かに、窓や襖の様子が似ている気がする。
「でも、どうして私達がここに──」
浅尾は微笑んだ。心労が浮き出た、引きつれた笑いだった。
「やっぱり覚えてないですよね……憲兵の方が店の者全員に事情を聞きたいとおっしゃったんです。それで妾らは全員ここに。今は……もう終わったのでほとんどが自分達の部屋に戻りましたけど」
確かに部屋の中には香月達の他にも幾人かの遊女が並んで座っていた。彼女が見ている間にも部屋から出ていく者もおり、残っている者の更に幾人かは何故か輪を作って小声でぼそぼそと話し込んでいる。
時折、こちらの方を──分けても、明らかに自分を──伺う様に盗み見ている事に香月は気付いた。
──何だろう、一体。
彼女らは、香月が見返している事に気付くと慌てて顔を背けた。当然、気分の良いものではない。
でも良かった、と浅尾は安堵の溜め息をついた。
「こないだ河西姐さんがあんな事になっちゃって、どうしようって思っていた所でしたから……香月姐さんまで同じ風になってしまうんじゃないかと気が気じゃありませんでした。本当に、元に戻ってくれて安心しました」
香月は振り返って、多少申し訳なさそうに問い掛ける。
「そんなに私、ひどかった?」
浅尾は頷いた。
「女将さんだろうが憲兵の方だろうが、何を聞いても答えられないご様子でしたよ。放心してたみたいで」
「そう……心配かけちゃったわね……」
無理にでも微笑みを形づくる。精一杯の、力ない笑い。
その時いきなり物が割れる音がして、彼女は音の出元を探そうとした。が、さして動く前に別の所から何か強い力が働いて、頭から後向きのままどうと倒される。後を追って、頭皮に刺す様な痛みが訪れた。
思わず開き切らない唇から悲鳴に似た音が漏れる。
──何!?
余りの衝撃に言葉もない。ややあってようやく、激痛は誰かに髪を思いきり引っ張られているからだと気付いた。
「何するんですか、常盤さん!」
悲鳴まじりに浅尾が叫ぶ。
常盤は香月の結われてもいない髪のほぼ全てを鷲掴みにしていた。制止の声など耳に入らぬ態で掴んだ片手を更に引き寄せ、空いている方の右手で香月を殴りつける。
「常盤さん!」
「止さないか、一体どうしちまったんだい!」
部屋に残っていたのは四、五人程度の女ばかり。常盤の尋常ならざる剣幕に畏れをなしてただ竦む者、部屋から逃げ出す者まで現われた。何とか中でも気骨のある遊女の一人が常盤を諫めにかかる。背後に回り込み、脇から腕を差し入れて羽交い締めにした。それでも常盤は香月の髪を離さない。
「放せ! こいつが姐さんを殺したに決まっているんだ!! 何でみんな、こんな女を野放しにしておくんだよ!」
浅尾が常盤の手のひらを無理 矢理こじ開けて香月の髪を取り上げる。そう衝撃があったわけでもないが、力なく香月は畳に倒れた。
浅尾が常盤を睨み付ける。
「香月姐さんがそんな事、する筈ないじゃないですか!」
常盤を押さえたまま女も彼女を宥めた。
「そうだよ──たまたまそこにいたからって犯人扱いはあんまりじゃないかい? 少しは落ち着きなさい」
「うるさい! 他に誰がいるって言うんだっ」
二人の言葉に常盤は一層暴れだした。何とか束縛を逃れようと藻掻く。
「ちょっとあんた達、黙って見てないで手伝っておくれよ──川瀬、あんたも常盤を宥めておくれでないか」
固唾を呑んで見守っていた周囲の女達が、呪縛が解けたかの様に常盤に駆け寄る。だが葉山の足元に突っ伏して啜り泣いていた川瀬は顔を上げるは疎か、一向身じろぎする気配すらなかった。
女は溜め息をつく。
「しょうがないねえ──浅尾ちゃん、天神を部屋に連れて行って差し上げなよ」
浅尾は頷くと倒れたままの香月の肩に手を掛けた。それを見て抵抗を止めていた常盤が再び咆える。
「姐さんじゃなくて、おまえが殺されれば良かったんだ! この人殺し!!」
「何を証拠にそんな事を? いい加減にして! あんた、頭おかしいよ!!」
吐き捨てて浅尾は香月の顔を覗き込む。
──私が。
「……さ、あんなの気にしちゃ駄目ですよ。部屋に帰りましょう」
──太夫を。
女の一人も香月の蝋の様な面に眉をひそめた。
「こりゃいけないよ。天神、歩けるかい?」
──殺した。
女の手がその身体を掴んで持ち上げる。浅尾と二人がかりでようやく香月を立たせ、片方の腕ずつ肩に乗せて戸口に向かって歩きだした。
──止めれなかったのだから、同じ事だ。
痛い。まるで頭そのものが心臓になったみたいに脈打つのを香月は感じた。常盤に掴まれた辺りから痛みを、痛みは驚愕と恐怖を呼んで瞬く間に全身へと広がっていく。
──一番最後に見た、葉山の笑顔。どこか寂しげな。
「香月姐さん。……大丈夫ですか」
己の力で歩くどころか、何の反応も返さない先輩遊女に浅尾は不安そうに問い掛けた。
窺い見た色を失くした面を、土気色の唇が少しばかり彩っている。
その唇が震えた。
「……浅尾ちゃん、私──」
「え?」
「殺されたんだ。姐さんの幸せを妬んで、逆恨みして殺したんだ!」
浅尾はぎょっとして背後を振り返った。抑えつけられながらも怒鳴るのを止めない常盤を恐怖の交じった眼差しで一睨みする。
「……ったの」
「姐さん? ごめんなさい、よく聞こえ──」
二人の会話を遮る、一際大きな慟哭。それでなくとも擦れた香月の声は、耳をそばだてないと聞き取れそうにない。
常盤が叫ぶ。
「太夫は──姐さんは……っ」
──何一つ、役には立たなかったの。あの時と、同じ。
「姐さんは、殺されたんだ! お前と、そして国王に──!!」
※※※※
遠い記憶の中に出てくる父親の姿は、いつも決まって自分に背を向けている様な気がする。
筆を持って何かを書き記したり、細長い玻璃の器に入っている薬を観察したり。朝起きて薬草畑の薬草を摘み、食事の時を除いては日がな一日そうして机に向かっていたからだろうか。
本来躾をするべき母親は病で既に亡く、乳母に育てられた香月は幼い頃から血筋か書物にばかり興味を示した。
それでもそんな親子の在り様に寂しさを感じた事は不思議とない。仕事に没頭している父親の背中を眺めながら、こっそり脇にある書棚の本をただ見つめる。そうすると彼はすぐに気が付いて立ち上がり、棚から本を一冊抜いて事もなげに貸し与えてくれた。告げもしないのに、父はいつも香月が何を読みたがっているのかわかっていた。
お前も親と同じ道を歩むか、それもまた良かろう──そう穏やかに笑う父が、香月はとても好きだった。
──だから。
父の背中が小さくなった。闇の中へと、記憶の向こうへと消えて行く。
──父と同じ道で人を救う為に、学んだのに。
消えた残像と引き替えに現れたのは──沢山の手。
そして目も眩む様な、朱色の檻。
「いやあああああぁっ!!」
「香月!」
振り上げた手を包み込む暖かい感触と優しい声。香月は目を見開いた。最初に視界に入って来たのは、梁の通った板敷きの天井。
──ここは。
「良かった……随分とうなされていたぞ。悪い夢でも見たのか」
再び聞こえた声の在処を探して彼女は首を左に傾ける。聞き慣れた涼やかな声は今不安気に曇っていた。
──今日はおいでになる日じゃないのに。
香月の目に、気遣わしげな鷹信の顔が映った。よく見れば、そこは紛れもない自分の部屋、着物もいつの間にか襦袢一枚となっていた。
己のあられもない姿よりも、彼女は鷹信の様子に気を取られる。いつもの忍び用の詰襟姿で、枕元に座っていた。どうやらしばらく前からそうして看病していたらしい。室内は既に夜を迎えたのか薄暗く、布団から少し離れた所にある行灯の仄かな明かりがぼんやりと辺りを照らしている。
「何か飲むか? ……と言っても水しかないが」
鷹信は手近に置かれた盆に載っている水差しを手に取った。薦められるがまま香月は細長い注ぎ口を口に含む。冷えた水の感触が喉を伝って行った。
ふいに、涙が零れた。
「香月───……」
視界が滲んで、鷹信の顔はよく見えない。それでも、彼の困惑は手に取る様にわかった。
「無理もない。あの様な酷い姿を見せられては。葉山と直前に話していたのだろう?」
香月は答えない。代わりに涙の滴がはらはらとただ頬を流れ落ちて行った。
「気の毒な……辛い思いをしたな」
涙を拭い取ろうとする鷹信の指先を、半ば払い除ける様にして香月は首を横に振った。
「──違うんです」
「違う?」
彼女は駄々を捏ねる子供の様に首を振り続ける。
「妾はまたも何一つ、役に立てなかった。余りに情けのうございます……」
「またも?」
鷹信の声は穏やかだった──穏やか過ぎる程に。だが香月はそれに気づかない。
「あの様にいともたやすく、人の命は蝕まれてしまう。それを防ぐのが妾の使命だった筈なのに!」
涙を零しながらきつく布団の端を握り締める。よりによって『また』、自分の目の前で。
響き渡る慟哭、怨嗟の声、果てしのない無力感。
そんなものは、もうたくさんだと思ったのに。
「──お父上の──嵯峨伯の事だな」
静かな問い掛けに香月の動きが止まる。鷹信を見上げ、その表情が意味する所を知った。そして知ってしまった事を激しく後悔した。
「ご存じ……だったのですか」
鷹信は頷く。
「劉幻の琴は二つと同じ物はないと聞く。以前王宮で見た時『香月』は陛下の御物だった。博士卿に下賜なされたと聞いたが……嵯峨伯だとは知らなかったのだ。其方の琴を見た時は驚いたよ。──それで悪いが、調べさせてもらった」
いつもと変わらぬ口調。他に物音一つ聞こえない夜の静寂を低く揺らす。この声は毒だ、彼女はそう思った。するすると心に入り込んで、閉じられた記憶の扉を開けてしまう──
否、開けたのは自分なのだ。
「父は──父もまた、何者かに殺されたのです──」
甦る忌まわしい、悲しい記憶。普段から父親の身の回りの世話は、家人ではなく香月の役目だった。だから夕方、いつもの時刻に自室から出てこない父を呼びに来た時、この世のものとも思えない恐ろしい形相で事切れている姿を最初に見たのもまた、彼女だった。
「その話も──調べさせてもらった。嵯峨伯は研医殿の調査によって毒殺されたとわかったとか」
横たわったまま香月は小さく頷く。瞳に溜まった新たな涙が頬を滑り落ちた。
「結局犯人はわからず仕舞いで、刑吏府は未だ捜査中と聞いた」
「刑吏府は──何もしてはくれませんでした。おざなりの捜査だけで、明らかに関心がない素振りまでしたのです。あれはどう見ても──」
「どう見ても?」
一瞬の沈黙の後、彼女はそれまで見開いていた瞳を物憂げに伏せた。
「……とても、信じられない話です。口に出すのも憚られる様な」
「私には言えない事か?」
香月は鷹信の顔を見上げた。行灯の細長い明かりに深い影を落としているせいか、その表情はどことなく哀しげだ。
「わかりません……」
彼が信用出来ないわけではない。ただ、恐ろしいのだ。父親が死んだ時の出来事は、悲しみ以上に香月の心に傷を残した。『その事実』を知ってしまった時の、真っ黒な光に照らされる様な恐怖は今でもありありと記憶に焼き付いている。
──それをもう一度繰り返すのか。
横たわっているにも関わらず、眩暈を覚えた。
黙ったきりの香月をやはり同じ様に鷹信もまたしばらく何も言わず見つめていたが、ふいに口を開く。
「そうか。ならばこれ以上聞くまい。いずれ話せる時が来たら教えてくれ」
溜息交じりの口調だった。
「……申し訳ございません」
「その代わり」
痛みでも堪えているのかと思わせる、苦しげな声。香月は嫌な予感がして眉をひそめた。
「頼みが一つだけある。葉山の亡き骸を、──検めてくれないか」
まるで耳鳴りを起こしそうな、重苦しい間が訪れた。
──今、何て?
「何と……おっしゃいました?」
己が耳を疑って、香月は布団から半身を起こして鷹信に詰め寄った。鷹信は身を引くでもなく目を逸らすでもなく、彼女の痛い程強い視線を真っ直ぐに見返して来る。その真摯さが逆に今は、ささくれだった心を抉った。
「妾に……太夫のあの身体を……もう一度見ろと?」
──鷹信様は。
気の毒に、と言わなかったか。温かく慰めてくれはしなかったか。
──それは、『もうそんな目に合わなくても良い』という意味ではないのか。
──同情すると言った、その舌の根も乾かない内に。
香月は思わず──この街に来て初めて、否もしかしたら生まれて初めてかもしれなかったが──怒りに声を荒げた。
「三度苦痛を受けよとおっしゃるのですか!? 何の為にそんな真似を妾がしなければならないのです!」
「落ち着いてくれ、香月」
鷹信は香月の身体を抱きしめた。しかし激昂している彼女は尚も拳を振り上げて、自分を包む広い胸板を力の限り殴りつける。
「嫌です! もう人が死ぬのを見るのは嫌なんです! ──放して下さい!!」
「其方の気持ちはよくわかるが、これは葉山の為なんだ」
「いいえ、わかっていらっしゃらない。鷹信様はこれっぽっちもわかっておいでになりません!!」
叩き疲れた拳は程なくして、力尽き両脇に落ちた。
「わかっていないのは其方の方だ」
抱き締める腕が不意に緩んだ。とめどもなく涙を流しながら鷹信の鎖骨辺りを香月は呆然と眺める。その頬を、彼は両手で挟んで上向けた。
「これ以上人死には見たくないと其方は言ったが、葉山の死は実は根が深いのだ。手をこまねいていれば恐らくまた人が死ぬ。それを阻止出来るかどうかは其方次第だ」
「妾……次第?」
言葉の意味もわからないまま、香月はただ繰り返す。
「そうだ。詳しく今話す事は出来ないが、葉山の死は仕組まれたものなのだ。──そして死因を解明しなければ、事件は終わらず、殺人者によってまた犠牲者が出る。彼らの目的は」
鷹信は一旦言葉を切った。まるでその事実を口にするのを躊躇う様に。
「人を虫螻の様に殺す事によって、陛下を追い墜とす事なのだから」
それまで焦点を結ばなかった香月の視線は、今や穴が開いてしまいそうな程強く鷹信を見つめていた。端整な面が灯火を受けて、紡がれたばかりの言葉の現実味を更に失わせる。
「……陛下を、追い墜とす?」
鷹信は頷いた。
「そうだ」
「ただ……それだけの為に?」
「香月、それは──」
たしなめる彼の声を香月は無視した。
「そんな事があると言うのですか? たった一人の人間を陥れる為だけに、他の人の命を奪うなどと?」
鷹信は痛みをこらえる様な表情でまた頷く。
「それが彼らのやり方なのだ。手段を選ばず、陛下ご自身のお命までもが狙われている。だから香月、助けてくれないか。……それが葉山の供養にもなろう」
哀しげな瞳がひたと彼女を掴んで離さない。
香月は目を逸らした。ややあってぼそりと呟く。
「……です」
「何?」
鷹信が耳を近付けるのを感じる。いつもそこにあるだけで、感じられる温かい気配。
──卑怯です。鷹信様。
わかっていた。彼が目的の為にここに来て、隠れ蓑として香月を選んだ事は。
途中でこの娘がもしかしたら使える──そう思っていたのだろう。だから味方に付ける様優しく──
そう失望し、幻滅出来たらどんなに良かっただろう──否、確かに失望はしているけれども。
きっと重ねて断れば、彼は無理強いはしない。哀しそうに笑って手を引くだけだ。
そして自分の元を、永遠に去ってしまう。
「わかり……ました。検めてみましょう」
「そうか。やってくれるか」
心からの安堵を隠し切れない、鷹信の声。痛みを感じながら、気付いてしまったのだから仕方がないと、香月は瞼を閉じた。
最後に見た葉山の、どこか寂しげな笑顔が浮かぶ。
──頑張っておくれ。大事な物を守れる様に。
これが、多分そうなのだろう。
失望して初めて己の感情に気付くなんて。余りに強くて、逃げられない。
──ならば。
宥める様に柔らかに背中を撫でる彼の手の平を感じながら、香月はゆっくりとその胸に身を預けた。